好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ヘレン・ンゴ『人種差別の習慣 人種化された身体の現象学』(小手川正二郎/酒井麻依子/野々村伊純 訳)を読みました

新宿紀伊國屋書店でたまたま見つけて読んだ本ですが、非常に良かった。私が今すごく読みたい内容の本だったので、なるべく積まずに読み始めました。四つの章に分かれていて、週末に一章ずつ読み進めて一カ月で読み終わった。
内容はタイトルの通りで、人種差別がどのような習慣的な行為として日常の中に表出しているのかを考察したものですが、特徴的なのは著者がオーストラリア育ちの中国系ベトナム人であることで、差別される経験を持つ人であること。論の進め方については目次見ていただいたほうがわかりやすいと思うので、青土社のサイトに記載があったものを載せておきます。

序論
第一章 人種差別の習慣――身体的な仕草、知覚、方向づけ
 第一節 習慣と習慣的身体
 第二節 習慣は社会的でありうるのか
 第三節 習慣的で身体的な仕草や知覚のなかの人種差別
 第四節 習慣的な人種差別と責任

第二章 人種差別と人種化される身体性の生きられた経験
 第一節 人種差別と人種化の身体的な経験
 第二節 白人の身体性と存在論的な拡張性

第三章 不気味さ――人種化された居心地悪い身体
 第一節 不気味さ(Unheimlichkeit)と人種化された身体
 第二節 家の多孔性、身体の多孔性
 第三節 家は必要なのか

第四章 人種差別のまなざし――サルトルの対象存在とメルロ=ポンティの絡み合いとの間で
 第一節 対他的身体、対象性、人種差別のまなざし
 第二節 まなざし–対象の存在論を複雑化すること――目を向けることの様相、見られている自分自身を見るこ と、そして身体の両義性
 第三節 メルロ=ポンティの絡み合いと、人種化された身体性における主体–客体の溶解
結論


私は第三章を特に興味深く読みました。
現象学としてのアプローチはメルロ=ポンティの『知覚の現象学』を下敷きにしているけれど、必要に応じて引用してくれているので未読でも大丈夫です(私も未読だった)。人種差別の事例については過去に報道されたニュースやアジア人女性として生きている著者自身の体験談のほか、ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』からの引用が多数あります。

私の探求の指針となるのは、次の二つの主要な問いである。第一に、現象学の諸分析はどのようにして人種差別的慣習の新たな領域や様態を見分けるのに役立つのか。ここで私が依拠するのは、フランスの現象学者モーリス・メルロ=ポンティが残した方策であり、習慣的な身体についての彼の考え方は、人種差別のより繊細で基本的な働きのいくつかに向かう道を切り拓くものだということを論じる。第二の問いは、人種差別と人種化の身体的経験とはどのようなものであるか、そしてそれは、身体的な存在である――それに伴って社会的に状況づけられた存在である――という私たちの本性について何を教えてくれるのか、というものだ。(P.14)

印象に残った論点はいくつもあるのですが、全部書いているとキリがないので、特に気になった点をいくつか書いておきます。



まずいいなと思ったのは、人種差別という事象を「そういう時代の教育を受けたからね」と環境のせいにしたり「そういうつもりじゃないんだけど」と悪意がないのを言い訳にしたりすることに対して、明確なNOを伝えているところ。今まではそうだったかもしれない、そういう環境で育ってそういう先入観を持って生きてきたかもしれない、でもこれからどうするかはあなた自身の責任で振舞うことができるんですよ、というメッセージ。

しかし、私の主張は、自分の状況に対する責任だけでなく、とりわけ人が能動的な意味で習慣を保持し、そのような習慣が他者を人種として対象化し、危害を加え、抑圧している点で、その人は自身の身体的な習慣に対しても責任を持つことができ、また持つべきである、というものなのだ。(P.102)

これはただ相手を責めているわけではなくて、諦めるなということだと捉えたい。
私自身は基本的に「罪を憎んで人を憎まず」スタイルなのですが、上記主張と共存することはできると思っている。確かにあなたは(そして私も)人種差別を容認する社会に生きてきて、そういう価値観でこれまで生きてきた、それは事実。とはいえその状況に自覚的であれば、自らの価値観をちょっとずつでも変えていくことができるんではないか? 差別は悪いことだと頭の片隅で分かっていながら、何もしないでいるのは、それは環境のせいではなくてあなた(そして私)の責任なのではないか?



