好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

映画『アウステルリッツ』を観てきました

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セルゲイ・ロズニツァ監督のドキュメンタリー映画三選<群衆>、最後に残していた『アウステルリッツ』をついに観てきました。
<群衆>のうち、『国葬』と『粛清裁判』はソ連スターリンに関するアーカイヴァル映画ですが、『アウステルリッツ』は監督自らが撮影した映像をもとにしたもの。ザクセンハウゼン強制収容所で観光客を撮ったモノクロの映像が、94分ひたすら流れます。2016年公開。<群衆>の中で、この『アウステルリッツ』が一番ストイックな作品に感じました。

時折ツアーガイドの説明やちょっとした台詞が入ることがあるけれど、インタビューやナレーションのような明確な説明は一切なし。そのため、観客席に座る我々は、映画鑑賞という行為を能動的に行う必要があります。スクリーン側からストーリーを与えてくれる映画とは違う姿勢にならざるを得ない。いろいろ考えながら観たので、結構疲れました。記憶を呼び覚まされたり、身振り一つを注視したり、連想していろんなこと考えたり。

カメラは定点で、パンフレットによれば約5分程度で次の場面に切り替わっていたらしい(観ている最中には、時間の感覚はよくわからなかった)。収容所のメインゲートの映像から始まって、収容された人々が暮らした部屋と思われる場所や監視塔が見下ろす中庭、処刑場、ガス室、死体焼却所などを観光客が見学する様子が写る。そしてしばらく経つと、次の場面に流れていく。
観光客らは写真を撮り、イヤホンガイドあるいはツアーガイドの説明を聞き、パンフレット片手にぞろぞろと歩く。カメラはそれを写すけれど、観光客らがカメラの方向、スクリーンのこっち側で映像を観ている我々の方を見るとき、彼らが何を見ているのかを知ることはできない。たぶんそこに、何かがあるんだろう。

処刑場で囚人の真似をして記念写真を撮ったり、死体焼却場でポーズを決めて写真だけ撮ってさっさと立去ったり、まぁそういうのは不謹慎だけど、不謹慎だな、というだけのように思う。私がこの映画を観ていて印象的だったのは、この作品での<群衆>である無名の観光客たちと、歴史を語り継ぐために見学施設として公開されている元・強制収容所という歴史的事実との距離感だ。
正直その遠さは、すごくよくわかる。太平洋戦争のときの史料館とかに行って、当時のあれこれを見て、ああ戦争というのは酷いものであった、というような感想を抱いたとして、そのときそれがあったことのリアルさって多分私は全然理解できていないのだ。この徒労感。
良くも悪くも、時間は全てを癒すのだろう。悪く言えば、すべては風化するのだ。傷跡が癒されるのは良いことではあるはずだよな、とも思うのだけれど、全部忘れるのはやっぱり良くない。でもそれなら、どの程度覚えていればいいのだろうか。どこまでなら、忘れても大丈夫だろうか。その線引きは誰かにできることではないだろうから、結局は結果論か。
過去の過ちが歴史的な事象になるのはいつから? すでにもう半世紀以上経っているんだよな。だんだん、どんどん、遠くなっていく。記憶を風化しないように努める活動を無意味だと言いたいわけではないけれど、流れていくのが時間でもあると思うし、なんとかして押しとどめようとしても、限界はあるだろう。だから意味ないって言いたいわけではない、というのはもう一度言っておく。そうではない、けれど、時間ってそういうものじゃないかとも思うのだ。そこに善悪はない。

アウステルリッツ』の映画の中で、建物の中をカメラやスマホを片手に彷徨い歩く観光客はまるで亡霊のようだった。少し遠くから建物の廊下を写した映像があるのですが、セルフィ―棒の先にスマホくっつけてあるく男性とか、ペットボトルの飲み物を飲み干す女性とか、少し遠くからゆらゆらと影のように動いていて、まるで。
加えてツアーに連れられて敷地内をぞろぞろと移動する様子をカメラ視点で見た時は、言い方が悪いけど、従順な家畜の群れを連想した。彼ら観光客は特に何も言わず、積極的に質問もせず、ただ時折シャッターを切って、おとなしく敷地内を引き回される。集団のツアーってだいたいあんな感じではあるけども。
その昔あの建物の中を歩き回ったであろう人々は、どんな風に歩いたのだろうか。今あの敷地の歩道を歩く彼らは、当時あの歩道を歩いた彼らではないけれども、そうではないことと、そうであったことに大きな差はないのだろう。たまたまその時代に居なかった、あるいはたまたまその時代に居た。大して変わらないように思う。どっちだって、ありえた話だ。

