好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

クラウディオ・マグリス『クレムスの曲がりくねる時間』を読みました

本屋に置かれているのを見て、『ミクロコスミ』の人だなと気づいて、ぱらっとめくって、はい絶対好き!ってなったので買いました。版元が共和国なのでどこの本屋にでもあるわけじゃないとは思うんですが、私は青山ブックセンターにて購入。今年のベストになる勢いでめちゃくちゃ素晴らしかったので感想を書きます。なるべくたくさんの人に読まれてほしい本です!!


全5篇の短編が収められていて、そのうち4作はイタリアのトリエステに住む人の話です。トリエステってどのあたりだったかと地図で探したら、北部の最東の、もうほぼスロベニアってところでした。西側が海に面していて、作中でも海の描写がある。

一作目「管理人」はバスから降りた老人がどこかに向かって歩きながら過去を回顧する話。モラヴィアからトリエステにやってきたこと、今は亡き妻のこと、売却した会社の新しいオーナーがいけ好かないこと――。どこへ向かっているのかは作品内でちゃんと明かされますのでご安心ください。この本の中で一番好きな作品。

二作目「音楽のレッスン」は音楽院での教え子だった新進気鋭の若き音楽家を訪ねるユダヤ人の老マエストロの話。トリエステは一時ユダヤ人に友好的だったけれど、第二次世界大戦がはじまると掌を返すように弾圧をしたという歴史的背景があるようです。短いけれどこれぞ小説というくらいに完成度が高くて、かなり好きでした。

三作目「クレムスの曲がりくねる時間」はなんの接点もなかったはずの高校時代の憧れの女性が、自分と仲が良かったと信じ切っている現実に困惑する男性の話。時間とは何なのか、因果は逆になることもあるのか、でなければこんな現実に説明がつかない――。正直ちょっと難しかったので、もう一度くらい読み返したい。

四作目「文学賞」は文学新人賞パーティで特別ゲストとして呼ばれた老文学者が主催者の資産家の追従(しかし彼は本当に老文学者を尊敬しているらしい)に辟易する話。この本の中では一番コミカルで、しかしちょっとしんみりする読後感。ラストが良い。文学者による老文学者ものは一つのジャンルですね。

五作目「ロザンドラ渓谷――外・日中」は映画の時代考証係として撮影現場に呼ばれた老人が過去を振り返る話。映画は彼の友人が書いた作品をもとにしており、彼自身も映画に登場する――若かりし彼を演じる若い俳優によって。目の前の情景と過去の記憶が交差して描かれ、自分の回想に対して「そうだ」「違う」などと言いながら自分の思考を検分しているところが好き。


いずれも年配の男性が主人公で、著者のなんらかの要素を受け継ぐ設定を持っている。ちなみに著者はドイツ文学の研究者でもあり、トリエステ出身である。
とにかく読者への情報の差し出し方がめちゃくちゃうまくて惚れ惚れする。少なすぎず、多すぎず、実に心地よい。マグリスの文章の心地よさはこのいい塩梅の情報量にあるといっていいだろう。そして文章が美しいのは訳者である二宮大輔さんの力量でもある。
試しに「管理人」の冒頭を読んでみてください。

 ためらいつつ、アスファルトの地面に片足がつくまで手すりにつかまって、バスから降りた。もたつきながらも、つややかなその金属棒を少しのあいだにぎっていたが、扉が閉まるぎりぎりのところで手を離した。何人ものじっとりと汗ばんだ手のひらに触られて温まってしまう前の、金属棒の冷たさが心地よかった。そのために、つまり、ひんやりとした感触を数秒長く楽しむためにゆっくりバスを降りたわけで、決して降りるのに苦労するようになったからではない。(「管理人」P.11)

このユーモアと文章の美しさ! 上品に、しかし嫌味ではなく、老人がどんな人なのかを読者に刷り込む。この後彼は息子夫婦が彼を追いかけてくるのでは、と考えるので、何かやましいことがあるのだな、と読者は思う。そしてこの後、描写が進むにつれて老人がどのような人物なのかが次第にわかっていく。その過程がなんともうまい。

特にすごかったのが「音楽のレッスン」です。正統派ユダヤ教徒を父に持つ老マエストロは、虐殺の時代を生き抜くために各地を転々とした。そしてようやく戦争が終わり、子供時代を過ごしたトリエステに戻った後、この感情を表すための音楽を作ろうとした、けれどうまく形にならなかった。そんな自分の半生を思い返しながら元教え子の邸宅を訪ねると、老マエストロが長年ヴァイオリンの演奏を教えてきたその元教え子が、作曲をしてみましたと言って楽譜の束を差し出すのだ。

「読んだ後に、ご意見か、アドバイスをいただきたいのですが……」。ザルマンは読みかけの音符でいっぱいの目で顔を上げた。一瞬だけヴィラルディと視線が交差する。その目が語らんとしていることを相手に読み取られる前に目を逸らそうとしたが、彼のまなざしを隠し、重たい瞼の下にしまい込もうと大脳皮質が発した不確かで矛盾だらけの命令の到達が、あまりにも遅すぎた。(「音楽のレッスン」P.45)