人種差別をされる側の人たちは、一種の諦めとともに、差別社会を生き抜くための対策を日常的に講じている。

私たちは誰もが就職面接や銀行口座開設時の面接では、要するにイベントや特別な機会には、普段とは異なる仕方で振る舞う。これに対して、人種化された身体の場合、この種の作業は、公園を散歩したり街を歩いたり毎週の買い物をしたりといった特別でないことの間もなされている。(P.125)

居心地の悪い教室でなるべく目立たないようにやり過ごそうとするように、変なトラブルに発展しないような行動(ヴィヴァルディを口笛で吹く、猫背で歩くなど)をあらかじめ実施する必要がある生活があるのだ。くつろぐことなどできず、臨戦態勢が日常である生活があるのだ。
誰かの不快な気持ちの上に成り立つ幸福はすべて幻想だし、誰かが我慢することで成り立つ生活はどんなに快適でも拒否すべきだと思っている。精神的な賄賂は世間に溢れていて、良かれと思って便宜を図ってくれることを精査するのはいつも難しい。難しいけれど、面倒くさがって何もしないのは罪の片棒を担ぐことになる。差別する側の人間は、大抵気づかない(見なかったことにしたりもする)。

トラブルを防ぐための振る舞いが不条理なものだと思ったとしても、それをしないことによる時間のロスなどを考えると、まぁいいやと思うこともあるだろう。人生は短いので、そういうことに費やす時間などないのだ。
そして何も変わらない。


どうして人種で人を差別することが悪いことなのか、という問いは、なぜ人を殺してはいけないのかという問いと同じ種類のもので、どんなに不快でも繰り返し答えていかなくてはならないものだ。そう決まっているからだとか、それが悪だからとか、そういう曖昧な回答では抜け道が発生してしまう。
誰だって、自分にとって都合のいい現実が嬉しいし、自分の気持ちを正当化してくれるものがあれば依存したくなるものだ。それは、そういうものだ。だから、そっちに行かないように、ちゃんと理論で根気よく説明する必要がある。

本書では人種差別が悪である理由について、現象学的な見地から以下のように書かれていた。

人種差別は、私たちの主体-とー対象という必然的に乱雑で両義的な本性にもかかわらず、私たちを主体-対象の存在論のモデルへと押しやり、一つの世界を(白人の)主体と(人種化された)対象へと分裂させようとする。そうすることによって、人種差別は、二元論的な世界、つまり文字通りの、そして比喩的な黒(人)と白(人)の世界を代わりに作り出し、身体化された存在の流動性と両義性を消し去ってしまう恐れがある。(P.318)

通常の対等な関係であれば状況によって「主体(見る)/対象(見られる)」は相互に入れ替わることがありうるけれど、人種差別が起きている状態では対象は常に対象であって、主体となることが許されないということだ。これは、人種差別が悪であるという客観的な理由のひとつとして十分なものだと思う。
とはいえ、悪いかどうかっていえば悪いのだというのは本当は分かっている人はかなりたくさんいて、何か別の理由があって見ないふりしたいのではないかというのが最近の私の考えである。正義を訴えても状況が変わらないのは、たぶん正義以外にそうしたい理由があるからで、なら相手に合わせた観点で相手が不当な行為をやめようと思えるようなアプローチする必要があるのではないか。とはいえそれは、本書とは関係のない話。


本書では人種差別が外見的特徴(白人と、それ以外)で差別対象かどうかを判断する状況を前提としている。そのとき、差別する側からされる側へのまなざしには暴力性が潜んでいて、相手を差別される側の人種に規定したその瞬間から、相手に分相応な態度を要求することになる。そこから逸脱する存在を認めることはない。

 人種化するまなざしは、その根底にある、自分の認識や観点が権限を持つという感覚を表現している。(P.270)


裏を返せば、まなざしには大なり小なり権力が潜んでいることを自覚すべきということでもあるだろう。実際に権力を持って相手を見つめることもある(審査とか面接とか)けれど、友人との会話や電車でどこの席に座るか決めるときの0.1秒程度の一瞥にも、何らかの力場は存在する。権力っていうと悪いイメージだけれど、常に悪というわけではないだろう。ただ、固定化してしまうのは不健全だというのは、よくわかる。
本書で書かれている差別は人種差別にフォーカスされているけれど、同じようなフレームワークを使って、異なる問題を分析することも可能だと思う。世界があまりにもくつろげる場所になることの危険性などは最近のインターネットにも言えることだと思うし。


私は日本国内ならわりと強い立場にいる人間だという自覚はある。それはつまり他者の人権を侵害する危険性も高いということだ。たぶん気を付けたって過失は犯してしまうし、そもそも私は他人の心の動きに気を配れるタイプではない(人付き合いは恐ろしい)。だからといって、しょうがないよねで諦めるのも癪だし、相手を嫌な気持ちにさせてしまうことが一回でも減らせればいいなと思っています。
なのでこの本が読めたのはとてもよかった。翻訳して刊行していただいて、ありがとうございました。