なおパンフレットによれば、音については意図的にいじっているとのこと。時折静寂を切り裂く着メロや、視界の外から聞こえる喧騒は、わざとだったのかな。ドイツ語が分かれば、周りのざわざわした言葉の断片も聞き取れるのだろうけど。でもあのざわざわ感も意図的らしいので、多分あまりしっかりとは話されていないのだろう。匿名の囁き。

映像に置いて、まったくもって何の解説もないところが、ゲイハルター監督の『いのちの食べかた』を思い出しました。でもゲイハルターよりも、ロズニツァのほうが、相手に委ねる部分が大きい感じ。
伝えたいことが、情報ではなく「それそのもの」であるとき、言葉は邪魔になるのかもしれない。そこに写っているもの、聞こえることがすべてだ。言葉は範囲を狭めてしまう。

ロズニツァ監督、とても良かったです。観て良かった。

田中美穂 編『胞子文学名作選』を読みました

胞子文学名作選

胞子文学名作選

やばい本を手に入れてしまった。

実は先日、倉敷に行ってきました。一人旅で、唐突に思い立って。
旅行には当然本を持っていくわけですが、この旅行では手持ちの本が思った以上に進んでしまって、旅先で読む本が無くなりそうになってしまったのでした。慌ててGoogleで近くの古本屋を探し、良さげなところがあったので早速行ってみたのですが、そこで出会ったのがこの本でした。
蟲文庫」という古本屋さんなのですが、実はこの『胞子文学名作選』、この書店の店主さんが編んだアンソロジーなのでした! ……ということに、読み終わってから気付いた。あのときこの本を手渡してくれたあの方がそうだったのだろうか。しかしこれって運命では。絵葉書や栞もつけていただいた。
ちなみに基本は古本屋さんなのですが、一部新刊本も置いていて、本書は新刊として買いました。山尾悠子のサイン本もあったので、喜び勇んで買わせていただきました。良い買い物であった……

ちなみに蟲文庫さんのHPは以下です。非常に好みの本棚だったので、近くに行くことがあればぜひ。私も機会があればまた行きたいです。遠いけれども……

mushi-bunko.com

さて、『胞子文学名作選』です。名前の通り、胞子で増える生物について書かれた作品を集めた本となっていて、小説から俳句まで、計20編の作品が楽しめます。

 この本では、羊歯、苔、菌類、海藻など胞子でふえるものたちの活躍する文学を集めました。「胞子文学」という名前は、先に出された『きのこ文学名作選』の編者、飯沢耕太郎さんの生んだ「きのこ文学」に敬意を表して名づけたものです。しかしその「見方」となると、この両者には、対象の大きさ以上に異なるものがあります。
 きのこというのは、胞子でふえるもののなかでもとりわけ異質で、独立したイメージをもつ生物。こちらが意識せずとも、否応なく目を奪われてしまう強烈な存在感をもっています。その魅力というのも、美味なるものと死に至る猛毒とが、あたり前のような顔で隣り合わせにある危うさをはらんだもの。対して、胞子は、誰にも気づかれないうちに、さまざまな場所でひろがり、ふえつづけるしたたかさ、視点を変え、目を凝らすことによって初めて視えてくる異世界的な魅力があり、しかも「きのこ」さえもがその仲間のひとつである、という計りしれない多様さをもっているのです。(P.358、田中美穂『胞子文学名作選 解説』)

掲載されている作品に登場する胞子でふえるものたちも多種多様ですが、作者の時代も作品形態も多様です。すべて日本語で書かれた作品ではありますが、古いものだと松尾芭蕉小林一茶、最近の作家では川上弘美や伊藤香織など。太宰治尾崎翠尾崎一雄の作品もあります。各作品に対する巻末解説での編者コメントも楽しい。
目次は出版社のHPに記載がありますので、ぜひご覧ください。

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ちなみに私のお気に入りは小川洋子の『原稿零枚日記(抄)』で、苔のフルコースを食べるという話。初めて読みましたが、めちゃくちゃいいですねこれ。