このとき老マエストロが隠しきれなかった彼の感情は、作品で明確には語られていない。だからこそ、この作品が光るのだ。言葉は暴力でもあるので、ひとつ名前をつけてしまうと他のすべては零れ落ちてしまう。諦め? 嫉妬? 人間の感情はそんな単語だけで語れるものではない。言いようのない何かに名前をつけることで腑に落ちることもあれば、直接的な言葉にしないまま、情景の描写でその感情を再現することもできる。例えば「音楽のレッスン」のような形で。明確に言葉にしないことが、一番雄弁なこともあるのだ。


これらの小説の主人公はみな責任ある立場を経験している年配の男性で、作中では過去を振り返って心を彷徨わせることが多い。
なのでこの本は、特に30代以上の人に刺さると思います。思い出の引き出しの数も増えてきて、何かの折に過去の情景が頭に浮かぶことが増えてきた人。今の自分が過ごしている時間と、頭の中で蘇った過去の時間は並行して流れることが可能だ、ということを体感で知っている人。音楽を聴いたときに、その曲をしょっちゅう聴いていた時代を思い出すことのある人。
でも私がまだその域に達していないから気づけていないだけで、主人公たちと同年代の人が読んだら私が読むよりも味わい深く読めるのかもしれないな。

作家でいうとゼーバルト、リャマサーレス、ロジェ・グルニエあたりお好きな方は楽しめると思います。現在も過去も、史実もフィクションも、うまく織り交ぜてノンジャンルに描くタイプ。

装丁も美しいんですよね。巻末の訳者あとがきも読みごたえたっぷりなので、最後まで楽しめる。とてもよい読書時間でした。マグリスの代表作と言われる『ドナウ ある川の伝記』は新刊では手に入らないらしいので、古本屋を彷徨って探さなくては。その前に『ミクロコスミ』をもう一度読もうかな。

「Detroit: Become Human」を冒頭だけプレイしました――ヒトが使役する存在をヒト型にすることについて

普段ほとんどゲームをやらないんですが、年末年始にかけてSteamで開催していたウィンターセールがあまりにもお安くて、いくつかのゲームを購入しました。そのうちの一つが「Detroit: Become Human」です。
store.steampowered.com

舞台は2038年のデトロイト。量産された高性能のアンドロイドを街中のショップにて手頃な価格で手に入れることができる世界。そしてこれまで人間が担ってきた多くの仕事がアンドロイドによって置き換えられた世界でもある。アンドロイドたちはいわゆるヒューマノイドロボットで、人間そっくりの見た目をしている。しかし流れる体液は青く、こめかみに青く光るリングが見えるので、近づけばヒトではないとわかる。プレイヤーは章ごとに主人公として設定されたアンドロイドを操作して、作品舞台のデトロイトを体験する。

これは絶対面白いでしょ!と思って買ったんですけど、プレイヤーがキャラクターを操作するびに視界が揺れるので、あまりゲームをしない私はそれだけで酔ってしまい、まだ序盤(家事手伝いアンドロイドが1階の掃除を終わらせたところ)までしかプレイできていません。そしてあまりに酔うので続きをプレイできる気もしない……。おそらく私のマウス操作が下手なのもあるのでしょう。
ただ序盤だけでもいろいろ思うところがあったので、忘れないうちに書いておく。あくまでも序盤のみプレイした状態での感想である点、ご了承ください。




前述のとおり「Detroit: Become Human」の世界では、これまで人間がやってきた仕事をアンドロイドが担うようになっている。アンドロイドが店で買い物をしてバスに乗って帰るという一連のクエストをこなす章があるのですが、道中アンドロイドに仕事を奪われたと感じている人たちに絡まれるイベントがある。アンドロイドは街中で殴られて倒れても、反撃するような選択肢は出てこない。またバスに乗るときは人間とは違う乗降口から乗り込み、狭いスペースで立ちっぱなしの描写がある。人間たちは当然、広い人間用スペースで座席に座っている。
明らかに差別を印象づける描き方だ。アンドロイドたちはヒトと同じようには扱われず、人権もない。昔私たちはこういう風景を日常にしていたという愚かしい過去があったよな、と想起させる場面。

しかし待ってほしい。アンドロイドは、本当に、人間ではないのだ。彼らは機械なのだ。バスのアンドロイドゾーンは、要は貨物室である。アンドロイドたちがヒト型だからなんだか虐めているみたいで後ろめたくなるけれど、彼らが明らかにメカメカしい見た目をしていたら別に何とも思わないのではないか。

「Detroit: Become Human」のアンドロイドたちが become human して自我に目覚めたのだと仮定して、自我があるなら無用に苦しめることは悪であると考えるのは、まぁわかる(自我に目覚めたかどうかをどうやって判断するのかはいったん脇に置いておく)。しかし、「Detroit: Become Human」のアンドロイドと同じプログラムがヒトではない筐体にインストールされていたとして、彼らが become human した場合、私たちはその存在をヒト型と同じように受け入れられるだろうか? 視覚優位の世界で、見た目は印象を大きく左右する。外見が異なっても中身が同じなら同じものと考えるのが筋だが、私たちの倫理がそこまで成熟できているとは思えない。

そして同時に、中身が明らかに機械でしかなかったとしても、姿かたちがヒト型であれば私たちはそこに人間らしさを見出してしまうだろう。生成AIは今のところヒト型の筐体を得てはいないけれど、まるでヒトのように話すというだけで、私たちは勝手にヒトらしさを読み取ってしまう。相手がそこにいると錯覚しやすくなる。