2023年回顧

この間年が明けたと思ったらもう暮れてしまった。
それでも2023年は、2022年よりも人間らしい生活ができたのではないかと思っています。中でも『現代SF小説ガイドブック 可能性の文学』『SFマガジン10月号 特集「SFをつくる新しい力」』にブックレビューを載せていただけたことは、2023年のみならず、私の人生全体でもかなりの大きな出来事でした。関わらせていただいた皆様、本当にありがとうございました。

というわけで、毎年恒例の今年のベスト本を記録しておきます。ルールは以下。
(1) 2023年に刊行された本ではなく、あくまでも私が2023年に読んだ本の中から選んでいます。
(2) ベストテンというほど厳密な順位付けがあるわけではなく、タイミングによって順位変動が発生しうることがあります。
(3) 読書メーターによれば、2023年に読んだ本は82冊。ここには、文学フリマで入手した同人誌は含まれません。(来年は100冊くらいは読みたいものだ)

では行きましょう。

1. ハーマン・メルヴィル千石英世訳)『白鯨』(講談社文芸文庫
ずっと読もうと思っていた一冊だったという思い入れ加点もあってランクイン。非常に好みでした。長編小説の良さというのを再認識させられた。長さが必要な場合があるのだ。
感想はこちらに書いています。

2. 青島もうじき『私は命の縷々々々々々』(星海社FICTIONS)
あまりに好きすぎて言葉に迷い、まだブログに感想を書けていないのですが、とっても良かったです。私は大人になってからこの本を読んだけど、10代のころの自分がこれを読んでいたら、きっとまんまと踏み外していたと思う。かわいくてファンタジックな顔をしていながら、内容はすごく挑戦的なところが好きです。

3. 松波太郎『そこまでして覚えるようなコトバだっただろうか?』(書肆侃侃房)
青山ブックセンターでなんとなく気になって買って読んで、めちゃくちゃ衝撃的だった短編集。コトバも人間もどう足掻いても不完全で、右往左往しながら生きるのだ。
感想はこちらに書いています。二作目の「イベリア半島に生息する生物」が一番好きと書いているけど、今振り返ると一作目の「故郷」の味わい深さを反芻したくなる。

4. 朝比奈弘治『夢に追われて』(作品社)
装丁の美しさもさることながら、全16篇の完成度の高さに度肝を抜かれた一冊。「蕎麦殻の枕」の恐ろしさには震えた。「クダアリの話」「間男」「丘の上の桐子」「山荘日記」あたりの静かな狂気がたいへん好みでした。
クノーの翻訳もされているとのことなので、ぜひ読んでみなくては。来年の課題本にしよう。

5. マリアーナ・エンリケス(宮﨑真紀訳)『寝煙草の危険』(国書刊行会
最高でした。装丁も気合入っていてとても好き。短編集なのですが、良作ぞろいなのもすごい。なんという完成度。
清潔ではない肉体を引きずって、くだらない世界を彷徨うしかない私たちだけど、何か一つでもキラキラしたものがあればそれをよすがに生きていけるかもしれない。ということを感じた。めっちゃよかった。

6. 後藤明生『挟み撃ち』(講談社文芸文庫
雑誌「代わりに読む人」準備号でその存在を知り、ずっと読もうと思っていてようやく読んだ一冊。文学っていいものだなって思い出させてくれた長編小説でした。信頼の講談社文芸文庫
感想はこちらに書いています。今読み返したら、後藤明生の叢書が刊行されていると記事に書いていますね。一冊買ったけど、まだ全冊揃えられていないし、まだ読めていない。今後のお楽しみということで。

7. ジェフリー・フォード(谷垣暁美訳)『最後の三角形: ジェフリー・フォード短篇傑作選 (海外文学セレクション)』(東京創元社
『言葉人形』ですっかり魅了されてから、ずっと待ってたジェフリー・フォードの新刊!相変わらずめちゃくちゃうまい。
物語の王道として、成長する主人公を導く役目を担う登場人物が存在することが多いけれど、フォードはその導き手の描き方が異様に上手いように思う。「トレンティーノさんの息子」に出てくるハンターとか。作者の目論見通り踊らされる読者に甘んじるのも悔しいのですが……いいんだよなぁ。

8. 郝景芳(及川茜・大久保洋子訳)『流浪蒼穹』(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
2022年に出ていながら読みそびれていたのを今年読んだのですが、めちゃくちゃよくてですね。郝景芳、これまで短編しか読んだことなくて、それでもいいなって思っていたけど、『流浪蒼穹』で好きな作家のひとりになった。異なる二つの考え方のどちらにも良し悪しはありうるという描き方がフェアだった。起きてしまったことは変えられなくても、未来は自由であるはずで、進みたい未来は作り出せるはずだという前向きなメッセージがすごく良い。

