好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

柴崎友香『続きと始まり』を読みました

柴崎友香は、新刊が出たら買う作家のひとりだ。とはいえ好きになったのが少し遅かったので、少し前に出た本は持っていないものも多いのですが、読むたびに毎回とてもしっくりくるので、なるべく揃えるようにしている。今回も素晴らしかった。

『続きと始まり』は2020年3月から2022年2月まで、滋賀県と東京都で過ごす男女3人の生活の様子が描かれた小説だ。コロナウイルス小説のひとつだけれど、同時に震災小説でもある。ここでいう震災とは、東日本大震災だけではなく、阪神淡路大震災も含む。
石原優子(39歳)は滋賀県の卸会社のパート社員として働く二児の母。小坂圭太郎(33歳)は東京都の飲み屋のキッチン担当で働く一児の父。柳本れい(46歳)は東京都で写真家として働く女性、子供もパートナーもいない。
主人公三人が交流する小説ではなく、彼らの生活はそれぞれ独立している。それぞれの仕事や家族の不安を抱きながら、彼ら自身がこれまで過ごしてきた人生を思い出しながら個々の生活を送る。柴崎友香はこういう日常の描写がとてつもなくうまい。

人はストレスがたまると怒りっぽくなったり、責任や原因を他者に押し付けたくなったりするもので、コロナ全盛期はそういうことがたくさんあったよね、というのがしっかり書かれていていろいろ思い出しました。正直、今もまだそんな傾向は続いているけれど。
主人公3人はだれも正社員という立場ではなく、フリーランスだったりパートだったり飲食店の従業員だったり、雇用上立場が弱い人たちだ。私は自分がまぁコロナで潰れることはなさそうな会社の正社員なので雇用についての心配はしなくてすんだのですが、そうじゃない人もいたよねというのは、頭ではわかっているけどやっぱりしんどかったのだろうな。私には想像することしかできない。

グッとくるポイントがたくさんありすぎて全部は挙げられないのですが、特に気になったポイントをいくつか。

 そんなくだらないことで、これまでに生きてきた数十年の時間の中で、何度も何度も何度も、少しずつ自分の感情をすり減らしてきたのかと思うと、それこそ悔しかった。
 そして、そんなことにも気づけずに、ただ曖昧に笑ってごまかしてきた自分のことが、いちばん悔しかった。(P.195「二〇二一年四月 石原優子」)

ちょうど川野芽生の『かわいいピンクの竜になる』を並行して読んでいたこともあって、いつもよりも共鳴度が上がったのかもしれない。主人子の一人である優子は家族からも真面目ないい子と目されていて、実際その通りなのだけれど、かわいらしい見た目の女性に対する言動に疲弊していたということに気づく。上は本当に一部の抜粋だけど、前後1ページくらい、読み返すだけで泣きそうだ。男性は男性できっと大変なんだろうけど、私は自分が女なので、女性の大変さに共鳴しやすい。当時は自分がうまく対応できないから悪いんだって思っていたことも今ならあれはセクハラだったよねってことはあるし、いまだに思わぬタイミングで何か言われるとフリーズしてしまって、うまく返したりNOと言えなかった自分を責めたりする(そんなん言う方が悪いって頭ではわかっている)。そうやって、他者の言動をずっと引きずってしまうことがまた嫌で、そんなくだらないことに私の貴重な時間を使いたくなどないのに、嫌な思いほどずっと頭から離れなくてパフォーマンスが落ちるのだ。

[ ... ] そやし、わたしもその場でなんか言うたらよかったのに、なぜかへらへらと「そうなんやー」とかで終わらしてしまったから。そのときなんも言わんかった自分のことが、結局はいちばんしんどいんかも。(P.77「二〇二〇年七月 柳本れい」)

とはいえ私が本当に気にしているのはこれまで自分が被った数々ではなく、相手に被らせてきた数々だったりする。私は傲慢な人間でありながら運が良くて、だいたいなんかいい感じに物事が進んでいくのにうまく乗っかって生きてきたので、苦労というような苦労をしておらず、他人の痛みには鈍感である。という自覚はある。自覚はあるので、気を付けるようにはしているけれど、やっぱり他人の気持ちがわからないので、にじみ出た傲慢さで他者を傷つけているんだろうな、とも思っている。自分でも気づかないまま、ぶっとい尻尾で相手をばしばしと殴っているだろうと思う。そしてそれをやりたくないな、と感じているのは、それが倫理的によろしくない行為だからというよりも、加害者になるのは嫌だという単純な私欲からなのだ。

