好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

「2022年の『ユリシーズ』」の読書会(第十二回:第十二挿話)に参加しました

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2021年6月27日にZoom上で開催された「2022年の『ユリシーズ』」の読書会、第十二回目に参加しました。

この読書会は2019年から隔月で開催されており、『ユリシーズ』刊行100周年である2022年に『ユリシーズ』を読了しようという壮大な企画です。ジェイムズ・ジョイスの研究者である南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんの3名による主催。なお読書会共通のテキストとして使用しているのは柳瀬訳なのですが、柳瀬さんは『ユリシーズ』を今回の十二挿話までしか訳していないので、柳瀬訳テキストを使うのは今回が最後となります。寂しい……
なおこの記事では一参加者としての個人的な読書会及び第十二挿話の感想について記載しています。作品解説やあらすじ紹介のようなものがあるようにみえても、気のせいですし、ネタバレ配慮もしていません。
読書会の詳細な内容が気になる方は上記URLにて公開される資料をご覧ください。なんと、参加者の方がまとめた資料もあります。

第十二挿話は「キュクロープス」、単眼の怪物の章です。そして柳瀬訳ユリシーズでは語り手の「俺」が「犬」という設定で書かれていて、「発犬伝」として有名なのだとか。
実は読書会前に参考文献として『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』を紹介されていたのですが、余裕がなくて読めませんでした。そして今も読めていない……『ユリシーズ』完走してからのボーナストラックとして読もうかなと思っています。

そんなわけで私自身は「俺」=「犬」説についてはよく知らないまま柳瀬訳十二挿話を読んでいました。はっきりと犬と書かれているわけではなく、読んでいくうちに犬なんだなと推測するような書き方です。
今回の読書会では、主催者のひとりである南谷さんが「「発犬伝」の埋葬」と題した発表をされていて、発犬伝に対する丁寧な反論をされていました。複数の文体が入り混じり、癖のある話し言葉で地の文が進んで行くのを読んでいると、犬と言われれば犬のような気がするなぁなどとぼんやり考えていたのですが、理論的な反論を聞くと「確かに犬というのは無理がある」というのが最終的な結論です。面白いけども。
しかし南谷さんの発表でも言われていたように、柳瀬訳は発犬伝がキモではなくて、もっと別のいろんなところでキラキラ光るものがたくさんあるのが素敵なのだと思う。たとえば第十二挿話では人名ジョークがとても好みでした。丸谷らの鼎訳は原文の音に忠実だったのに対して、意味を含ませて遊んでいる。

 国際的な社交界の面々が今日午後、愛蘭土国有森林庁森林守備隊総隊長、騎士ジャン・ウイズ・ド・ノーランとモミィ・シンヨージュ嬢の結婚式に多数参列した。レディー・シルヴェスター・ニレコカゲー、バーバラ・カバノキスキー夫人、ポール・トネリーコ夫人、ハシバーミ・ヘイゼルアイズ夫人、ダフニ・ベイズ嬢、ドロシー・タケヤーブ嬢、クライド・ジューニホンギー夫人、ナナカマード・グリーン夫人、ヘレン・ブドーヅルリン夫人、ヴァージニア・ツターハウ嬢、(・・・以下略、P.546-547)

実はまだ第十二挿話の復習が終わっていないのですが、個人的に気になっているところはいくつかあります。ただまだ答えが出ておらず、後の挿話を読めばヒントがあるかも、と期待している状態。
そのうちのひとつが、ディグナムの幽霊の話。

――あの男が死んだのを知らないのか? ジョウが云う。
――パディー・ディグナムが死んだって! アルフが云う。
――ああ、ジョウが云う。
――だって俺があいつを見かけてから五分とたっちゃいないんだぞ、アルフは云う。いとも単純明快よ。
――誰が死んだって? ボブ・ドーランが云う。
――それじゃあいつの幽霊を見たんだろ、ジョウが云う。くわばらくわばら。
――何? アルフは云う。まさかそんな、ほんの五分しか……何?……それにウィリー・マリーがあいつといっしょだった、二人してあの何とかいう店の辺りに……何? ディグナムが死んだ?(P.510)

ブルームが午前中に葬式に出たディグナムを、酒場にいるアルフはつい5分前に通りで見かけたという場面。可能性としては誰かと見間違えたか、あるいは本当に幽霊なのかのどちらかになるわけですが、気になるのはこの話をここでわざわざ入れてくる意味です。なんでこんなエピソード入れたんだ?

これまでの挿話で出てきた幽霊といえば、ハムレットの幽霊を一番最初に思い出す。あとはスティーヴンのお母さんの亡霊のイメージくらいか。
見間違いという線で考えるなら、第十一挿話の鏡像が思い当たりますが、無理やりっぽい気もする。
キュクロプスが単眼の怪物だということからも「見る」に重点を置いた挿話ではあると思うのだけど、「埋葬の済んだ男が通りで目撃される」というエピソードがここで挿入されるのとされないのとでは何かが変わるはずで、ジョイスはこのエピソードがここにあったほうがいいって思ったんだよなぁ。もしこのエピソードがここに「無かった」としたら、何が失われるだろうか?
あるいはこの後の挿話で幽霊だか見間違いだかが出て来るんだろうか。まだ読了したことがないのでこの後のお楽しみとしておく。しかし何の意味もないエピソードではないはずなんだ……とかいってる時点でジョイスの思う壺かもしれないと思うとちょっと悔しい。

幽霊話はともかく、この挿話で一番盛り上がるのは断然ブルームVS市民のバトルでしょう。読書会でもちらっと話題にでた「愛です」は私も笑うとこだと思って読んでいました。墓地に向かう馬車のシーンでも思いましたが、ブルームってほんと世間話が下手というか、他の人とちょっとテンポがズレていて白い目で見られるタイプの人だ。当意即妙のやり取りかめっちゃ苦手そう。いい人なんだけど、それを今ここで言う? みたいなとこありますよね……見ていてほんとヒヤヒヤする。
世の中の諍いの3割くらいは言い方やタイミングで回避できるんじゃないかと常々思ってるんですが、回避せずに戦うべきときというのも確かにあって、第十二挿話のVS市民はきっとその時だったんだろう。いつも聞こえないふり見ないふりしていたブルームが言い返すのは爽快でした。ブルーム、頑張ったなぁ、こういうの苦手だろうに。