9. ジェニー・クリーマン(安藤貴子訳)『セックスロボットと人造肉 テクノロジーは性、食、生、死を“征服"できるか』(双葉社
まず、著者の意見に賛同できない部分があることを表明しておきます。とはいえ私の興味のある内容だったので、すごく面白かったし、いろいろ考えるきっかけになった。賛同できない意見が書かれているからこそ興味を持って読むのだともいえる。
技術は日進月歩だから、今はもっと実用化が進んでいるのではないか。こういうジャンルの本は、一年に一冊くらいは読んでおきたい。
感想はこちらに書いています。

10. 能仲謙次榛見あきる武見倉森揚羽はな菊地和広渡邉清文稲田一声『トランジ 死者と再会する物語』(同人誌)
文フリで買った「故人AI x 不死化社会アンソロジー」、これめっちゃ好きなんですよ。生前の記録をもとにAIが死者を再現するサービス<共同墓地>が実用化した近未来の話で、ゲンロンの講座出身者6名が同じ世界観を共有して書いた短編が集められています。なんていうか、テーマ設定が私の好み過ぎた。巻末に世界観年表もついているので妄想も捗ります。個人的には表紙の紙質がすべすべで手触りいいのもポイント高いです。
感想はこちらに書いています。



以上です。ほかに特に気に入った本としては下記がありました。名前だけ挙げておきますね。ほんとはもっとあるけどな!
・マシュー・ベイカー(田内志文訳)『アメリカへようこそ』(KADOKAWA
・春暮康一『法治の獣』(ハヤカワ文庫JA
・春暮康一『オーラリメイカー〔完全版〕』(ハヤカワ文庫JA
・川野芽生『無垢なる花たちのためのユートピア』(東京創元社
・アンソロジー『絶縁』(小学館
・イサク・ディーネセン(桝田啓介訳)『バベットの晩餐会』(ちくま文庫
三島由紀夫豊饒の海』(新潮文庫


おおむね読書量も回復してきたし、来年はもっともっといろんなものが読みたいなと思っています。読んだことがないようなものを読みたい。ジャンルもなるべく広くして、思想的な偏りがないようにしたいと思っています。

本年は皆様のおかげで大変楽しい一年でした。来年もよろしくお願いいたします。

ロジェ・グルニエ『長い物語のためのいくつかの短いお話』(宮下志朗 訳)を読みました

年が明ける前に、このブログに書いておかなければならないことがある。
それは、2023年にロジェ・グルニエの新刊が出たということだ!!!

ロジェ・グルニエは1919年にフランスのノルマンディ地方に生まれ、2017年に亡くなった文筆家である。レジスタンス活動家、ジャーナリスト、編集者などの経歴を持っていて、エッセイが抜群にうまい。長編小説も書いているけど、私は短編小説のほうがいいなぁと思っている。文章がエレガントなのだ。書くべきことと書かないことの使い分け、短い文章に奥行きを持たせる技が好き。訳者にも恵まれているんだろうな。

私は2011年に日本で刊行された『書物の宮殿』をたまたま図書館で借りて読んで、ものすごい衝撃を受けて(たまにこういう運命の出会いがある)、それからグルニエの本を読み漁り買い漁って今に至っています。コンパクトで研ぎ澄まされた彼の文章が好きで、しかし絶版本も多いので、古本屋で未入手の本を見かけたらとりあえず買うようにしている。だいたいブックオフにはなくて、こじんまりとした海外文学が得意な古本屋さんに、5~6冊並んでいることが多い。グルニエの本を置いてくれている古本屋さんは私のお気に入りになる確率が高い。

2017年に訃報を聞いてからは、もう新刊が読めないのだと諦めていた。しかし! 2012年にフランスで出版されていた本書が、なんと2023年の今年になって、出版されたのだ! 白水社ありがとう! 宮下さんありがとう!! 未訳の作品たちも、ぜひとも出していただけないでしょうか……頑張ってフランス語で読むという方法もあるけど、叶うなら宮下訳のグルニエをもっと読みたいです。