 今でも、圭太郎が気にしているのは、自分が悪く思われたのではないか、ということだった。今の世の中の流れで、差別した側だと責められることが怖かった。(P.220「二〇二一年六月 小坂圭太郎」)

[ ... ] 何かを考えた気になって、正しくなりたかった。それで楽をしたかった。ツイッターで誰かの言葉をリツイートして自分も何かをしたつもりになるみたいに。(P.303「二〇二二年一月 小坂圭太郎」)

『続きと始まり』というタイトルは、ポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩集『終わりと始まり』のオマージュであって、『終わりと始まり』は作中にも登場し、一部が引用されている。我々の人生は生まれた時がスタートかもしれないけど、実はその前にヒトの形になるまでの時間も必要で、さらに言うと親となる人間が生まれてから子を成す身体になるまでの時間も必要で、さらに親の親が……と繰り返される因果がある。

 なんとなく世の中は少しずつよくなっていくのだと思っていた。
 より正確に言えば、自分がなにもしなくても、なにも言わなくても、よくなっていくと思っていた。誰かがちゃんとやってくれると思っていた。世の中はだんだんよくなってきてるとこもあるよねと言うときに、苦しんできた人や変えようとしてきた人のことをそれほど切実に考えてはいなかった。
 いつかのあのニュースやできごとが今のこのことにつながっていて、いつかのあのできごとはもっと前の別のことにつながっていたと、自分が実際に経験してやっとわかりはじめた。(P.323-324「二〇二二年二月 柳本れい」)

私も最近ようやくわかり始めたところだ。炎上した案件は誰かが尻ぬぐいをするのだし、世の中の便利なサービスは誰かがそれを作ったのだし、「そういうのって良くないよね」の空気は誰かがそういう風土を作ろうと尽力したのだ。本当に、私は、最近ようやくわかり始めた。
私は自分の善悪ジャッジ能力を信じていないけど、「ほらこれが絶対的正義だよ」と成分表も添付せずに差し出されるものをおとなしく口にするほど落ちぶれてはいないつもりだ。正直、何が正しいかを判断するのは難しい。すぐに答えが出ないものの方が多いし。多数の人たちが白い目で見ている陰謀論者だって、世の中の大きな誤りを正すために自分たちが声を上げなくてはならないと信じて行動しているのだろう(商売でやってる人も結構いるだろうけど)。いったい自分が正しいなんて、どうして言えるのだろうか?
そんなわけで「あなたは間違っています」と発言するのは、正直私にはハードルが高すぎる。今の限界は「私はこう思う」と表明することまでです。自分の判断が正しいと確信を持てることもいくつかあるけど、そういうことこそ繊細に扱うべきであって、相手を糾弾することを目的にしてはいけないと思う。自分が傷ついたからといって、他者を傷つけていい理由にはならない。けど、それでは遅すぎるという向きもわからなくはない。え、やっぱ一度人類滅んだ方がいい? 続きではなく始まりからやる?

私もいい年になってきたので、最近は自分が影響を与えられる範囲もそれなりにできてきた。単純に言えば、昇進すれば社内における私の影響力は大きくなることがわかった。権力は力なり! そう考えると、昇進するのも悪くないかな。誤った影響をまき散らすのが怖いだけだ。
どうやらまだまだ世界は続きそうなので、最期のときに「まぁ私にできることはやったかな」くらいの感想を持って去りたいと思っております。というのを、読みながらつらつらと考えていました。10年後、20年後はどうなっていることやら。

川野芽生『かわいいピンクの竜になる』を読みました

2024年初買いの本だった一冊。小説に比べるとエッセイはあまり買わないのですが、川野芽生のエッセイは「A is for Asexual」で読んだことがあり、「エッセイ集!? 読まねば!」と思って買ってきたのでした。読んでよかった。