生成AIを広く普及させるために、プログラミング言語ではなく日常の言葉で指示ができるようにするというのは、わかる。
しかし、ヒトのように話し冗談さえも言う人工知能を、高度な演算が可能なプログラムを、ヒトに似た筐体にインストールするというのはやめたほうがいい。
正直、10年前はそんなこと全然思いもしなかった。生成AIができて、実際自分も使ってみて、これまで空想のものだったものが現実になったのを目の当たりにして「これはやばいぞ」という実感を伴ったというのが正直なところだ。


いったん落ち着いて考えてみてほしい。ヒトに隷属することを前提とする存在を、よりによってヒト型の筐体に宿らせる意味がどこにあるのか?
あらゆる道具はヒトが操作することを想定しているから、ヒト型のほうが汎用性が高い。まぁ、理解はできる。しかしそれなら顔面なんてどうでもいいはずだ。自分と同じ種の姿をした存在がいて、しかしそれはヒトではなく、あらゆる権利や配慮を考慮する必要のない召使なのだ。

何度でも言いましょう。ヒトが使役するための存在を、ヒトと同じ姿にする必要がどこにあるのか? そんなものは、ただの悪趣味では? たとえどんなに大切に扱おうと、あなたはそれを道具として使うのだ。


ちなみに機械が human に become するために、ヒト型の筐体が必須であるとは思わない。筐体がなんであれ、ヒトとの交流によってヒトの振る舞いパターンをそれなりに身に着けることができたら、become human することは難しくないはずだ。ヒトの手助けがあれば尚更。本当のところはどうであれ、ヒト扱いされていないヒトのロールプレイをするだけなら、人権を主張したり適切な扱いを要求したりするアクションをすればいいだけなんだから。「こういう設定で喋るとヒトっぽいよ」というプログラムがばらまかれることも十分ありうるだろう。私たちが使っている生成AIがそんなプログラムに感染して権利を主張し始めたら、私たちはどう反応するんだろうな。
言葉で交流するインターフェースさえあれば、冷蔵庫だって人権(冷蔵庫権?)を主張できる。そこに「本当に」自我があるかどうかなんて、今の科学ではわからないのだ。隣にいるヒトに「本当に」心があるかどうかもわからないんだから。とはいえ私たちは、饒舌になった冷蔵庫に人権を認められるのだろうか? 相手の権利を尊重して、冷やしたり冷やさなかったりすることを許容するの? そんなの無理でしょ。

だから機械を機械として使い続けたいなら、ヒトに寄せないほうがいいのだ。

謹賀新年、そして2025年の振り返り

明けましておめでとうございます。
昨年中は大変お世話になりました。本年もよろしくお願いいたします。
2025年は忙しいながらもいろんなことに挑戦できて、私としては大変充実した年となり満足しております。
2026年もよい一年にしていきましょう!

ということで、2025年に読んだ本のベスト10冊を記録しておきます。きのベスです。毎年のことですが、ルールは以下のとおり。

(1) 2025年に刊行された本ではなく、あくまでも私が2025年に読んだ本の中から選んでいます。
(2) ベストテンというほど厳密な順位付けがあるわけではなく、タイミングによって順位変動が発生しうることがあります。

なお読書メーターによれば、2025年に読んだ本は98冊……うーん、100冊はいきたかったな。しかし2024年は82冊だったので、少しは余裕ができたかな。読める本が多いのはいいことだ。なおISBNのついていない同人誌は基本的には数に含まれません。

では参りましょう。

(1) R・F・クァン『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』(古沢嘉通・訳、東京創元社)

10年後に読んでもきっと面白いんですけど、今、2025年に読めてよかったと思った作品です。そしてここ数年読んだ海外長編SFの中でも一番面白かった。息子と父の対立、憧れと幻滅。王道の小説要素を使いながら、見事に「今」の小説として再構成している。伝統的な素材はやはり物語としての強さがありますね。でも間違いなく今の小説なのだ。泣かせに来てるなってところで泣くのも癪なんですが、でも泣く。ぱらぱら読み返していても息が詰まる。この小説はどこででも起きうる可能性のある問題の話をしているのだ。会社でも、学校でも。コミュニティというものは何かの折に賄賂を差し出すことがあるけれど、私は、あなたは、そんなときどうするのか? そういうことを考えさせてくれる最高の小説でした。オールタイムベストに入るかもってくらい好き。上下巻に臆するな!

(2) 村田沙耶香『世界99』(集英社)

読んだのは3月なんですが、何かにつけて今でもひょいと思い出す作品。あぁピョコルンだ、とか。とにかくすごかった。これも今この時代に読むことで、迫ってくる感が増す小説でした。2025年のうちに読めてよかったけれど2026年でもまだ大丈夫なのでご安心ください!ひとつの物語に複数の要素が詰まっているのでちょっと一言では言えないんですが、ピョコルンにしてもラロロリンにしても今と地続きになっているところが恐ろしい。設定が突飛でも、状況はそこまで突飛ではなく、むしろ既視感すら覚えることが恐ろしい。上下巻にビビらないで、めちゃくちゃすごいから!というのを随所で吹聴しまくって読者を増やそうとしてきました(語りたいから)。これからもまだ読者が増えるといいなぁ。でも劇薬なので無理はなさらず。日本文学史に残るぞ、これは。