そんなグルニエの新刊『長い物語のためのいくつかの短いお話』、書店に並んでいるのを見たとき目を疑ったこの新刊、ずっと前に読み終わっていたけれど忙しくてぜんぜんブログに書けなかったこの新刊の存在を少しでも皆さんにお目にかけたいと思う。
グルニエが得意とする短編集(掌編といえるほど短いものもある)で、92歳で亡くなった彼の生涯最後の本とのこと。全十三編の作品が収められている。
訳者あとがきにも書かれている通り、グルニエは自身の経歴とフィクションの設定が重複するものが多いのが特徴だ。しかしフィクションなので、ちゃんとフィクションとして面白くなるように脚色しているのがグルニエの憎いところ。現実とフィクションの棲み分けなんて大した問題ではないのかもしれない。夢であれ現実であれ、どっちだって楽しかったり悲しかったりするのだし。人間の記憶なんて所詮そこまで正確なものでもないし。
死ぬまで編集者としての仕事を続けて、自身の老いを笑い飛ばすような小説を書いていた。聖人君子ではなさそうだし、嫌みなとこもあるけど、でもやっぱりグルニエの文章はずっと好きだ。彼の本を読みつくしてしまうのが寂しくて、未読のものをちょっと残しておいたりしていたので、新刊として出たのが本当に嬉しかった。ありがとうございます。
やっぱり原書にも挑戦してみようかな。山田稔さんと宮下さんの訳と一緒に並べてフランス語で読んでみたい。



下記に、備忘を含め、各短編についてひとこと書いておきます。ネタバレはありませんが、未読の方はご注意ください。

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週末翻訳クラブ バベルうお『BABELZINE vol.3』と白川眞「ラビット・テストと中絶をめぐるSF」を読みました

babeluo.com

2023年5月に発売されていた翻訳サークルバベルうおさんの『BABELZINE vol.3』を読みました。5月に東京で開催された文学フリマで新刊として出ていたのを知っていたのですが……出遅れて入手叶わず……11月の文学フリマ東京でようやっと手に入れることができたのでした。ちなみにオンラインでも買えます。

『BABELZINE vol.3』には全9編の活きのいい小説が収められていました。内容は以下。

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マリア・ハスキンズ「天に輝くいちばんの光」(白川眞 訳)
キャロリン・アイヴス・ギルマン「帰郷」(藤川新京 訳)
アラヤ・ドーン・ジョンソン「ハワイの果実ガイド」(藤川新京 訳)
ジョン・ウィズウェル「百手のキムを鎮めるに際してのガイドライン」(平海尚尾 訳)
レベッカ・キャンベル「大いなる過ち」(藤川新京 訳)
アレクサンダー・ワインスタイン「マイグレイション」(白川眞 訳)
イザベル・J・キム「クリストファー・ミルズの差戻し」(白川眞 訳)
グレゴリイ・フロスト「マキラドーラの聖母」(藤川新京 訳)
ラヴィ・ティドハー「ホエイリアンたち」(鯨井久志 訳)
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読んだことがない作家さんがたくさん掲載されていて嬉しかったです。アンソロジーのいいところだ。
毎回のことながら、今回も豊作ぞろいで素晴らしいラインナップでした。バベルうおさんのアンソロジーなら間違いないって思わせてくれて、実際その通りなの、改めて考えるとすごいな。もう3冊も出てるのに。


そしてもうひとつ、11月の文学フリマ東京では新規にペーパーが販売されていました。それがBABELZINE主宰の白川眞さんによるエッセイ「ラビット・テストと中絶をめぐるSF」です。これが非常に良かったということを、声を大にして書いておきたい。

このエッセイは、2022年にアメリカで発表されたサマンサ・ミルズによる短編SF小説 "Rabbit Test" をよりよく理解するための資料として、アメリカの中絶に関する歴史を紹介したものです。同2022年に発表されたMKRNYILGLDの "The CRISPR Cookbook: A Guide to Biohacking Your Own Abortion in a Post-Roe World" 、ハーラン・エリスンの「ジェニーはおまえのものでもおれのものでもない」、フィリップ・K・ディックの「人間以前」、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアラクーナ・シュルドン名義)の「肉」を引用しながら、プロライフ派(胎児の生命を尊重する立場)とプロチョイス派(女性の人権を尊重する立場)とはどのような立場なのかも含めて、丁寧に説明してくれていました。
私が一番いいなと思ったのは、中絶反対派/中絶容認派という呼称ではなく、プロライフ派/プロチョイス派という言葉で、それぞれの立場の人が何を重視しているのかを表現してくれたことです。すごくフェアな態度だと思います。プロライフ派の人すべてが女性をどうでもいいと思っているわけではないし、プロチョイス派の人すべてが胎児をどうでもいいと思っているわけではない。ということを、決して忘れてはいけない。
ていうか、そもそも胎児の生命か女性の人権かの二択みたいな、そういう究極の選択を強制させるような事態に陥らせてしまうことを憎むべきだ。いずれも等しく尊いに決まってるだろ!! 何をそんな、二択にして他人事みたいな顔して済まそうとしてるんだ。産もうが産むまいが、妊娠したという事実がすでに避けられない大きな影響を双方の人生に与えてるでしょうが!!!
……ということを思い出させてくれる、非常によいエッセイでした。こういう問題意識をもって発信してくれるというところが素晴らしいです。ありがとうございました。