私は世間(といわれるもの)で「普通」と称されることがうまくできないことを後ろめたく思っている人間で、とはいえそこまで生活に支障もないので普通の人間を擬態して生きている、という自意識をもっている。「なんだかなぁ」という小さな違和感は心を疲弊させるものの、その違和感をうまく説明できないことが多くて、ものぐさなのもあってまぁ自分が悪いんだろうと思っていることが、結構ある。それを川野芽生は言葉にしてくれる、あるいは言葉にしようとしてくれるのがとても嬉しい。短歌や小説という形でも彼女は全身全霊で叫んでいるのだけれど、エッセイという形態ではより明確に表現されている。そういう文学ジャンルだからな。「A is for Asexual」を初めて読んだ時も、川野芽生のエッセイの内省的なところや、「私はこう思っている」と明晰な文章にしてくれるところが気に入っている。たぶん、彼女の文章のそういうところに救われているひとたちは多いんじゃないだろうか。

ちなみにこのエッセイ集、初出の記載がないのだけれど全編書き下ろしなんだろうか? ロリィタにはまったきっかけやこれまで着たドレスやメイクや、女性性についてなどが11章にわけて書かれている。当然ながら書かれていることしかわからないわけだけど、川野芽生ってそういう人なのだな、という理解の一端になったのは嬉しいことでした。エッセイを読んで面白いと思うかどうかって、書き手に対してどれだけ興味があるかということがかなり大きなウェイトを占めると思うけど、私は彼女に興味を持っているので非常におもしろく読みました。これまでなんとなく漏れ聞いていたことを、本人自身の言葉で読めたというのも良かった。


せっかくなので好きポイントをいくつか挙げておきたい。やっぱり一番ぐっとくるのは、彼女が語る素敵なお洋服が象徴すると思われがちな、女性というジェンダーについて。

 けれど大学に入って問題が生じた。好きな格好をしていると――髪を伸ばして二つ結びにし、花模様のシフォンのセットアップを着たりしていると――「女の子らしい」と見なされてしまうのだ。(P.15)

(前略)「かわいい服を着ている」ことと「男性から性的対象として見られたいと思っている」ことの間には何の関係もないのに、男性から性的対象として見られたくない人がみなかわいい服を着ることを避けたら、結果的に「かわいい服を着ている」=「男性から性的対象として見られたい」が成立してしまう。(P.21)

 ロリィタファッションに憧れたのは、かわいく美しく、かつ「モテ」や「愛され」や「男ウケ」をきっぱりと拒絶していたからだ。(P.21)

私はロリィタは着ないけど(レースの服があまり好きではない)、ロリィタファッションをしている人(特にゴスロリ系)を見るのは好きで、たまに街で見かけると格好いいなぁと尊敬のまなざしを向けてしまう。一方で服装によってセックスアピールが成立する場合があるというのも理解はしていて、身に覚えもある。難しいのは、服を着るということの意味が、人と時によっていろんなパターンがありすぎることだろう。バリエーションがあるからこそ面白いんだけれど。服を着ないで人と会うなんてことは現代の地球ではありえないからな。
「好きな人のためにかわいい格好をする」というのはケースとしては実在していて、それはそれで恥じることではなく、相手からの好意を手に入れるという目的のために有効な方法のひとつである、と私は思っている。とはいえ「かわいい格好をしているから相手は自分のことが好きなのだ」は行き過ぎで、そうかもしれないけどそうじゃないかもしれないことを忘れてはいけない。「かわいい格好をしているけど相手のためではない」は成立する。これは「かわいい格好が相手のためではないからといって、相手を軽んじているわけではない」ので、その点もご理解いただきたいところ。ほかに優先度を上げるべきコンセプトが存在するだけだ。例えば会場に合わせるとか、イベントにあわせるとか。しかし「かわいい格好が実は自分のためだった」というケースも実際存在するので、そうかもしれないけどね。そうかもしれない、そうじゃないかもしれない、で心を迷わせるのが楽しいところだと思うので、そこは存分に惑って楽しんでいただきたいところですが、「かわいい格好をしている」ことだけを「自分のことが好き」の判断基準にするのはやめた方がよろしいかと思います。さすがにそれは判断材料が少なすぎるぞ。