サヤゴケの燻製、ギンゴケの酢味噌和え、ムクムクゴケの蒸し物、ヒメジャゴケの煮つけ、タマゴケのお椀、ウマスギゴケの天ぷら……。料理は続いてゆく。どれも上等の器に品よく盛られている。必ず一緒にシャーレがついてくる。私はルーペをのぞき、料理をいただき、またルーペをのぞく。(P.31、小川洋子『原稿零枚日記』(抄))

ミズゴケの食前酒から始まる苔料理の数々の食レポ具合がさすが作家というか、実際に召しあがったんでしょ? としか思えないようなリアルさで素晴らしい。実際に食べてもここまで書けないよなぁ、作家だなぁ。しかも料理が来るたびに、ルーペで食材となっている苔そのものを鑑賞してから食べるという儀式も通っぽくて悶えました。茶席の作法かな。結構なお椀で、みたいな。めっちゃ良い。

他にも久々に尾崎翠の『第七官界彷徨』読み返して楽しんだり、栗本薫の『黴』が描く世界の終わりに惚れ惚れしたりしました。

しかしこの本の本当に凄いところはそこではないのだ。それだけなら普通に良いアンソロジー本だったとしか言わない。
この本が「やばい本」なのは、その贅沢すぎる装丁にあります。

だって! この本、作品ごとに紙質や紙面レイアウトをいちいち変えてるんですよ!! 最高ではないですか。いや、いいお値段なのもわかるよ。でもむしろこの装丁考えると、よくこの値段で抑えたなって感じだ。電子ではなく紙で出すことの本質を突いているように思う。多分作品ごとにレイアウトを変えるだけならできなくもないように思うけど、紙自体を変えるなんてなかなかできないというか、普通、やろうと思うだろうか。かの『グールド魚類画帖』だって、原語版は章ごとにそれぞれインク変えてたのに、日本語版ではせいぜい2種類までしか使えなかったんですよ。多分採算取れないんだろう。それでもやろうっていうのがさ、最高ですよね。
そしてレイアウトも素晴らしく好みなのでした。背景に絵をばーんと載せたりして、読んでいて実に楽しい。多和田葉子の『胞子』のラストとか、栗本薫の『黴』の後半とか、痺れました。
ちなみに紙とレイアウト変えるとどの程度インパクトがあるかを、ちょっとだけ、写真で雰囲気だけお伝えしたい。すごく感動したので、可能な方はぜひ実物を味わってください。

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P.72-73、右が太宰治『魚服記』、左が松尾芭蕉の俳句。『魚服記』の写真は編者の田中美穂さん撮影。
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P.190-191、河井酔茗『海草の誇』、背景は岡村金太郎『日本藻類図譜』からとのこと。
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表紙裏の目次。左の見返し部分は穴が空いていて、次のページの扉部分が見えるようになっています。

おわかりいただけるだろうか、この凝り方が……これでもほんの一部ですよ。一冊丸々、手抜きなしでこれですよ。素晴らしい。
とても満足な一冊でした。この本を、蟲文庫で買えてよかった。

映画『粛清裁判』を観てきました

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セルゲイ・ロズニツァ監督のドキュメンタリー映画三作が、<群衆>と題して公開されています。そのうちの一つ、『粛清裁判』(2018)を観てきました。
先日『国葬』(2019)の感想をアップしましたが、同じくソビエト連邦スターリン時代の話です。ちょうど『国葬』と対になる話ともいえる。

既存のフィルムを繋ぎ合わせて一つのドキュメンタリー作品とした映画を、アーカイヴァル映画というらしい。『国葬』も『粛清裁判』も、このアーカイヴァル映画にあたります。そして今回もめちゃくちゃ良かったのでパンフレットを買ったのですが、情報量がたっぷりで実に満足でした。池田嘉郎さんによる社会背景を踏まえた解説がとてもありがたかったのと、池田さんと沼野充義さんの対談がとても面白かった。<群衆>の3作のうち2作以上観るなら、十分に元はとれるかと。特に私はソ連の歴史に疎いので、副読本として重宝しています。まだ『アウステルリッツ』が未鑑賞なので、全部は読めていませんが……。

パンフレットによれば、『粛清裁判』と『国葬』の製作の契機となったのは、2017年にモスクワの郊外で大量に発見された、スターリンに関するアーカイヴ映像。これが映画の素材となっており、この発見なくして2つの映画の作成はなされませんでした。しかしロズニツァは、素材を実に巧みに料理しますね。