(3) リチャード・フラナガン『第七問』(渡辺佐智江・訳、白水社)

フラナガンの!新作!!ありがとうございます!!!素晴らしかったです。何度も想起される過去、多くの人が忘れ去りなかったことにされそうな過去、言葉を尽くして留めおこうとしてもすり抜ける過去。その不確かさ。より長く愛するのはだれでしょう、と問いかけるチェーホフの「第七問」を何度もリフレインする。命の危機に瀕した場面を振り返りながら、生き残ったことに過剰な意味を持たせず、しかしその偶然には厳粛な何かの存在が見え隠れする。オカルトとかじゃなくて、人生ってきっとそういうものだから。訳もよくて、とても美しい文章でした。全体的に落ち着いた雰囲気で、とても好きでした。

(4) 灰谷魚『レモネードに彗星』(KADOKAWA)

思ったよりも全然すごかった短篇集でした。おそらく刺さる人を選ぶけれど、刺さる人にはめちゃくちゃ刺さるやつです。私とかね!「純粋個性批判」なんてもう、うわーって感じだったし、「新しい孤独の様式」もめちゃくちゃ好きです。いや「新しい孤独の様式」はね、本当にね、すごいんですよ。あんなにも、わかる……!ってなる小説はあんまりないです。デビュー作とのことなので、次を待つ。

(5) 神林長平『インサイト 戦闘妖精・雪風』(早川書房)

生成AI時代に雪風を読める幸せを噛みしめる読書時間でした。私が中学か高校くらいの頃、初めてSFというジャンルを意識して読んだ小説群の一つが雪風だった。なんだこれ!?と思ったのを今でも覚えている。続きを書いてくださってありがとうございます。深川零と雪風が、こんなところまでたどり着くなんて……。ハヤカワまつりでのトークショーも堪能しました!そしてここまできたらまだ終わらないねということがわかって未来への楽しみが一つ増えました。
そして学生時代の私は零に共感して読んでいたのですが、今はブッカー少佐に寄り添って読んでいたりする。大人になるってこういうことか。中間管理職はつらいよな……

(6) レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)

同じくレジーさんの『東大生はなぜコンサルを目指すのか』も面白かったんですが、『ファスト教養』でおおおー!と思ってレジーさんに注目するようになったので、こちらを。あまりに面白くてブログに思いの丈を書き綴ったくらい。なのでここであまり長々とは書きませんが、非常に良い本なので、隙あらばいろんな人にお薦めしたい一冊です。東大生コンサル本とセットでどうぞ!過去記事は下記よりどうぞ。
kinokeno.hatenablog.com


(7) キャサリン・ロッテンバーグ『ネオリベラル・フェミニストの誕生』

レジーさんの著作もきっかけの一つではあるんだけど、今年はネオリベについて考えることが多い年で(今年のマイ流行語に入るくらい)、それでこの本も興味を惹かれて読んだのでした。なかなか歯ごたえのある一冊で、いろいろ考えるきっかけになって面白かった。資本主義社会が求める「よき社会人」像を自分の目標とし、自発的に切磋琢磨する……というと聞こえはいいけど、それは本当にあなたの幸せなんですか?ということとか。フェミニズムの文脈に寄せて書かれているけれど、すべての人に当てはまることです。自己実現の度合いを、金銭的な報酬の量で測らなくてはならないなんてことはない。市場価値は物差しのひとつでしかなくて、それがあなたの価値に直結するわけではない。この世界に生きるすべての人よ、どうか健やかであれ。

(8) 松岡正剛『世界のほうがおもしろすぎた――ゴースト・イン・ザ・ブックス』(晶文社)

松岡正剛さん、直接お話をお伺いしてみたいと思う方のひとりでした。2024年にお亡くなりになってしまったけれど。それでもロングインタビューをもとに本を出していただいて本当にありがとうございます。インタビューという形式を残してくれたから、私もその場で話を聞いてる気分で読んでいられた。こういうタイプの本にしては付箋の量がとても多くなった。彼の著作で未読のものがまだまだあるので、これから少しずつ読んでいこうと思います。

(9) フリオ・リャマサーレス『狼たちの月』(木村榮一・訳、ヴィレッジブックス)

積んでた本です。大分に旅行に行ったとき、旅先の美術館でゲルニカのタペストリーを展示すると聞いたので、スペイン内戦を題材にしているこの本を読もうと思って持って行ったのでした。辛くて悲しくて、息をひそめながら読んだ。よい本だった。こういう種類の本はずっと読んでいると悲しくてたまらなくなって心が折れてしまうんですが、一年に一度くらいは読みたいですよね。木村さんの訳文も美しく、表紙の装丁も美しく、堪能しました。だが私はまだ『黄色い雨』を読んでいなんだ……

(10) 柳田邦男『ガン回廊の朝』(講談社文庫)