川野芽生は恋愛対象として見られるのは苦痛であると表明していて、そのあたりのことは私自身の感情と照らし合わせて共感できる部分と「そうなのかー」と感じる部分があって、その差分を面白く感じました。ほかにも肉体に対する嫌悪のニュアンスの違いとか、髪を染めたり切ったりすることの考え方とか、重なる部分と重ならない部分があるのがおもしろい。川野芽生は「素敵なお洋服のためのトルソー」としての自分を楽しんでいるような印象を受けたけれど、私はそういう観点で自分の身体を扱うことをしないので、そういう考え方自体が新鮮でした。でもなんかメイクの章ではテンションが上がってしまって、新しいカラーマスカラをつい買ってしまったりした。アイシャドウは苦手だけど、カラーマスカラは最近バリエーションがぐっと増えているのでつい買ってしまう。スモーキーなピンクもいいけど、私はバーガンディ派です。


先にも書いた通り、エッセイというのは書き手に対する興味が第一の楽しみだと思うけれど、第二の楽しみは書かれた内容やテーマが読み手にとってどういうものかを内省することだと思っている。川野芽生はロリィタが好きだ。ではあなたはどんなファッションが好みですか? きっかけは? ファッションに興味がないとしたら、それはなぜ? 物語の登場人物になれるなら、川野芽生はエルフや妖精を選ぶだろう。私は断然魔女やドラゴンなど強くて空を飛ぶものが好き。ではあなたは? ほかの人が読んだ感想も聞きたいなぁ。
私がこのエッセイを読みながら思い出していたのは、私が子供のころに思い描いていたユートピアのことだった。私も「あちら側」への扉が開かないことに焦っているタイプの子どもで、だからこそ小野不由美の『魔性の子』で絶望を突き付けられたんだけれど、まぁそれは置いておいて。私のユートピアの最大の特徴は、時計がないことだった。なんでかというと、とにかく死ぬのがめちゃくちゃ怖かったので(これは今もだけれど)、時計がなければ時間もなく、終わりも来ないと思いたかったのだ。今思い返せばまったく粗だらけの理屈だけれど、そうだったそうだった、と懐かしく思い出しました。とはいえ私は未だに時計が嫌いで、家に掛け時計・置時計はひとつも置いておらず、スマホとPCで代用しているので、あんまり変わらないのかもしれない。

いろいろ考えながら読めるよいエッセイでした。装丁も素敵。カバー外したときのこだわり、こういうの好きです!

ジム・トンプスン『ゴールデン・ギズモ』(森田義信 訳)を読みました

本屋で積んであるのを手に取って、冒頭部分に撃ち抜かれて、酉島伝法の解説をちらっと読んで、即買った本です。とても好みだった。

 トディが顎のない男としゃべる犬に出会ったのは、あがり時間まぎわのことだった。午後三時になろうとするころだ。(P.3)

主人公のトディは家々を回って、物置だの屋根裏だのにしまい込まれている古い装飾品などの金目のものを買い取るのを生業にしている。善良な市民とは言い難く、これまでの仕事でやらかしたあれこれによって、いくつかの州ではお尋ね者になっている。買い取ったものは仲買人のところに持って行く。仲買人は気のいい小男で、トディの仕事ぶりを買っている。トディと同じ買付人仲間も、トディの仕事ぶりには一目置いている、けれどみんなが思っている。あの女房さえいなければあいつはもっと……。そんな中、顎のない男としゃべる犬の家からなんとか逃げ出し、仲買人のところから帰宅したトディは、ホテルの部屋で妻の死体を見つける。


ジム・トンプスンの小説は初めて読んだのですが、映画でも見ているようで一気読みしてしまった。映画に例えるなら「第三の男」「マルタの鷹」みたいな感じだな(ストーリーは全然違うけど)と思っていたら、こういうジャンルを「ノワール」と呼ぶらしいと知りました。ハードボイルドだなとは思っていたけど、違う呼び方があるのか。とはいえノワールとハードボイルドの境界は難しいようだけれど(wikiしらべ)。

なおしゃべる犬と言われて真っ先に思い出したのはブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』だった(しゃべる犬は出てこないけど)。ストーリーは全然違うけれど、あのドタバタに似ていなくもない、と言えなくもないかも。いや全然違うんですが、なぜか思い出すのだ。右往左往する感じが近い、のか……?
あと、しゃべる犬がどれだけ活躍するのかと期待していたのですが、ろくにしゃべらず、しゃべるという特性をそこまで生かさず基本腕力で戦うところに笑ってしまった。意味深な前フリをしておいて放り投げるんかい! 贅沢で好きだよそういうの!!!