『BABELZINE vol.3』については、それぞれの作品の簡単な感想を以下に書いておきます。ネタバレはありませんが、未読の方はご注意ください。

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『中国女性SF作家アンソロジー 走る赤』を読みました

2022年の春に中央公論新社から刊行された中国女性SF作家アンソロジーを、先日ようやく読みました。えっ、めっちゃ面白いんだけど、えっ! という嬉しい驚きに満ちたアンソロジーで、大満足。

書名の通りこのアンソロジーは「女性作家であること」「中国の作家であること」をテーマに集められた作品を編んだもので、私は「中国の作家であること」の条件に特に興味を持って手に取った派です。前から読もう読もうと思ってはいたのですが、2022年は仕事が非常に忙しく、こんな時期になってしまった。しかし読んでよかった、好きな作品ばっかりだった! 言語SFが多めだった印象ですが、私も言語SF大好きなので好みに近かったのかもしれません。
全14編、すべて訳しおろしの日本オリジナルアンソロジーという贅沢さ。日本側の編者が『2000年代海外SF傑作選』『2010年代海外SF傑作選』の選者でもある橋本輝幸さんと、中国史SFアンソロジー『移動迷宮』の編者でもある大恵和実さんなのだから、もう間違いないのだ。中国側の編者は未来事務管理局の武甜静さんという方で、序文がすごく良かった。

 SFが好きな人は宇宙の彼方に想いを馳せ、命の形や社会の可能性について思考実験を繰り返すような人達だから、世界で一番好奇心旺盛でオープンマインドな人達だと言われている。いつか「性別」が人の、作品の価値を判断する要素でなくなるなら、SFファンとして、その過程でポジティブな影響力を発揮したい。(P.1)

各作品の扉に著者略歴と作品についての簡単なコメントが書かれているのも丁寧でありがたい。80年代生まれの人が多いなと思ったら、中国SFの盛り上がりに深くかかわる年代であることが理由のひとつであるようで、そのあたりは巻末の解説に詳しいです。なんとなく、著者が同年代だと親近感が湧く。
女性作家のSFアンソロジーだから、ではなくて、普通にSFアンソロジーとしてとっても面白い本だったということが、私はとても嬉しい。同じ女性として嬉しいんじゃなくて、いちSFファンとして嬉しい。
私はフェミニストを自称していないけれど、男女の扱いが公正な社会の実現を願っており、それはなんでかっていうと、そういう世界の方が楽しそうだからだ。単純に、男性も女性も同じように書いてくれた方が、生み手の母数が増えて面白い作品が生まれる確率が上がると思っているからです。良い作品はいくつあってもいいものだ。もっとたくさん読みたいんです。


以下、各作品の簡単な感想を記載しておきます。ネタバレはしてないつもりですが、未読の方はご注意ください。

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翻訳ペンギン『翻訳編吟 13』を読みました

2023年11月11日(土)の文学フリマ東京37にて入手した『翻訳編吟13』を読み終えました。
『翻訳編吟』シリーズは海外小説の翻訳アンソロジーで、毎回文学フリマに行くたびに新刊を買っています。私が持っているのは11号からなのですが、残念ながら次号で終了とのこと。寂しいけれど、次号は出るので楽しみにしておこう。

さて、今回は下記7編の小説が収められていました。
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アルジャーノン・ブラックウッド「ダッフルバッグ」(伊東 晶子 訳)
作者不詳「黒いルドルフのミサ曲~クリスマスの物語~」(野島 康代 訳)
ヒューム・ニズベット「古い肖像画」(青山 真知子 訳)
セアラ・オーン・ジュエット「感謝祭前日の夜」(小椋 千佳子 訳)
フランク・R・ストックトン「ロンディーン町の時計のはなし」(斎藤 洋子 訳)
チューダー・ジェンクス「ドラゴンのおはなし」(青山 真知子 訳)
アンドルー・ラング「怠け者のアプレイウス」(澤田 亜沙美 訳)
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今回はクリスマス特集でしたね。寝る前に一編ずつ読むのがお気に入りの読み方です(怖いのもあるけど)。
それぞれの感想を以下に書いておきます。ネタバレはしていませんが未読のかたはご注意ください。