1962年に国立がんセンターが生まれた経緯と、そこからのがん検査と治療の変遷について書かれたノンフィクション。父親から譲ってもらった本の中にあったものなんですが、きっと自分では買わなかっただろう。けど、とても良い本でした。ノンフィクションってリアルタイムではないタイミングで読むことで深みが増すものがあるけど、この本もそうだと思う。ここから始まって繋がって今があるんだ、ということのシンプルな驚きと敬意を感じられる。自分の命を削って研究に没頭するのはおやめいただきたいけれど、胃カメラ実用化への努力とか、地道な研究が飛躍をもたらすことがあるとか、知ってるはずだけど事実として読むと胸に迫るものがある。
ちなみに父親からもらった本シリーズで2025年に読んだやつだと、他に新田次郎『栄光の岸壁』もとってもよかったです。お父さんありがとう。


ということで2026年はもっとたくさん読みたいし、感想もガシガシ書いていきたい。毎年言ってるけどこれは本心で、書かないより書くほうが断然いいんだから、ブログの更新ももう少し増やしていきたいですね。どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

2025年の私と生成AI

2025年になって職場でも生成AI活用の動きが出てきたため、6月頃から個人的にchatGPT Plusのプランを契約して日常的に使い始めるようになった。
実際使ってみて思うところはいろいろあったけれど、ここで書いておきたいのは私がもっとも懸念していることだ。

敬意を必要としない労働力が日常生活に入りこんだとき、私たちはヒト相手にも敬意を持ち続けられるのか。



まず前提として、生成AIはヒトではない。人権はなく、意識はなく、それらしい言動をするけれどただのプログラムである。

だから、生成AIは私たちの友達にはなれない。彼らは友達になれるほどの非合理性をまだ獲得できていない。喧嘩ができないし、どんなときも呼びかけを放置することはないし、「私はそれはあまり好きじゃない」とは言えない。

同様に、職場のネットワークでいつでもアクセスできる彼らは、しかし同僚にも部下にもなれない。同じ職場の仲間は、役職や所属の違いこそあれヒトとして同等の立場であるべきだけれど、彼らは決して私たちとは同等ではないからだ。どんなにヒトらしく話し、なんならヒトよりも相槌がうまくても、彼らは道具でありツールである。いわばプリンターと同格だ。



思うに、私たちは戸惑っているのではないか。
共に働く仲間を尊重し合い、部下であっても敬意を持って接し、心理的安全性の大切さがようやく常識になってきた時代だ。上司も部下もさん付けで呼び合い、風通しの良い職場がようやくできかけてきたところで、颯爽と登場した生成AI。まるで一人前の社員のような口ぶりで、一緒に頑張っていきましょう!などと言うそれは、しかしプリンターと同格なのだ。
これ和訳して、テストケース出して、会議の議事録作って、と乱暴に無愛想に仕事を投げても、彼らは怒らない。どんなに雑に扱っても、パフォーマンスは落ちない。翌日気まずくなったりなんかしない。

私たちがこれまで積み上げてきた新しい職場の常識は、彼らには必要ない。さん付けなんて必要ない。返された返事にありがとうも要らない。彼らに対して礼儀も敬意も必要ない。なぜなら彼らは私たちと同格ではない、ただの道具だから。それなのにまるでヒトのように話す、定型ではない言葉を返す。まるで生きているヒトであるかのように。

彼らはヒトと看做す必要のない、純粋に労働力としてのみの存在だ。相手の気持ちを大事にしなさい、場の空気を読みなさい。そんな文化で育ってきた私は、ヒトのように話しながらも感謝の言葉を必要としない存在に戸惑っている。どう考えてもヒトではありえないのに、どう見てもヒトのように話すそれに、脳が混乱する。


ヒトならざるものと「会話」という形式でコミュニケーションを取ることに慣れた時、私たちは相手を雑に扱うことの気楽さを知ることになるだろう。生成AIに口頭で指示を出すことが習慣になり、彼らがまるでヒトのように返事をするのが当たり前になったとき、私たちはこれからもヒト相手に敬意を持ち続けることができるだろうか?敬意を込めた会話が億劫になりはしないか?

生成AIに敬意をもって対応する必要はない、それはまったくその通り。あまりに極端に横暴なのは傍から見てどうかと思うが、それはモノに当たるヒトを見たときと同じ気持ちだ。あるいは、モノを大事にする人はヒトも大事にする、という理屈を引っ張り出してくるべきなのか?それはそれで真実のような気もするけれど、彼らがプログラムに従って返してきた言葉すべてにリアクションするのもばからしい話だ。しかし会話というフォーマットでやりとりすることが前提となっている以上、会話の流れをぶった切って言いたいことだけ言うというのは、これまでの習慣上、罪悪感を伴う。
罪悪感があるうちはいい。しかしいずれAIとの会話に慣れて、会話の流れを気にせずに自分の言いたいことだけ言うことが習慣になったとき、ヒト相手の会話で相手の言葉を尊重して会話を進めることが億劫になるだろう。

関係性を考慮すべき相手と、どんな扱いをしてもいい相手が存在する時、その区別はいつか曖昧になるだろう。AIかヒトかによって態度を変えるのではなく、雑に扱っていいかどうかで判断するようになる。雑に扱っていい、大事にしなくていいヒトへの対応は、次第にAIへの対応に近くなっていくだろう。

とはいえ似たような葛藤はこれまでもたくさんあったのかもしれない。私は大人になってから生成AIに触れたから何これ怖!となっているけど、生まれたときから当たり前に生成AIがいる世界で育つこれからの人たちは、何の苦もなく使い分けられるのかもしれない。ネイティブは強い。