なお今回は読書会が終わってから第十二挿話を復習していたときに、「目」にまつわる表現と、「盗み」にまつわる表現にラインをひいてみました。「目」はキュクロープスの単眼からの連想。読み返していたら冒頭でいきなり煙突掃除夫に目を狙われていたのでびっくりした。一度目はスルーしていた……。
「盗み」は権威とも関連していて、結局誰が何を盗まれて、誰が何を盗んだ(掠め取った、奪い取った)んだ? というのが気になって。市民はユダヤ人やイギリス人が加害者で、アイルランドは常に被害者みたいな言い方してますけど、そういいながらブルームを害しているし。あと「鑑札もねえ分際で」とか「ちゃんとした営業許可のある店」だとか、権威や法律を持ち出す場面がいくつかあるのが気になるんですが、これらの公的なルールは正義でも公平でもないことが多くて気になりました。法律事務所を駆け回るブリーン氏も報われないし。うーん、もう少し整理する時間がほしい。

なんせこの第十二挿話、とっても長いのです。懲りずに写経を続けているのですが、とっても分厚くなりました。
そういえば読書会前にTwitterで「両面印刷159ページ」と書いてましたが、よく見たら嘘でした…なんか盛ったみたいで恥ずかしい。159ページを両面印刷なので、枚数的には80枚ですね。でも多いな。

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第十二挿話写経、努力の結晶

なお読書会ではいつもzoomのブレークアウトルームの機能を使って希望者のみ参加のフリートーク時間があります。いつもは参加するのですが、今回に限って諸事情によりマイクが使えなかったためトーク不参加でした。でも! 絶対! フリートーク参加したほうが断然面白いです。参加しない人が共通の画面に残って話す場面がつまらないとかではなくて、だって、やっぱり読んだら話したいし、話を聞きたいと思うのだ。まだフリートーク参加したことのない方は、思い切って試しに一度入ってみることをお勧めします。巧く喋れなくても、参加した方がぐっと楽しめると、私は思います。

さて次は第十三挿話、ここからは丸谷らの鼎訳を使うことになります。すでに写経始めてますが、ルビが格段に減って文体も心なしかおとなしい印象で、柳瀬文体に慣らされた身には違和感が……しかしまぁ進めていきます。
記事冒頭のURLから読書会の参加申し込みができますので(7/31現在、まだ空席はある模様)、気になる方はぜひどうぞ。

工作舎 編『最後に殘るのは本』を読みました

工作舎50周年記念出版、本にまつわるエッセイ集です。帯には「67人の書物随想録」「ようこそ、書物の迷宮へ」と書かれていて、その帯の紙質といいフォントといい、本体の装幀の美しさといい、もうニヤニヤが止まらず素通りなんてできなかった。なんて美しいの。

収められたエッセイは、1986年4月から2000年1月まで、工作舎から出版される本に挟み込まれていたリーフレット土星紀』に、「標本箱」と題して載せられていたものです。

 ともかく株式会社となって『遊』の発売・発行は、工作舎名義となり、名実ともに出版社として船出した、と言いたいところだが、その零細を支えていたのは「別の仕事」だった。つまり一般企業や他の出版社から編集やデザインの業務を受託していたのである。実は出版と「別の仕事」の二足のわらじは、現在に至るまで履き続けている。(P.2-3「はじめに 土星と標本」)

私は古本屋で工作舎の本を見つけたときはなるべく買うようにしてるのですが、土星紀が挟まっているかどうかは運次第です。なので、なるべく買うようにしていると言いつつどうしようか迷ったりしたときには、土星紀が挟まっているかどうかを確認する。挟まっていると、買う確率が高くなる。なぜなら、これは、ただの新刊案内リーフレットではないんですよ!
本書の巻末にも土星紀の縮小版が掲載されているんですが、色もデザインも毎回全然違って、そのこだわり具合が尋常ではないのがわかる。実物を見ると、紙質からして違うのが一目瞭然です。しかしデザイン受託もしていたのであれば、商品見本の意味もあるだろうから、力も入るというものだろう。それでも相当なこだわりぶりだけど。

本書の巻末には、「あとがきに代えて」として、「標本箱」のデザインを担当していた祖父江慎工作舎編集長の米澤敬の対談『「土星」の歩き方』が収められていて、楽屋話的なこれがまた面白かった。祖父江さんが写植のこだわりや昔の徹夜話などのマニアックな話で盛り上がりそうになるたびに、米澤さんが「そういう話は別の機会にしよう」と止めるので笑ってしまった。別の機会、待ってますね。

ちなみに私が書籍のフォントやデザインに興味をもったのは講談社から出ていた雑誌『ファウスト』がきっかけだったことも一緒に思い出した。今はもう実物が手元にないので記憶を頼りに書きますが、確か祖父江慎のインタビューが載っていたんじゃなかったか。あの雑誌は商業誌らしかぬワンマンぶりで、今ではあんなやり方は通用しなさそうだけど、なんだかすごく尖っていて、私は当時多感な10代だったのでその存在にすごく衝撃と影響を受けたものでした。でもあの『ファウスト』の、小説ごとにフォントを変えるっていうやり方は、祖父江さんに端を発しているんだろうな。『ファウスト』やっぱり買い直さなくちゃな。思い出すだけで懐かしい。

デザインの話ばかりしていますが、総勢67名によるエッセイも名品揃いでとても楽しいです。毎日ゆっくりじっくり読めば2か月持つぜと思っていたのに、ついついページをめくってしまって2日で読み終えてしまった。しかしこういう随筆アンソロジーというのは気が向いたときに気が向いたページをぱらりと捲って読むというのが王道的楽しみ方なわけで、たかだか一周したくらいで「終わってしまった…」と悲しむものでもない。何も終わってないのだ。むしろ2周目からが本番といえよう。