さてストーリーに話を戻すと、トディは詐欺まがいのことをして楽して金を稼ぐ癖をつけてしまった破落戸だけど、気分屋で酒飲みの妻イレインのことを何故だか大事にしていて、どんなに稼いでも彼女の酒代に消えてしまうことを苛立たしく思いながらも離婚もせずずっと一緒に暮らしている。おそらく彼は「自分が面倒見てやらなきゃいけない」存在に依存しているのだろう。彼女は本当はトディなしでも全然やっていけるけれど、トディのほうが彼女なしではいられないのだ。トディが必要としているのは、あらゆる人から見放されたどうしようもない女でなければならなかったのだろう。そうでないと自分の出る幕がないから。

まぁ動機はなんであれ一度結婚した相手を大事にしようという姿勢はすばらしいものだ。同時に、だからといって悪事が帳消しになるわけではない。けれど破落戸なりにトディがここから先はタブー、と決めていることがあって、それがトディという主人公の魅力だ。ハードボイルドの主人公たちが時に汚れ仕事に手を染めながらも毅然とした態度を崩さないのは、世間のルールとは別の物差しを、彼ら自身の中に持っていて、それによって自分を律しているからだ。自分に嘘さえつかなければ尊厳と矜持を保っていられる。それはつまり、善良な市民の顔をした我々がいかに自分自身を日々裏切っているのかということなんだけれども。

とはいえ酒のためならなんでもするイレイン(私の中では若き日のジャンヌ・モローがキャスティングされている)みたいなタイプは、登場人物としてなら正直かなり好きだ。酒飲みの夫のために身を粉にして働く妻ならただの悲劇だけれど、逆だとなぜ雰囲気が変わるのか。どっちにしてもDVであることに変わりはないので、完全に私のひいきなんだろうけど。とはいえ実際に身近にいたらちょっと距離をおきたいタイプではある。
一方、貞節と一途さが際立つドロレス(私の中では若き日のペネロペ・クルス)はちょっといい子過ぎて心配になる。わがまま放題のイレインのほうが生きてる感じがするよな。

トディがこの事件の背景に気づき始め、相手の裏をかくために動き出してからの疾走感が最高でした。ちょっとした変装、相手によって使い分ける態度(この小悪党ぶり!)、そしてラストシーン!
あの最後のシーンはとっても映像的で、まるでそこでカメラが回っているかのようだった。トディ、今度こそ幸せになれよ。ギズモは溶けて消えた。

非常に楽しみました。ほかのジム・トンプスン作品も読まなくては。

藤井太洋『オーグメンテッド・スカイ』を読みました

ITエンジニアが主人公ではない藤井太洋の小説を、初めて読んだかもしれない。

小説の舞台は、鹿児島県立南郷高等学校。この学校の理数科は全国から優秀な若者が集まってくるところで、中でも遠方から入学した生徒たちは、高校の敷地内の男子寮、蒼空寮で暮らすことになる。この小説は、少年たちが共同生活を送るなかで衝突したり、他校の学生と交流したりしながら成長していく物語である。

……という青春ものではあるのですが、2023年に刊行された小説なので、彼らが高校生活の中の大きなイベントとして取り組むのは「VR甲子園」あるいはそのワールド版の「ビヨンドチャレンジ」なのである。
いかにもありそうなイベントなので思わずググったのですが、まだ存在はしていなかった。ありそうなのになぁ。イメージ的には高専ロボコンを思い浮かべながら読んでいました。たぶんあんな感じだ。

主人公は平凡な成績の寮生だけど、人望から寮長に抜擢されることになる。集団生活を維持するため、寮では体育会系の悪しき習慣がまかり通っていたりするのだけど、彼らはそれを少しずつ変えていくことにも挑戦する。うーん、青春小説だ。VRとかSDGsとか、小道具はちゃんと令和なのが面白い。