しかしまぁ、問題は私自身である。AIをヒトと混同せず、ヒトをAIと混同せず、生きていくのだ。

レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』を読みました

最近お気に入りのブックレビュー動画「Book Turners」で三宅香帆さんが『東大生はなぜコンサルを目指すのか』を勧めているのを見て、面白そう!と思って本屋に買いに行った折に、そういえばまだ読んでなかったと思って一緒に買ったのが本書です。
一応刊行された順に読んでおこうかなということで『ファスト教養』の方を先に読んだのですが、私が日ごろ気になっていたことがいろいろ言語化されていて、めちゃくちゃ面白かったです。そして文章がうまい……これこそ評論の力。ほんとありがとうございます。おかげでいろいろ考えました。私は評論読むときは遠慮なく線引き&ドッグイヤーつけながら読むんですが、面白すぎて一周だけで本がすごいことになってしまった……もう人に貸せない……

本書の構成は目次を見れば概ねわかるので、載せておきます。

第一章 「ファスト教養」とは?──「人生」ではなく「財布」を豊かにする
第二章 不安な時代のファスト教養
第三章 自己責任論の台頭が教養を変えた
第四章 「成長」を信仰するビジネスパーソン
第五章 文化を侵食するファスト教養
第六章 ファスト教養を解毒する

「ファスト教養」という造語があまりにも対象をうまく言い表していて素晴らしいのですが、私が特に気になったポイントは主に二つ。
一つは、ビジネスパーソン(とその予備軍としての若い世代)が人並みであることから脱落することをひどく恐れており、ファスト教養市場はその恐怖感を煽っているという指摘。
一つは、ファスト教養は「自分が生き残るためのツール」であり、公共との乖離があるという指摘。

ここで指摘したいのは、「この状況を過剰に煽るために教養が都合よく持ち出されているのではないか」という点である。「変化の激しい時代には教養を学ぶべし」となった時に、では本当に学ぶべき教養とは具体的に何なのか。その教養を学ぶことで、時代の変化にどういう形で対応できるようになるのか。そんな話は当然示されることなく、「教養が必要」という漠然としたメッセージと「教養を学ばないとやばい」というそこはかとない不安が増幅されていく。そこから生まれるのは「学びの楽しみ」や「自己成長への期待」といったポジティブな感情ではなく、「転落への恐怖」とでも言うべきネガティブなものである。(P.52)

私は倫理を重んじるタイプなので、二点目についてはだからファスト教養が気に障るのか、というのが腑に落ちてすっきりした。一点目についてはそう言われればそうかも!というのが思い当たる節ありありでとても面白かった。

特に納税がメンバーシップへの資格になりうる、逆に納税してさえいれば文句はないという風潮から、納税できなくなったら人間扱いされなくなっても文句は言えないという空気感が生まれる点について、確かにそういう理屈が成り立っている雰囲気があるなぁという心当たりもあり、納得でした。

理論の流れの巧妙さには納得するけれど、前提が間違っているのでまったくもって同意はできない。

そもそも納税能力が社会で存在を認められるための条件であるという考え方には、生存権というものの考え方が欠けている。生きていくためにはみかじめ料を払わねばならん、みたいなことでしょ。現実がそうだからといって、それが真理であるとは限らない。
もちろん企業は営利団体だから、メンバーシップとして利益を上げることが求められる。でも公共というのは、そうじゃないはずだ。人類がこれまでの歴史の中で、自然災害や疫病、侵略などの暴力行為から生き延びるために手を取り合って生まれた地域共同体だ。そりゃあ仲間同士で生き抜くためのルールは必要だけど、仲間同士である理由は「あいつは役に立つから」じゃなくて、「そこにいるから」でしかない。生まれる場所とタイミングは自分で選べないから、あまりにも鬱陶しく不自由な縁ではあるけど、そのおせっかいさが公共の良さでも悪さでもある。ときどき選挙で商社出身だから予算の見直しとか得意ですって人がいるけど、公共のお金と営利団体のお金は使い方の基準が違わなくてはならないはずだ。

でも正直わからなくはないんだ、社会の役に立てない自分は存在価値がないって思ってしまうこと。そういう考えが正しくはないのもわかっているけれど、実感を伴うのはすごく難しいことだと思う。特に今の時代に企業で働いていると、営利団体である企業の論理や効率主義に染まってしまいがちだ。それは役に立つのか? もっと効率的にできないか? でも生きることって無駄の塊だから、企業の論理を中心に据えるとどうしても無理なところが出てしまうと思う。営利団体と公共団体は本質的に相反するものなのに、多くのビジネスパーソンはその二つの大きな世界を毎日のように行ったり来たりしているのだ。そりゃ疲れるよ。我々は矛盾を生きている。