しかし1986年からか…実はわたしが生れた月に発行された土星紀の「標本箱」の文章がここには含まれていて(しかも好みの文章で)、なんだか感慨深かったです。私が言葉も細胞だったときに、すでに言葉を操り文字を遺す存在として、彼らが生きていたんだなぁというのが、なんかへんなかんじ。知ってはいたけど体感するのはまた別の感慨がある。
どこを開いても味わい深いのですが、『土星紀』のフォントとデザインで見たいなという気持ちもある。古本で集めても、多分『土星紀』全部は揃わないだろうし(この間買った工作舎の古本には挟まっていなかった。もっとも『土星紀』セットとして売られている可能性は当然あるけど、それはそれでなんか違うのだ)。とはいえ個々のリーフレットに載せられていたエッセイが一堂に会しているという感動と便利さもある。第一この『最後に殘るのは本』という新しいハードウェアとして生まれ変わった書籍自体のデザインも素敵で、これはこれで持っておきたいことに異論はない。
などと考えながら読んでいたら、収められたエッセイのひとつに答えがありました。

「本の歴史において、グーテンベルクの印刷術発明に比肩する革命は、コデックスの登場にあった」(K.ヴァイツマン)
「コデックス Codex」とは「冊子」のこと。一枚一枚のフォリオを束ねてページ仕立てにしたこの書物の形態が、紀元一世紀末頃、従来の「巻物」形態にとってかわったとき、西欧の書物は大きく飛翔した。以来今日まで、西暦の年数と同じ齢を重ねてきた。古代末期におけるコデックスの登場は、それから一三〇〇年後の印刷術や現代のコンピュータ革命にも増して、知識人を興奮させた。(P.151 鶴岡真弓「コデックスのコード」)

つまりフォリオだった『土星紀』が、コデックスである『最後に殘るのは本』になったのだ。それはきっと幸せな進化だ。でも挿絵が消えてしまったのは悲しい。
そしてやっぱりフォリオとしても味わいたいので、『土星紀』はこれからも古本屋でコツコツ集めることでしょう。

工作舎さん、50周年おめでとうございます。これからもよろしくお願いします。

東京国立博物館『国宝 鳥獣戯画のすべて』に行ってきました

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すでに会期が終ってしまった展覧会の感想となってしまい恐縮ですが、先月半ばに久々に博物館に行ってきたので、未来の自分のために記事にのこしておくことにします。友人が誘ってくれて、半年以上ぶりに展覧会に行きました。やっぱり美術館・博物館は良いなぁ。

前に東博に行ったのは2020年10月の「工藝2020」のときで、このときからすでに東博は事前予約制となっていました。しかしこのときは今回ほどチケット争奪戦がシビアではなかったので、当日ふらりと予約して来場することができました。
今回はみんな大好き鳥獣戯画を全巻一気に観られるチャンスであること、会期中に緊急事態宣言が発令されて休館になったことなどの影響から、会期を延長して再開した早々にチケットが見事に売り切れになるという事態となっていました……。前日キャンセルを狙ってはいたものの私はほぼほぼ諦めていましたが、同行の友人がPC前に張り込んでチケットをもぎ取ってくれました。ありがとう! ありがとう!

鳥獣戯画の「すべて」と銘打っている理由の一つは、前述の通り全巻が一堂に会した貴重な機会だからです。兎と蛙が相撲をとっている絵で有名な甲巻をはじめ、鳥獣戯画は甲乙丙丁の四巻構成となっています。所蔵している京都・高山寺でも時期によって入れ替えて展示しているため、全部を一気に観る機会というのはなかなか無いらしい。とはいえ私は鳥獣戯画のオリジナルを観ること自体が初めてだったので、「おおお、全体はこんな風になっているのか!」というところから、かなり楽しめました。すごく面白かった。

鳥獣戯画で最も有名な甲巻は、兎、蛙、猿などが人間のような振る舞いをしている巻。兎と蛙の相撲や、蛙の本尊を拝む猿などの場面が有名です。川遊びの場面で猿の背中を流す兎も和むけど、私が一番好きなのは神楽を踊る蛙だったりする。
甲巻以外は今回初めて内容を知るものばかりでしたが、乙巻の動物絵巻が非常に好みでした。こういう百科事典的な絵巻物が大好物です。麒麟や獅子などの空想上の動物や、犬や鶏などの実在する動物などが描かれていました。象や虎など日本にいない動物も入っているけど、しかし日本画の象ってみんなタレ目で目尻に烏の足跡がありますよね。若冲といい。最初に描いたのは誰なんだ…
丙巻は前半部分が人間の風俗画、後半部分が動物を役者に立てた戯画となっています。祭りで切り出した大木を運ぶ動物たちの絵がとても好きでした。あと人間たち(鳥獣戯画に人間が出てくること自体、今回初めて知った)がにらめっこ(目比べ)などの遊びをしているのがユーモラスで面白かったです。二人の人物が輪にした縄を首にかけて引き合う「首引き」とかいう危ない遊びをしていたのも印象的なのですが、輪にした紐を耳に引っ掛けて引っ張り合う「耳引き」がものすごく印象的でした。なにこの危ない遊び! 小学校でやってたら絶対怒られるやつだ。でも楽しそう……
最後の丁巻は人間しか出てこない巻で、祈禱だの流鏑馬だの、甲巻で動物たちがやっていた風俗の元ネタが描かれていました。水墨画もそうですが、線の太さや濃淡で躍動感を表す技量が凄かった。デフォルメしつつ勘所を押さえてる感じが好きです。コミカルだ。

今回の展示で面白かったのは、鳥獣戯画4巻のほかに、写し(模本)や断簡があわせて公開されていたことです。鳥獣戯画の「すべて」と銘打っているもう一つの理由です。
断簡というのはもともと巻の一部だったと思われるけれど散逸してしまった絵の切れ端のことで、掛け軸などに仕立てられているものです。全部繋げた場合の復元予想図も面白かったなぁ。2巻仕立てでもっと長かったはずだったらしい。
模本はいわゆる写本で、狩野探幽の模本がミニミニしくてかわいかったです。持ち出し禁止だったろうから、しばらく泊まり込みとかで模写したのだろうか。当時は展覧会なんてないし、実物を目の前にしたときの探幽はどんな気持ちだっただろうか。これがあの……! とか感動したんじゃなかろうか。私は絵を描かない人間だけど、絵を描く人からしたら偉大なる先人の巻物は聖典のように思えたかもしれないよなぁ。