なお、記事を書いている途中から無性にミサ曲が聞きたくなって、このブログを書いている間のBGMはモーツァルトの戴冠ミサ曲でした。

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「かぐやフェス 2023」に行ってきました

virtualgorillaplus.com

2023年11月18日(土)、京都にて開催された「Kaguya Planet」初のオフラインイベント「かぐやフェス 2023」に参加してきました。
Kaguya Planet」はオンラインを軸足にSF小説やレビュー記事を公開したり、SF小説コンテストを開催したり、アンソロジーを刊行したりと様々な活動をされているSFメディアです。以下、本記事では主催者団体のことを「かぐやさん」と呼んでいます。

virtualgorillaplus.com

このたびオフラインでイベントするよ! 重大発表もあるよ! という告知がSNSでされたのを見て、親が京都に住んでいるので宿が確保できるという地の利もあり、思い切って参加してみました。結論としては行ってよかったの一言に尽きますが、やっぱり一般読者には参加のハードルが高いイベントだったことでしょう。なので勇気を出して参加した一読者としての感想を書いておきます。
かぐやフェスが今後も開催されることになったとき、参加に迷った方の参考になりますように。また今回は残念ながら参加できなかった方への、雰囲気のお裾分けができますように。



【会場でのマナー・ルールについて】
イベントが開催される前に、メールでイベントの詳細について連絡がありました。そこで会場でのマナー・ルールについて明文化されていたことが非常に新鮮で、嬉しく思ったのでまずそれについて書いておきます。というか、あのイベント運営のきめ細やかさが、こうして記事に残そうと思った大きな理由のひとつでもあります。あんなに安心して参加できるイベントはそうそうない。

まず写真について「SNSに写真をアップしてOKの人とNGの人で名札ストラップの色を分ける」というのが非常に効率的・経済的でよかったです。わかりやすくて安上がり!

そして何より、「ハラスメントや暴力行為の禁止」として無自覚な加害が発生しないよう事前に注意を促してくれたことがとても素晴らしかったです。かぐやさんがすべての参加者を大切に思ってくれていることが良くわかる配慮でした。

SNS上でだけ知っていた相手に対して、〇〇さんって男性/女性だったのですね、と何気なくかけた言葉。ミスジェンダリングの可能性がありませんか? 見た目だけで相手の性別や属性を判断する行為はやめましょう。(事前メッセージより抜粋)

かぐやさんのこうした心配りには以前から好感を持っていましたが、こうして主催者側が明示的に発信してくれることで、参加者の安心感はぐぐっとアップしますね。もし自分が主催サイドに立つことがあったらぜひ見習おうと思いました。よいお手本をいただきありがとうございます。


【タイムテーブルと軽食、参加者の方々について】
イベントは13時に開場、14時に開会、17時半に閉会。ブース出店者は12時半から入場可能でした。
開会から閉会までの間にコンテスト授賞式や新プロジェクト発表会、くじ引きなどのイベントが企画されていましたが、「ソーシャル」と呼ばれる歓談の時間に多くの時間が割かれているのが特徴的でした。出版パーティみたいなものに参加したことがないので比較ができないのですが、せっかく集まったのでお互いの親睦を深めてね、という意図での時間配分でした。「ソーシャル」の時間に他の参加者の方とお話したり、物販スペースで買い物をしたり、出された軽食を食べたりできました。普通にお昼ご飯食べてから参加したので割とお腹がいっぱいで、出された軽食があまり食べられなかったことが悔やまれてならない。美味しいトルティーヤとタコスだったので、腹に余裕があればもっと食べたかった……。

あと会の終盤でデザートとしてジュヴァンセルの高級焼き菓子「竹取物語」が振舞われました。噂には聞いていたものの食べるのは初めてで、あまりの美味しさに一人で感動していた。帰りに京都駅で見かけたので思わず買って帰ろうかと思ったけど、お高かったのと一人で食べられる分量じゃなかったので泣く泣く諦めました。私の中のパウンドケーキベスト3に入る逸品。

さて、多くの時間が割かれていた「ソーシャル」の時間について。
私はビビりなので今回のイベントではSFG関係者という建て前を最大限に活用したけれど、私自身は小説を書く人間ではなく、ただの読者です。ブログに読んだ本の感想は書くけれど、それでも視座としてはやっぱり読者です。
そんなイベントで総勢63名が参加された中、たぶん9割くらいは小説を書く人たちだったのでは……? それくらい、新進気鋭の作家さんがゾロゾロいらっしゃる贅沢空間でした。同行したSFG編集長はさすがに顔が広くいろいろ挨拶したりしてましたが、私は知っている人も少なくて名札をチラ見しては「ああ、あの人あの作者の……」などと思うものの、相手も歓談中だったりして、自分から突撃するほどの勇気もなくまごまごしていました。そんな中「V系SFの店」でブースを出していた渡邉清文さんが話しかけてくださり、私がブログで絶賛した『トランジ』の執筆者陣と引き合わせてくださるなどして構っていただきました。ありがとうございました! お話できて嬉しかったです。