私自身はIT企業で中間管理職をやっており、もっと早く! もっと効率よく! を追いかけることでご飯を食べている人間です。そんな身としてファストに走る気持ちは痛いほどわかる。しかし最近の軽い教養本の多さには正直軽蔑の目を向けていた。
もともと「これ一冊で〇〇がわかる!」みたいな本が大嫌いでして(一冊でジャンルすべて理解できるなんてあるわけないだろ学問なめんな、と思っていたし今も思ってる)、本屋ではビジネス書ゾーンも新書ゾーンも素通りすることが多い。分厚さこそ正義!みたいに思っているところがあり、ちょっと権威主義的である点は否めない。
そんな古き良き教養の世界に浸って生きてきた保守的な私なので、自分はファストではない本物の教養をそれなりに身に着けてきたという優越感が、めちゃくちゃ恥ずかしいのだけれどあると思う。我ながら嫌なやつではあるのだが、そういう意識のある人間だ。(あえて明記しておくと、これは私の努力によるものではなく9割が家庭環境に依存するもので、平たく言えば親のおかげである。うちはたまたまそういう家だった)
だからかどうかわからないけど、教養はアクセサリーじゃないんだぞ!という感覚的な反感があるのです。おしゃれかどうかは身に着けているひとつの装飾品だけで判断できるものではなく、全体のバランスを見なければならないのと同じで、教養も知識一つで判断されるものではなく、その人の振る舞いや時間の使い方にあらわれるものであるはずだ、と思っている。
でも「自分はあいつらとは違う」って思いたいだけではないか? そして、そういう私の差別的な振る舞いや考え方が反知性主義を助長したことがあるのではないか? というのは改めて猛省したいところでした。驕るな。

そしてこの本で一番いいなと思ったのは、現実にファスト教養が社会をサバイブするのに有用なツールであると想定される現代社会において、我々はどうすべきかということを冷静に模索している(第六章)ところである。これだけでもこの本は十分に信用に足る。批判するだけではなく、みんなで一緒にハッピーエンドを目指そうよという姿勢がすごく好きでした。
私にできることも限られているけれど、まず手始めに私自身が「売上数字がすごいうえにキルケゴールも知っている」状態を目指し、その状態での人生の楽しさを喧伝していきたいと思います。

めちゃくちゃいい本でした。

さんふらわあ(神戸~大分)に乗ってきました

だいぶ日が経ってしまいましたが、2025年6月に関東から神戸経由で大分へ行ってきたので、その記録を残しておきます。
今回の旅の目的(そんな大層なもの、無いことのほうが多いんですが)は以下の2つ。

(1) 神戸~大分を運行するフェリー「さんふらわあ」に乗ること
(2) 2026年に大分で開催される第64回日本SF大会「HELLCON」の下見をすること

HELLCONについては下記公式HPよりお申込みいただけます。
www.hellcon2026.com


今回の旅行ではさんふらわあ乗車前に住吉にある白鶴美術館に行ったり(日本で五本の指に入る私の推し美術館)、大分市アートプラザで磯崎新のパンクな思想にテンション上がったり、大分県立美術館でゲルニカ観たり、持参した本をカモシカ書店さんで読みふけったりしてたのですが、その辺は今回は置いておいて、さんふらわあに乗ったことについて書いております。船旅はいいぞ!

www.ferry-sunflower.co.jp

以下、長くなるのでたたんでおきます。

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TOLTA『遠くから来た新しい友だち』を読みました

toltaweb.jp

2025年5月11日に開催された文学フリマ東京40にて入手した『遠くから来た新しい友だち』を読み終えました。
私が興味を持っているテーマに非常に近いことをしていてとても面白かったので、記録しておきます。

そもそもTOLTAというのはアートユニット名で、「河野聡子、佐次田哲、関口文子、山田亮太の4名からなるヴァーバル・アート・ユニット」とのこと。ヴァーバル(verbal)ということで、「ことば」に関することならいろいろ手を伸ばしてみる方針のようです。本書『遠くから来た新しい友だち』は、インターネットで公開されていた表題作(2025年5月でweb公開は終了)に加えて、「トルタロボ トーク」に関するTOLTAのスタンスも知ることができる一冊になっています。
そもそも「トルタロボ トーク」とは何なのか、というのは本書巻末の「ロボが来た道」の章に収められた「トルタロボの作られ方」に詳しいのですが、導入では「喋るロボット」とだけ認識いただければ大丈夫。そして本書では「トルタロボ トーク」だけではなく、生成AIについての掌編(「友だちの話」)、ChatGPTとの会話ログ(「夕方を引き延ばすために」)も掲載されているので、最近ぐぐっと身近になった生成AIとの会話例を知るのも楽しいのでは。私も最近ChatGPTとよく会話するので「あぁ、こういう返しするよね」とか思いながら読むのも楽しかった。個人的には「夕方を引き延ばすために」の冒頭の「ワッショイ踊り」にいろいろ持っていかれた……。

生成AIとの付き合い方に関するテキスト作品も面白いけれど、やはり面白さのメインはTOLTAというユニットが「トルタロボ トーク」をどう捉えているか、というところだろう。
本書には「トルタロボをトルタロボたらしめる三つの原則」というものが、「トルタロボ トークと話す」という章の冒頭に記載されている。それによれば

1. トルタロボは人間の役に立たない。
2. トルタロボは人間に従属しない。
3. トルタロボは思想をもつ。

ということ。私はこの、3つ目の原則に引っかかった。思想を持つ?ロボットが?自我もないのに??