他にも鳥獣戯画を持っている高山寺を再興した明恵ゆかりの品々や高山寺が属する華厳宗ゆかりの絵巻物などが展示されていました。そのなかに明恵の坐像があったのですが、X線で調査したところ、中に巻物が隠されていることが分ったらしく、その報告のゾーンがとても面白かったです。今はまだ「巻物がある」しかわからないけど、いずれ像を割らなくても、中の巻物に何が書かれているか読めたりするだろうか。御守りの中のお札を見てはいけないように、像に隠された巻物も見ちゃいけないのかな。わからないからご利益があるのかも。でも隠されたものは暴きたい欲もありますよね……天皇陵とかね。そういう意味で墓泥棒とかピラミッド盗掘というのは一種のロマンとして理解できなくもない。下世話と紙一重ではあるのですが。

話がそれてしまった。いやしかし、チケット争奪戦は厳しかったけど、入場制限のおかげでじっくりゆっくり観られるし、とても良い展示でした。甲巻の展示は動く歩道で強制的に立ち止り禁止でしたが、速度もちょうど良く何の不満もなかったです。
鳥獣戯画はまた機会があったら観たいなぁ。できれば高山寺で観たいな。あと、今回はもう鳥獣戯画でお腹いっぱいでしたが、東博の常設展(本館と東洋館の展示)もあらためてゆっくり観に行きたいです。

ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』(水野忠夫 訳)を読みました

実は結構前に読み終わっていたんですが、ずっと記事を書きそびれていました。めちゃくちゃ面白くて夢中で読んだものの、何が面白いのかと言われると今一つうまく説明できなくて。しかしとっても面白かったです。ぐいぐい来るっていうか、なんかもう突き抜けて疾走していく感じ! なんだこれ!
私が読んだ岩波文庫版の上下巻の表紙には、ブルガーコフが住んでいた通りの壁面にファンが描いた絵を撮影したものが使われていて、これがまたサイコな感じで実によいです。
なお、以下の記事はネタバレ配慮はしておりません。細かいあらすじの説明もすべて端折っているので、一度読んだことがある人向けになってしまいましたが、あらかじめご了承ください。ものすごく大雑把にストーリーを紹介すると、ソ連時代のモスクワに悪魔がやってきてどんちゃん騒ぎをする話です。上下巻ぶっ通しでお祭り騒ぎでした。


久々の上下巻越えの長編小説だったので、結構身構えて読み始めたのですが、前述の通り最初っからエンジン全開で度肝を抜かれた。まず物語冒頭で、文学総合誌の編集長と若い詩人が「反宗教的な詩」について話し合っているところに、怪しげな外国人が通りかかる。この怪しげな外国人のいかにも怪しげな描写で、早々に私の心は鷲掴みにされました。誰なのかよくわからない語り手が、めちゃくちゃ強い個性で物語っていくものだから。

 その後、率直に言えば、すでに手遅れとなったころに、この人物の特徴を記した報告書がさまざまな関係機関から提出された。それらを照合していると、まったく驚かざるをえない。たとえば第一の報告書によると、この男は背が低く、金歯で、右足を引きずっていた。第二の報告書には、背のひどく高い男で義歯はプラチナ、左足を引きずっていたとある。第三の報告書は、これといった特徴なしと簡潔に伝えているだけであった。
 このような報告書は、どれもこれも訳に立たないと認めるほかない。
 なによりもまず、この男は両足とも引きずってはいなかったし、背も低からず高からず、いくぶん長身であったにすぎない。歯に関していうなら、左側にはプラチナ、右側には金の義歯。(中略)右の目は黒く、左の目はなぜか緑色。眉は黒いものの左右の釣り合いがとれていない。要するに外国人である。(上巻 P.16)

この人を食ったような人物描写が、謎の外国人がこの小説において何かしでかすに違いないという期待を高める。そして、彼はその期待を裏切らないのだ! イエス・キリストはこの世に生まれなかったという前提で話をする二人に声を掛けて、実に思わせぶりな台詞(しかしこの時点では読者にはその意味がまだわからないし、話を聞かされている編集長と詩人にもわからない。そこがまたいい)をいくつも口にする。

「確かに、人間は死ぬ運命にありますが、しかし、それだけならまだたいしたことではありません。悪いのは、ときとして人間が突然に死ぬ羽目に陥るということで、それこそ最大の問題なのです! それに、だいたいからして、今夜、何をするかも人間は言えないのですからね」(上巻 P.27-28)

そして外国人は突然、ポンティウス・ピラトゥスの話を始める。ナザレのイエスに有罪判決を下し死刑にした、あのピラトの話です。「こういったすべての現場に私自身が立ち会っていたのです」などと声を潜めて言う外国人を精神病院送りにしようと、編集長は電話を掛けにベンチを離れ―――ここまできたら読者としてはもうタイミングをはかるだけだった、編集長の最期が描かれる。

編集長の最期は読みながら「きた!」と思ったけど、この「きた!」は何なんでしょうね。いやこれまでの記述から外国人が予言した通りのことが起きるんだろうという予測はしていたわけですが、その予測というのは物語の枠の外にいるからこそできることだ。物語の中で登場人物として振る舞いながら、メタいことを次から次へと繰り出す外国人の特異さ、際立つ存在感。ストーリーを一周すると余計に、物語構造というものの奥深さを感じた。
フィクションって作り物だからなんだってできるように思えるけど、文章として成立している必要があるので、どう足掻いても言語構造というルールには逆らえない。そういうルールの穴を突こうとするのが叙述トリックミステリーだったり幻想小説だったりするんじゃないかと思うけど、『巨匠とマルガリータ』はそういうルールにダイナミックに歯向かおうとしているように感じられて、読んでいて実に爽快でした。言葉は万能な道具ではないけど、使い方次第でもっといろんなことができるのかもしれない。もっとも、そもそも万能な道具なんてないんだけど、それでも言葉は人間をもっとずっと先まで連れていけるんじゃないかと思わせてくれる。