文学フリマSF大会で好きな作品の著者の方をお見掛けすることはあるのですが、いきなり「あなたの作品が好きです!」となどと声をかけるのもおこがましい気がするし、難しいですね。いやもちろん感想もらえるのは嬉しいというのはそうなんでしょうけど、でもやっぱり緊張する。書くよりも話すほうがはるかに苦手だし、一度口にした言葉は覆せないし……。とはいえかぐやフェスでは「ソーシャル」という時間が設けられているので、他のイベントよりも話しかけにいくハードルは低めだったと思います。必要なのは勇気とタイミング!
あなたの作品が好きでしたということは何らかの形で伝えたいので、ブログという形で感想を書いているけれど、いざ目の前にいらっしゃるとあわあわしてしまって、後からあれも伝えておけばよかったなどと思ったり。とはいえ会場にいらした糸川乃衣さん、青島もうじきさん、稲田一声さんにあなたの作品が好きですと伝えられたので良しとしようと思います。また仕事ぶりを非常に尊敬している橋本輝幸さんにもご挨拶できて嬉しかったです。お話したすべての方のお名前をここで挙げることはしませんが、貴重なお時間を割いてお話いただいた方々、本当にありがとうございました。


【物販ブースについて】
ブース毎会計ではなく、レジ一本化会計でした。出品者は持ち込みの品と値段を事前申請して、お値段を書いた紙を販売物につけておく必要があります。イメージとしては、百貨店などで開催される古本市みたいな感じ。出品者がブースにいなくても販売できる仕組みということで考えられたようです。その代わりレジにはずっと誰かがいる必要があるので、運営側が負担を引き受けてくれたという印象です。ありがとうございました。

開催のタイミングが文フリの翌週だったのでだいたい先週と同じ顔触れでしたが、買いそびれていたものを買うことができてよかった。あと特製ペーパーや小冊子などもあり、見ているだけでも楽しかったです。一週間前の散財も忘れてそこそこ買いましたけどね!


【新しい理念と新プロジェクト発表について】
これが聞きたくて京都に駆けつけた。詳しい内容についてはかぐやさんの下記ページに記載がありますので、ぜひご一読ください。

virtualgorillaplus.com

私は前からかぐやさんのファンで、活動の根底にある問題意識や理念をオープンにしているところとか、それをただのお題目にせずに現役の羅針盤として活用しているところとか、すごくいいなと思っていました。なので今回、新しい理念という発表の場に立ち会えたということにとても満足しています。行って良かった。共感するところが多く、大きく頷きながら聞いていました。こういう理念を掲げる企業がSFをメインに据えて活動していることに希望を感じる。未来も捨てたものではないぞ。

新プロジェクトは10個もあって、そんなにあるんかーいと思いました。すごいな。
矢継ぎ早に繰り出されるビッグニュースと独特の効果音に驚くのが忙しく、新しい情報を聞き逃すまいと全身耳にして聞いてました。

どの企画もめちゃくちゃ楽しみですが、一番嬉しかったのはマガジン創刊です。
何度だって言いますが私は前からかぐやさんのファンで、かぐやBooksから刊行される単行本はほとんど買ってるのですが、実は有料会員ではありません。なぜかというと、単純に、私が紙で小説を読むのを好む体質だからです。小説は紙で読むべきだ! という思想であるわけではなくて、電子で読めるなら読みたいのですが、どうしても頭に入ってこなくてやむなく紙でのみ読んでいます。この時代に電子が苦手って……と我ながら思うのですが、苦手なので仕方がない。
なのでかぐやプラネットを応援したい気持ちはあれど特典をまるで享受できないので有料会員については心苦しくも静観していたのですが、紙でマガジンを出してくれるなら話は別です。ありがとう! これで心置きなく会員になって応援できる!! 応援の機会を広げていただき感謝します。

アンソロジー5本ノックも大期待ですし(特に世界妖怪譚は絶対私の好きなやつ)、大木芙沙子さんの単著も今から楽しみ……2024年も良い年になることでしょう。


【お土産】
参加者全員にプレゼントしていただいたブック・キュレーター堀川夢さんの選書は、下記が当たりました。これ好きなやつでしょ……! 未読の作品なので手に入れなくては。

滅びの気配が漂う世界、老いた天文学者と取り残された少女がうつくしい北極で暮らしている。寒い季節に暖かいところで読みたくなる一冊。
リリー・ブルックスダルトン/佐田千織訳『世界の終わりの天文台』創元SF文庫


楽しい時間をありがとうございました。今後も応援しています。