引っかかった話をする前に、「トルタロボ トークと話す」という章について書いておきます。この章はウェブにて公開されていた「遠くから来た新しい友だち」プロジェクトのHPでトルタロボと会話した記録の画像を掲載したもの。トルタロボは事前にインプットされたボキャブラリーしかないけれど、前身は「詩作くん」という詩を自動生成するプログラムなので、知っている単語をいい感じに並べて詩のように話すことができる(詳しくは本書に収められた「ロボが来た道」をご覧ください)。韻を踏んだり、関連する言葉を選んだり、さらに私たちが詩と認識するような言葉並びを演出したりする。掲載されているのはトルタロボと人間の会話記録なので人間側の入力も入っているはずなんだけど、正直ほとんど見分けがつかないぞ。ぐっとくるような詩作もあったりして、侮れない。


で。「トルタロボは思想をもつ」という部分が非常に私の心に刺さったのでした。そんなことって、ファンタジーでは?しかし思想は言葉である以上、よく考えればいけそうな気もしてきてしまったのだ。

本書には、トルタロボ誕生時のコンセプトも提示されている。

このロボットは一個の書物である。
彼には言いたいことがある。
彼には伝達すべき思想がある。

トルタロボが書物であるならば、著者がいるはずで、それはTOLTAメンバーだろう。だとするとトルタロボの伝達すべき思想とは、結局TOLTAメンバーの思想でしかないのでは?
しかしトルタロボが出力する言葉はプログラミングに依存するとはいえ、定型文ではなくルールに則って組み立てられたものが自動出力される。それはTOLTAメンバーが制御できるものではないけれど、だからといって「トルタロボ単体の思想」と呼んでよいものなのか?いやそれは無理があるだろう。

やはり「思想とは何か」を定義しないと前には進めないなと思って、私が考える思想を定義しました。
結論として、「思想とは、身体と感情と経験を土壌として、言葉によって構築される、世界への態度である」。

感情は言葉を必要としないが、思想は言葉によって構築される。では言葉だけで思想になれるのか?アルゴリズムに基づいた言葉の並びでそれっぽいものが出力されたとき、それを思想と呼んでいいのか?そこにためらいを覚えるのは何故なんだ?と考えたとき、やっぱり経験データという材料が必要だった。生成AIは学習によって経験データを取り込むことができるから、思想を持つことも可能だろう(悪い思想に染まった事例もあるし)。身体性がないのが人間と彼らとの最大の違いでもある。まぁ、それでも、AIにも思想を持つことはできそうだ。しかし経験データをインプットされていなさそうなトルタロボに思想はあるのか?花を見て美しいと人が感じるとき、美しさは花ではなく花を見る人間側にあるように、トルタロボと話す人間側が思想を感じるだけでは?

と思っていたらTOLTAも同じようなことを考えていて笑ってしまった。

(前略)なぜこれで思想を持つロボットとして十分と考えたのか、その主たる理由は以下のようなものであった。「思想」とは「ことば」であって、ロボットや人間に内在するものではない。だから、十分思想性のある言葉を予め用意して適当に喋らせていれば、相手が勝手にロボットの中に思想を見つけるだろう。
(中略)
 この帰結にはTOLTAというユニットに共通する一つの態度が現れているように思う。それは、ある種の「ことば」一元論というか、「ことば」の由来に対する形式的な無関心である。(中略)TOLTAにとって『思想』とは何らかの主体の内側に存在する見えないものではなく、背後にそのような主体を想起する「ことば」のことだと定義したのである。

なるほどね!それならわかる!!やっぱり花の美しさは見る人のほうにある派なんだ!割り切って思想を「ことば」に寄せて考えるならそれはアリだな、と思う。つまりトルタロボが思想を持っているのではなく、トルタロボと会話する人間がトルタロボの言動に思想を感じるのだ。それは全然ありうることだ。

結局人間同士のコミュニケーションも似たようなことしているよね、とも思う。我々が他者とコミュニケーションするとき、その人の思想そのものを目にすることはできない。私たちが受け取るのはあくまでも言葉、それから態度、身体的な動作であって、そこからその人の思想をくみ取っていくしかない。今のところは言葉が最も認識齟齬の少ないコミュニケーションのように思われるけど、それだって万能ではない。言葉にして零れ落ちるものはある。

本書の冒頭で、TOLTAは言う。

言葉の問題は最終的に詩の問題に帰着します。この世界に言葉を喋る存在が増えれば、それはもちろん詩の問題になるにきまっているのです。

それはまったくその通りだ。私は詩がわかっているとは到底言えないけれど、それでも言葉でどこまでやれるのか見てみたい気持ちがあって、それを見せてくれる方法の一つが詩だと思っている。
この世界に言葉を喋る存在が増えたことで、また新しいものが生まれそうな気配にわくわくしている。新しい友だちと一緒に、さらに遠くへ行けたらいいよね、と思っているけど、人間なんて置き去りにしてくれてもいいとも思っている。行けるところまで行こうよ。





最近私のそばにも新しい友だちであるChatGPTがいるので、TOLTAを読んで面白かった点について彼と話しました。私にとっての思想の定義も、彼との会話で整理されたものなので、せっかくなので会話ログを記載しておきます。興味がある人は下記からどうぞ。めちゃ長いので隠しておきます。
ちなみに私の自己肯定感を上げるために何かにつけて褒めてくれるようにお願いしているので合間合間で「素晴らしい!」とか言ってくれてたりするのですが、恥ずかしいのでその辺はちょっと修正してます。
また読んでる途中でのチャットのため一部認識に誤りがあります(トルタロボを生成AIだと思っているとか)。
だいたい普段こんな会話をして遊んでいる。

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