そしてどんどん起きる事件に夢中になっていたら、いつの間にか下巻になっていた。「私につづけ、読者よ(上巻 P.442)」と言う語り手が誰なのかわからないままこの小説を読み終わってしまったんですが、これはあれですね、何周かしないとダメなやつですね。一周では到底読み切れない小説だ。めちゃくちゃ面白い。
第25章、第26章で描かれる作中作のユダの話がとても好きです。「今夜、ユダが刺殺されるという情報を、今日、受け取ったのだ(下巻 P.196)」からの一連のサスペンス! 一応読む前から『巨匠とマルガリータ』がソ連で発禁本だったと聞いてはいたものの、読みながら何が駄目なのかよくわからなかったのですが、もしかしてこのユダの挿話なんかもアウトだったんだろうか。

タイトルに冠せられている巨匠もマルガリータがなかなか出て来ないのでヤキモキしていたのですが、いざ出て来たらマルガリータがとてもアグレッシブで素敵でした。空を飛んで悪魔の元へ行く途中でラトゥンスキイの家をめちゃくちゃにするところとか特に好き。

他にも好きなシーンを挙げると山ほどあるんですが、冒頭の編集長の事件の後、外国人が逃走するのを詩人ががむしゃらに追跡するのはかなり好きなシーンのひとつです。悪魔の一味である猫が登場するのが、あまりに衝撃的で。

(前略)いつの間にか、まったくもってうさん臭い元聖歌隊長が合流していた。だが、それだけではなく、この一味の三人めとして加わっていたのは、どこから現れたのか、去勢豚のように大きく、煤か烏のように黒く、向こう見ずな騎兵のようにみごとな口ひげを伸ばした猫であった。三人組はパトリアルシエ横町を目指して進んでいたが、その猫ときたら、うしろ足二本で立って歩いていくではないか。(上巻 P.99-100)

しかもこの猫、電車に乗るのである。律儀に十コペイカ硬貨で料金を払おうとさえするのだ。私はもうすっかりこの二足歩行する猫のファンになって、この後彼が登場するたびにニヤニヤしていた。中身はおじさんで、全然かわいくないんですけどね。

でも一番お気に入りの登場人物はといえば、断然アルチバリド・アルチバリドヴィチなのでした。文筆家連中御用達のレストランを支配する海賊、機を見るに敏であること右に出ることなしの彼です。

 支配人は調理場に胸肉を見に行ったのではけっしてなく、そのかわりに食料貯蔵室に直行した。持っていた鍵でドアを開けてなかに入ると、内側から鍵をかけ、冷蔵庫から、カフスを汚さないようにと気を付けながら蝶鮫の重い背肉の燻製を二切れ取り出し、それを新聞紙にくるむと、丁寧に紐で結んで、脇に置いた。それから隣の部屋に行き、絹の裏地のついた夏用のコートと帽子が置いたところにあるかどうかを確かめ、そこではじめて、海賊が客に約束した胸肉の料理をコックが一心につくっていた調理場へと向った。(下巻 P.293-294)

右往左往する人間たちのなかで、最も悪魔の素質を持った男……人間、だよなぁ? 今はまだ。

読み終わった直後はアトラクションから降りたばかりのような高揚感でいっぱいでしたが、あらためて振り返ると熟練の職人による見事な設計のアトラクションだったんだなというのをしみじみ感じる。次はもっと丁寧に読み返して、一周目では気づけなかった細かい仕掛けを楽しみたいです。あと、ブルガーコフの短編集もぜひ読まなくては。いやぁ、とっても好みでした。

映画『犬は歌わない』を観てきました

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以前別の映画を観た時に予告編が流れて、気になったので観てきました。モスクワの野良犬が生活する映像を中心としたドキュメンタリ―映画です。英語タイトルは "SPACE DOGS" なのを、「犬は歌わない」と訳したセンスに痺れる。
なおこの記事では特にネタバレ配慮していない(ストーリーのある映画でもない)ので、お読みいただく際にはあらかじめご了承ください。



ロシアとアメリカの宇宙開発競争で、ロシア側が宇宙船に乗せて送り出したのがライカという犬でした。ライカはもともとモスクワの野良犬だったが、人間に捕まり、幸か不幸か数々のテストをパスして、人類よりも一足先に宇宙空間に飛び出した。
イカは生きて帰らなかった。しかし彼女の魂は今もモスクワの街を彷徨っているという。

約90分の映像のうち、多分85%くらいはモスクワの街に生きる野良犬の生活を映したものです。あれ、どうやって撮ったんだろう。モスクワの野良犬は人に馴れている様子だったけど、それにしてもすぐ近くから自然な映像を撮っていた。そして、時折画面に映る人間たちも、街中に野良犬がいることに特に驚いた様子もなく、当たり前のような様子だった。バケツに水を汲んで犬にあげたり。モスクワって、今も野良犬がいるんですね。

しかし首輪をしていない犬の美しさといったら。犬の種類は詳しくないのであまりはっきり言えないのですが、カメラが追っていたメインの野良犬はシェパードの血が入ってそうな感じの犬で、脚とお腹のラインと、頭を下げているときの肩のラインがとても美しかった。なんていうか、セクシーですね。犬も嫌いじゃないんだけど、旅行が好きだから飼えないし、私の性格上毎日一緒にはいられない。でも格好いいなぁ、一緒にいるなら中型犬か大型犬だな。車にちょっかい出して盗難防止ブザー鳴らしちゃう場面とか、ナイトクラブの前でたむろする人間に混じって寝そべる姿とか好きでした。ポストカードにしてほしいような絵がいくつもあった。


さて、犬は人間の友達なのか。そして、人間は犬の友達なのか。

ここで効いてくるのがソビエト時代のアーカイブ映像と、時折挟まれるナレーションである。登場する人間たちの犬に対する仕打ちは、どう見ても友達に対するものではない。

宇宙に行った犬は、ライカだけではない。のちに何匹も送られ、中には生還した犬もいたらしい。宇宙に送り出される犬はデータを取るためにいろんな管を付けられ、狭い宇宙船内のケージに入れられる。
犬たちの手術シーンは痛々しさに心臓がぎゅっとなるけど、犬たちに手術を施す研究者は、処置の合間に宥めるように犬の頭を撫でたりしていた。なんだかそれが、ものすごい衝撃だった。あ、撫でるんですね。片道切符になるかもしれない旅に送り出しておきながら。あと、手術を受ける犬を押さえる女性研究者(あるいは獣医?)の爪に、綺麗にマニキュアが塗られていたのもやたら印象的でした。なんだかすごく人間ぽくて、犬との隔絶を感じた。