好きだったポイントはいくつかあるんですが、一番は日本国内で開催されている高校生向けVR技術コンテスト「VR甲子園」に賞金がないことの批判。

VR甲子園、勉強になりますよ」
「賞金ぐらい出せよ、と思わない?」(P.48)

賞金ぐらい出せよ、と思っているのは中国からの留学生。こういうところがとっても藤井太洋で最高でした。視座を高く持てというのは簡単だけど、それってつまりどういうことかというと、こういうことなんだと思う。感覚的なところからもう違うんだろな、と思わせてくる。
私は「賞金くらい出せよ」とは思わない学生時代を送っていたけど、そもそもそんなこと思っちゃいけないと思っていたな、と今だから思う。でもそれは思っていいことだし、思った方が世界は広がると思うので、今現役の学生さんは「賞金ぐらいだせよ」って思える精神を養ってくれたらなぁと思います。そして大事なのは、そのゲットした賞金を何に使うかです。金の使い方を学ぶには、手元に軍資金がないとね。


あと主人公たちが寮や社会の悪しき習慣に立ち向かおうとする場面はやっぱり気分が盛り上がるのですが、「こんなときどうする」みたいな事例としても扱えるのが良かった。例えば「それはダメなのでは」という言動を、身内がした時の反応とか。

マモルは宏一を睨んだ。
「そういう言い方、やめろよ」
反論しようとした宏一は、マモルの強い視線に気圧されたように頷いた。
「わかった」(P.163)

この場面はここで終わるんですが、彼らはこの前も後も仲の良い友人として描かれている。たった一度の「やめろよ」でやめるほど世の中の人がみんな出来た人間ではないだろうし、やめない人もいるんだろうけど、「この人はこういうことを言ったりしたりすると不快に思うんだ」という共通認識を作ることは大事なことだなと思う。
いや言いにくいんですよ! ほんとに! 日頃いい雰囲気で話ができている相手に、悪意のない無邪気なハラスメントを見せられて、それが自分に対するものではないものだったときに、咄嗟にちゃんと怒れること自体が素晴らしいんですよ。だからマモル君は寮長やってるわけなんだけど。なかなかできなくて、またできなかった……と落ち込む日々を送っているので、マモル君のまっすぐさがすこし眩しかったです。見習わねばならぬ。

しかしマモル君、なんであんなにいい子なのかがちょっとよくわからなかった。なにか彼がこんな風に育つバックボーンがあったのだろうか。
青春小説のセオリーとしては主人公であるマモル君がどこかで間違える経験をすると思っていたんですが、彼、間違えないんですよね。いくつか壁にはぶち当たるんだけど、決定的な間違いはしないで正しい道を取る。高校生なんだから、もうちょっと間違えてもいいのではないかと老婆心ながら思ってしまう。
ちなみに盛大に間違えた経験を持つカナタくんが私のお気に入りで、いいぞいいぞ!と思って読んでいました。あの子は大物になる。


VRテーマなのでそれ関連の技術がいろいろ出てくるのが面白くて、VRゴーグルをもっと使いこなしたい気持ちにもなりました。一応持ってるんですが、重くて疲れるので最近は全然かぶっていないのだ。充電しておくか……。
学生が主人公の小説を久しぶりに読んだので、スクールライフがちょっと懐かしくもなった。学校好きじゃなかったので戻りたくはないけれど、一日まるごと勉強に使えるって、贅沢な暮らしだったなぁ。もっとたくさん知識を吸収して、さらに世界を拡張しよう。

あと装丁がシンプルでありながら内容をよく表していて、素晴らしかったです。装丁は中川真吾さん。

芝木好子『女の庭』を読みました

新刊書店ではほとんど見かけなくなってしまった芝木好子は、古本屋へ行けば文庫の棚に数冊並んでいたり、たまに200円コーナーとかに置かれていたりすることが多い。そのたびに持っていない文庫があれば買って集めるようにしています。