でも別に私は研究者たちを責めたいわけではないし、彼らが極悪人だというつもりもない。現代の倫理や動物愛護の観点からいえば動物実験というのはよろしくないというのはいったん置いておいて。
私たちは人間だから犬よりも人間を優先するよね、というのは、わかる。そして研究対象である犬に手術を施しながら、ちょっと頭を撫でてやったあの研究者の気持ちも、わかる。そういうのって、理屈じゃないところだと思うのだ。ついぱっと手が出ちゃうっていうか、惻隠の情と研究魂は別っていうか。うまく言葉にならないけど、そういうことってあると思うし、そういうところが人間だと思うし。だから、私はあの一瞬のアーカイブ映像がすごく好きだ。

ちなみにこの映画、前述の通り約8割くらいは野良犬生活の映像なのですが、野良であるということは野生であるということなので、公式HPには以下の注意書きがあります。

本映画は都会で生きる”野生”の犬の視点で描かれています。
一部過度に残酷と感じられる可能性があるシーンがあることを警告します。
このようなシーンを好まない方はご鑑賞はご遠慮下さいますようお願い致します。

「過度に残酷と感じられる可能性のあるシーン」というのはつまり、野良犬が猫を殺す場面です。
一瞬見つめ合って、猫はぱっと逃げようとするんだけどあっけなく捕まってしまう。野良犬は猫の首根っこを咥えて数回振回し、芝生の上に横たえる。しかし猫は口から血を垂らしており、もう起き上がらない。犬は猫の体を口に含む。猫の骨が折れる音が聞こえる。死んだ猫の脚を咥えて振回し、鼻先でその体をつつく。それでも動かない猫(だったもの)に、野良犬は興味を失って立ち去る。

このシーンは、この映画に絶対必要だったし、すごく良かった。食べるために殺したわけではなく、勢いよく動いたから反射的に捕まえたのだろう。もっと遊んでほしいのに動かなくなっちゃってつまんないな、ぽいっ、という雰囲気がすごく良かった。
人間は犬の友達ではないのと同じで、猫は犬の友達ではなかった。当然、犬も猫の友達ではなかった。人間が犬相手に好き勝手するのと同じく、犬も猫相手に好き勝手する。
ここで「友達」という表現をしてるのは、人間的な友情という意味合いではないです。むしろ「友達」ではなく「友達ではない」で言葉を区切りたい。それは分かり合えない感の象徴みたいなニュアンスです。まぁ究極的には人間同士であったって分かり合えないものではあるんですけども。
あとこの映画には、芸をする猿をショーに出す人間が出て来るんですが、こっちも別に「友達ではない」。この猿は優しく声をかけられ、客にだっこされたりするけど、人間に好き勝手されている。もちろん飼っている猿に対して愛情はあるだろうけど、どう見ても対等ではない。

でもそういうものだよな、って思う。ライカは別に宇宙に行きたかったわけではないだろうけど、人間の都合でスプートニク2号に乗せられた。ライカは自分が乗せられた物体を人間がスプートニク2号と呼んでいたことすら認識していなかっただろう。そもそも宇宙にいることすらわからなかっただろう。彼女にとっては天災みたいなものだ。

善悪で行動を評価するのは好きじゃない。世の中、計画的に事が運ぶことのほうが少ないし。望まない方向に物事が進んで行く原因が誰かの悪意だったり身勝手さだったりしたとしても、結果的にそうなった状態をひっくるめて進んでいくしかないのだ。
イカを始めとする宇宙犬たちは人間の勝手な都合でその犬生を捻じ曲げられたけど、そのまま生きていくしかない。モスクワの街を彷徨う野良犬たちもそうだし、多くの人間たちもそうだ。世界を変えるほどの大きな権力をもたない多数の人間は、時代に流されてその日その日を生きている。もちろん大衆が大きな波をつくって時代を変えることはある。しかしその波がひとたび生まれてしまったら、個々人は自分たちが起こしたはずの波に自分たち自身が呑まれることにもなるのだ。そんなものだよな、と思う。

そんなことを考えて観ていました。言葉少なで、映像の美しい映画でした。好きなタイプの映画だ。

西崎憲・編『移動図書館の子供たち』を読みました

<kaze no tanbun>シリーズ第二冊、『移動図書館の子供たち』です。
シリーズ一冊目の『特別ではない一日』が実に好みだったので、続刊を待っていました。待っていたくせにチェックが漏れていて、気付いたら出ていたので慌てて読んだ。<kaze no tanbun>シリーズは次の『夕暮れの草の冠』で終わりだそうで、寂しい。

しかしまぁ、とにかく第二巻です。短文アンソロジーということで、全体的に短め。10ページを超えると、長いな、という印象。
前回に続いて参加している人もいれば、新たに加わった執筆者もいます。目次は以下の通り。公式サイトに記載があります。

古谷田奈月『羽音』
宮内悠介『最後の役』
我妻俊樹『ダダダ』
斎藤真理子『あの本のどこかに、大事なことが書いてあったはず』
伴名練『墓師たち』
木下古栗『扶養』
大前粟生『呪い21選──特大荷物スペースつき座席』
水原涼『小罎』
星野智幸『おぼえ屋ふねす続々々々々』
柳原孝敦『高倉の書庫/砂の図書館』
勝山海百合『チョコラテ・ベルガ』
乘金顕斗『ケンちゃん』
斎藤真理子『はんかちをもたずにでんしゃにのる』
藤野可織『人から聞いた白の話3つ』
西崎憲『胡椒の舟』
松永美穂『亡命シミュレーション、もしくは国境を越える子どもたち』
円城塔『固体状態』


いやぁ、今回も実に良くてですね、目次だけでニヤニヤしちゃう!
初めて読む人もいれば、もともと好きな人もいて、アンソロジーって楽しい。嬉しい。

装幀が楽しくて、貸し出しカードがついてます。カードの裏には我妻俊樹さんの短歌が載ってたんですが、もしかしてこれ、本によってバリエーションがあったりするんだろうか。買う時は店に在庫がこれ一冊しかなかったし、カードの存在に気付かず買ったので後から気付いたんですが。
あとデザインについてもう一つ、作品によって本文の位置が上寄りだったり下寄りだったりしていて、さりげなく面白かった。読むときに邪魔にならない面白さであるのもポイントが高い。

好きな作品たくさんあるのですが、今回私が一番刺さったのは斎藤真理子の『あの本のどこかに、大事なことが書いてあったはず』。斎藤真理子は唯一二作品寄稿しているけど、ちがう場所に配置するところがうまい構成だなぁ。それそれ3ページずつの「短文」なので、ばらしておいたほうが似合う。
で、『あの本のどこかに、大事なことが書いてあったはず』は、タイトルの通り大事なことが書いてあったはずの本の話。右ページだった、と思っているのに、実際見たら左ページにあった、という話。「亡命する」という表現にぐっとくる。

 私が目をつけた文章をこっそり亡命させるべく、静かに動いているものがいるのではないだろうか。それがどこかに待機していて、お茶を飲んだりしていて、指令が出ると動き出す。指令は私が出しているのかもしれないが、どちらかというと本当は、私もそこに混じりたい。(P.50)


本の話といえば、星野智幸の『おぼえ屋ふねす続々々々々』もとても好みだった。ボルヘスの『記憶の人フネス』を下敷きにした作品ですが、なぜ私はまだボルヘスを読んでいないのか。読もう読もうと思っているのに。ボルヘスを読んでいる方が、この作品も味わい深く読めるんだろうなぁ。
星野さんのところの「ふねす」は、その抜群の記憶力でもって図書になった存在。そんな「ふねす」から成る図書館というのはどういう場所なのか、という話です。零れていく記憶が惜しくてたまらなかった(最近はさすがに諦めた)私からすれば「ふねす」はすごく羨ましい存在だ。こういうものに、私はなりたかった。

 で、ふねすが普段何をしているかっていうと、思い出している。一秒に限ってもこんなに膨大な記憶になるのに、それを思い出している。全部まとめて、時系列とか関係なくランダムに、思い出している。十一日前の昼下がりの、日が陰った瞬間の木漏れ日の消え方と、おととしの同じ日の丑三つ時の、雲から半月が顔を覗かせたときの輝度の増し方を、同時に思い出している。思い出したからどう、ということはない。特に感想も感情もない。ただ、それが今ここで起こっているかのように、ふねすの中でそれが起こっている。(P.118)


藤野可織は前回に続いて今回も参加していて嬉しかったです。『人から聞いた白の話3つ』、3つの白が何にまつわるものなのかは、敢えてここでは伏せておきますが、日常に潜む不穏さのチラ見せ具合が好きでした。2つ目の白の異常さ、異常さと白という組み合わせ自体がそわそわする異常さであることも含めて、2つ目の白がぐっとくる。


いやしかし、そんな気はしていたけど書き出したら止まらないな。西崎憲の『胡椒の舟』の落ち着いた文体に滲み出てくるような違和感もすごく好みだし、水原涼の『小壜』の凝縮された空気の濃さには呑み込まれる。円城塔の『固体状態』は相変わらず円城塔で頼もしい。

あと、古谷田奈月の『羽音』には、最初の一文で全部持っていかれた。

 人生でただ一度だけ、歌うために生まれてきたのだと信じたことがある。(P.8,『羽音』)

この一文を、このアンソロジー全体の最初の一文にしたところも痺れる。

『夕暮れの草の冠』、楽しみに待っています。

映画『デカローグ』5,6を観てきました

www.ivc-tokyo.co.jp

最初は『不思議惑星キン・ザ・ザ』を観に行くつもりだったのだ。しかし当てにしていた映画館ですでに公開終了していたので、じゃあ別のを……となった。お気に入りの映画館であるシアター・イメージフォーラムのHPで『デカローグ』をやってることを知り、観に行くことにしました。というのも、ちょうどいま読んでいる山田稔の『シネマのある風景』で、この映画について書かれていたのです。この偶然は観るしかない。

しかしこの作品、4月からもう公開していたんですね。そういえば見かけた気もするけど、気にしていないと目に入らないものだ。
デカローグとは、日本語にすれば十戒のこと。十戒にちなんだ約60分の映画10本で構成された作品となります。今回は観たのは、そのうちの「5.ある殺人に関する物語」と「6.ある愛に関する物語」の2本。2本で頭も心もいっぱいいっぱいだった。
ちなみにこの2本はストーリーがどうとかという話ではあまりないので、この記事では結末に関することも配慮なく記載しています。未見のかたはご注意ください。