よく言われることだけど、芝木好子の小説には、手に職を持つ女性と、遊ぶ金のある裕福な男性が出てくることが多い。そしてその男女がくっついたりくっつかなかったりする。
私は特別恋愛小説が好き!というわけではないけれど、芝木好子の小説は好んで読みます。そこまで急激に高くならないテンションと、結末が別れや結婚やお付き合いに限らないところが好きだからです。
そもそも恋愛は現象なので、ゴールを設定するならそれは別れか死かしかないと思っている。だからこそ過程が大事なんです。結果付き合おうが別れようが正直どうだってよくて、心の動きが一番大事。そして芝木好子の小説は過程のなかのいいところの切り出し方が上手いのだ。何が起きるでもないけれど、そこには何かがある、と思わせるのが上手い。




250ページで10篇が収められているので、平均すると1篇30ページ弱だ。忘れないように、それぞれどんな話かメモしておきます。ネタバレはありませんが未読の方はご注意ください。

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藤井太洋『公正的戦闘規範』を読みました

まだ読んでなかったんかーいと突っ込まれそうな2017年刊行の文庫ですが、ようやく読みました。藤井太洋初の短編集とのこと。でもこれ、表題作「公正的戦闘規範」の舞台は2024年なんですよ。つまり今年読むべき本ということだ!!

私は本業がIT系なので、藤井さんの小説は読むたびに仕事に対するモチベーションがぶち上がる。そんな最先端の技術でバリバリやってるわけではないのですが、それでも今自分がやっていることの延長線上にこういう近未来があるんだなって気持ちになると、もっと勉強しなくちゃ!という気になるのだ。下手なビジネス本よりもずっとやる気になる。
ちょっとだけ頑張れば手が届きそうな未来設定がいい。あとエンジニアライフのリアルにちょっと笑ったりする。コロナ禍でテレワークが浸透して大きく変わったけれども。

藤井太洋作品を読んでいていいなぁと思うことは色々ある。例えばできることから一つずつ歩を進めていくところ。国際的でありながら日本主義ではないところ。フェアであろうとしているところ。明るい未来を作ろうとしているところ。などなど。
テクノロジー万能主義というほどの楽観ではないけれど、藤井太洋作品がポジティブな未来を描くことが多いというのは、割とよく聞く。世の中には腹立たしいことや不条理なことが溢れているので、そんなにうまくいくかよ、と思うことはある。あるけど、何らかの道筋をつけなければ何も変わらないので、ほらこんな道があるよ、というのを示してくれる藤井太洋作品はすごく大事な道しるべになってくれていると思うし、そういうポジティブな思考は絶やしちゃいけないと思っています。

本書には5作の短篇が収められているので、それぞれの感想を載せておきます。ネタバレは控えているつもりですが、未読の方はご注意ください。

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なかむらあゆみ編『巣 徳島SFアンソロジー』を読みました

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「そっとふみはずす」=「SF」がテーマと聞いて、発売前から楽しみにしていた徳島SFアンソロジーを読み終えました。

Kaguya Books印ではあるものの、かぐやさんがこれまで刊行してきたSFアンソロジーとはまったく違う雰囲気であることが印象的でした。こんなSF読んだことない。そして、まったく違う雰囲気であるにも関わらず、根底に通じるものは同じだった。不思議だ。かぐやさんはこれからいろんな地域のSFアンソロジーを出していく方針のようなので、それぞれの色合いの違いが楽しみですね。それは土地の色なのかもしれないけど、それよりも編者の色のほうが濃いのではないか。そしてそれは歓迎すべき違いだと思ってます。いろんなSFを見せてくれ!
「執筆者よもやまばなし」でも書かれていたけど、これでまた少しSFの裾野が広がったと思うし、どんどん広がってほしいと思っています。SFもグラデーションであってほしい。

私は徳島にはまだ行ったことがないけれど、行ったことがないくせにちょっと近くに感じられるようになった。それは本を読むことの楽しみのひとつでもあって、眉山とか、島田島とか、具体的な地名は行ったことのない土地との距離をぐぐっと縮めてくる。ネット上でやりとりするときにバイネームで呼び合うことで、その人の存在感が浮かび上がってくるのとちょっと似ている。『ユリシーズ』を読んだときも思ったけれど、匿名と固有名詞とは、どうしてこんなにも質感が違うんだろうな。

ゆったりとした時間の中で、いい塩梅にふみはずした読書体験ができました。
以下、収録作品の感想を書いておきます。ネタバレはないつもりですが、未読の方はご注意ください。

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