「ある殺人に関する物語」は、青年ヤツェックがタクシーの運転手に強盗殺人をはたらいた廉で死刑判決を受け、執行されるまでを描いたもの。ヤツェックの弁護を担当したものの、死刑を阻止できなかった新任弁護士ピョートルの無念が響く。
この作品は、判決がどうなるのかを手に汗握って見守る類の話ではない。ヤツェックの有罪も死刑も冒頭からすでに明らかだ。この作品が突きつけてくるのは、タクシー運転手を殺した青年が、法に依って合法的に殺される事実。
ヤツェックが何故強盗殺人をはたらいたのか、その動機は語られない。犯行に使うロープをリュックに忍ばせて街を彷徨い、獲物となるタクシーを物色するヤツェックの昏い目つきよ。
カフェでコーヒーを飲みシュークリームを食べ、ロープを片手にゆっくりと巻き付けるシーンが実に良い。彼はそのカフェで、死んだ妹と同じくらいの年頃の少女たちと窓越しに視線を交わし、にっこり笑うのだ。それがもう、少年のようにあどけない。手に巻き付けたロープ(観客は、このロープが何に使われるのかをまだ知らない)を慌ててリュックの中に戻したりする。後ろめたさがにじみ出ている。でも女の子たち二人はその場を去ってしまう。彼は再びロープを手に巻き付ける。あ、引き返せなかったんだ。ゆっくりと手にロープを巻き付ける動作が映える。
ヤツェックについた弁護士ピョートルはこの事件が初めての担当らしく、「私がもっと経験豊富だったなら、彼の死刑は回避できたのでは…」と自分を責めている。年老いた裁判官はそんなことはないというが、ピョートルは後悔が拭えない。彼は死刑の執行直前にヤツェックに会い、死んだ妹の話や彼の家の墓の話を聞く。ヤツェックの犯した殺人は計画的なものであったはずだけど、ここでは彼はただの少年、死を前にして怯える子供だ。刑の執行に立ち会ったピョートルの目には、死刑が国家的な殺人にしか見えない。
死刑制度については多分永遠に決着はつかないだろう。いつの時代にも、どの地域でも、賛成の人と反対の人がいる。どちらにも言い分がある。なお私個人は制度としては残して、実質的には誰もその対象にはしないのが良いと思っている。
ダンサー・イン・ザ・ダーク』をちょっと思い出したりもしたけれど、「ある殺人に関する物語」では死刑執行前の執行部屋準備の場面が凄かった。首を吊る時に足元の床が問題なく開くかどうかのチェックとか、縄の長さを調整するために巻き取るリールに油を差したりとか。システマチックに計画的に行われる刑の執行。無自覚に行われる殺人だ。ヤツェックが犯行に至るまでの準備と、ヤツェックの刑が執行されるに至るまでの準備が交互に映されるのがうまい。
死刑は、法を犯した者に対する社会からの報復なのか。不当に生を奪われた被害者とその家族の無念は勿論あるだろう。ただ、人が人を殺すという点において、死刑は殺人と同じである。だからなんていうか、多分、どこかで諦めなきゃいけないんだろう。どちらかを明示的に選択するしかないのだ。善悪などという曖昧なものを理論だけで決着つけようなんてできるわけがないんだから、殺人と開き直ったうえでやるかやらないか決断するのだ。正義の行いだとか例外だとか言い訳せずに、人としての罪を犯すという毒を飲み干す覚悟があるなら、それならそれでよいだろう。時と場合によっては間違いを選ばなくちゃいけないこともあると思うし。でもなぁ、それっぽい言葉でごまかして知らないふりするのはやっぱりなんかすっきりしないし、そういうのってついごまかしたくなるから、私はやっぱり嫌だな。しかも今結構他人事みたいな口ぶりで書いているけど、2021年の日本国には死刑制度健在だから、全然他人事ではない。何もしていなくても責任の一端を担っているのだ。



「ある愛に関する物語」は、郵便局で働く内気な青年トメクが、向かいの家の女性マグダの奔放な私生活を望遠鏡で覗き見していたのがバレる話。トメクは郵便局で働いていて、彼女に会いたいがために偽の為替通知を偽造して彼女の郵便受けに投函し、自分の働く窓口まで来させたりする。
率直に言って完全にストーカーなんですが、陰湿な雰囲気ではなくかわいらしさが先にくるのは、演出の上手さなのか。もちろんストーカーは犯罪ですよ! 普通に考えて自分の部屋を覗いてるうえにいろいろ嫌がらせしてくるストーカーなんぞ、ただただ不気味である。決して真似してはいけません。でも恋愛映画はファンタジーなので。
覗かれていたことを知ったマグダに「何が望みなの? キス? セックス?」と訊かれたトメクは少し怯えたように首を横に振り、「喫茶店で僕と一緒にアイスクリームを食べてくれませんか」と言う。そして牛乳瓶を積んだリヤカーを引いてアパートの間の道を踊るように走り去るトマクの姿。この一連の流れが素晴らしかったです。空いた牛乳瓶がぶつかり合ってシャラシャラいうの、好きでした。この作品の中で、トメクはこのときが一番うれしそうだったな。トメク役はオラフ・ルバシェンコ、繊細で可愛いくって非常によろしかったです。
牛乳瓶の場面に限らず、電話のベルやら目覚まし時計が鳴り響く音とか、生活音を響かせているのが印象的でした。トメクには、彼自身が住んでいる家の生活音は聞こえるけど、自分が覗いているマグダの家の音は一切聞こえない。たとえばマグダが恋人と喧嘩して帰宅して、冷蔵庫から出してテーブルの上に置いた牛乳瓶を倒してしまうシーン(これがまた良い)。トメクは瓶が倒れたことを望遠鏡越しに見ているけれど、倒れた音は聞こえない。肩を震わせるマグダが見えるけれど、彼女の泣き声は聞こえない。
とはいえお互い物理的に近づいても、彼の純粋すぎる愛情はマグダには届かないし、マグダの求めるものはトメクにはわからない。トメクはマグダに触れたくて触れるわけじゃなく、手を握るのもおっかなびっくりだ。セクハラまがいに肉体的接触を強要されると、傷ついて家に逃げ帰り手首を切ってしまう。悪魔的な純粋さである。トメクはしきりに「愛している」っていうけど、マグダはそれを幻想だという。そりゃそうだわって感じである。19歳で純粋一途ってほんとタチ悪いな。別にトメクの気持ちを疑うわけじゃないけど、求めているものと与えたいもののタイミングがズレすぎてて、これじゃ噛み合うわけがない。精神的なものと物理的なもの、どっちも必要だと思うけどな。
ちなみにこれは十戒ネタなので、「隣人を愛せよ」ではなく「姦淫するなかれ」であるはずなんですよね。どこが姦淫なのか。マグダに恋人がいるからか。覗きというのもちょっと違うしな。
あと気になる点として、『デカローグ』を観るきっかけのひとつとなった山田稔の映画エッセイでは、「ある愛に関する物語」のあらすじがちょっと違う風に書かれていました。結末部分も違うので、彼が観たあとに、また少し構成を変えたのかもしれない。山田稔が観たのはまだ『デカローグ』内の一編になる前のものであったようだし。個人的には今回観たラストが良いなと思います。吹っ切れた顔しててよかった。


どちらも非常に濃い60分で大満足でした。他のも観たいけど、全部みたら600分……
監督はクシシュトフ・キェシロフスキポーランドの人らしい。他の作品も機会があったら観るようにしよう。すごく良かった。