『粛清裁判』は、1930年に行われた裁判の記録映像を使った映画です。「産業党裁判」と呼ばれる有名な裁判らしいのですが、正直全然知らなかった。被告人は大学教授や研究所の技師など8名(のちに1名加わり、最終的には9名となる)。罪状は、ソビエト連邦に対するクーデター計画を企てたこと。破壊工作によって国家の計画を滞らせ、海外出張にかこつけて西側諸国と連絡を取り、他国による武力介入を目論んだこと。国家に対する、同志に対する背信
裁判長によって罪状が読み上げられ、事実確認のために彼らが犯した犯罪行為が細かく語られ、被告人がそれぞれ弁明を行い、検事によって銃殺刑が要求され、最後に判決が言い渡される。裁判は何日も続くが、会場には毎日多くの群衆が詰めかけ、毎夜広場では被告人の銃殺を求めてシュプレヒコールが起きる。ボリシェヴィキ万歳、ウラー!

しかしですね、これはネタバレっていうか知ってた方が映画が面白くなるから言っちゃうんですけど、この「産業党裁判」というのは、スターリン総監督によるでっち上げパフォーマンスなのでした。被告らが所属していたという地下組織「産業党」など存在しなかったのだ。
予習なしで行った私は映画の最後で明かされたこの事実に唖然としてしまった。な、なんだってー!!

彼らは技術者であり、科学に関する高いレベルの知識を持っていたのは事実です。海外出張を度々していたのも事実。ただ、この裁判自体が綿密な打ち合わせによって同志たちに見せつけるための劇場だったということだ。スターリン、すごいな……そこまでする? そしてそういうことを、実現できちゃうんだ?

いや確かにね、あれ? とは思ったんですよ。被告人の皆が皆、裁判の冒頭であっさりと自分の罪を「認めます」とか言っちゃうし、弁明はするけど「私の罪は明らかであり、それ相応のことをしたと思っている」とか言って、ずいぶん物分かりいいし。一人くらい「私は何も悪くない! この国は間違っている!」とか言わないもんかね? と思っていたけど、そりゃあ言わないよなぁ。台本があるんだもんなぁ。下手な芝居なんかしたら本当に命の危機だ。

どうして被告人役を割り当てられたのが高学歴のインテリである技師たちなのかというのは、まぁわかる。彼らはもともと共産主義者でない人が多数であったらしいし、そういう意味で立場的に、脛に傷をもつ人たちだ。群衆の中でちょっと異質な存在であった技師たちが、裁かれる役にはちょうどいい。
実際に被告人役を演じている彼らは本当に技術者だったわけで、なんか、佇まいが学者なんですよね。フェドトフとか、いかにも学者然としていて、長い間研究生活されてたんだろうなと思う。それこそ帝政時代から、ずっと。そこが印象的でした。
そういえば被告の罪を責めるときに、クーデターが起きて資本家たちや帝政時代の貴族たちが戻ってきたら、彼らは優遇されるだろうと指摘されている場面があって、あっと思った。それは、確かに、そうだろうと思ったから。まったくうまい配役ですね。そして、当時の人たちにはまだ帝政時代の記憶が鮮明なんだな、とも感じました。

そう、たったの十数年程度だ。1917年にロシア革命が起こり、内戦ののち勝利した共産党により1922年にソビエト連邦が成立し、1924年レーニンが死ぬ。そののちの、1930年だ。あの法廷で役者として舞台に立った彼らはいずれもいい年齢なので、それまでにいろんなものを見てきている。そしてあの時、あの場所にいた。それぞれに割り当てられた仮面を被って。
カメラはあらゆるものを映す。舞台で行われるパフォーマンスと演者たち、そして被告人らを「本当の悪人」だと思っている群衆。銃を提げて法廷の片隅に控える兵隊。ひたすら書き物をする記録係。映像ってすごいな。残っちゃうんだな。

国葬』と比べると、『粛清裁判』では、個々の群衆の顔はよく見えない。ただ、その数に圧倒される。個々人では無力でも、集まることで生まれる力というのはあるだろう。同志と呼ばれる概念の、目に見えるかたちとしての群衆。それでも全土に散らばる同志たちの中の、ほんの一握りであるはずの人々。一ではなく多としての集団的存在。
彼ら個人が己を語ることはないけれど、彼らは<群衆>としてそこにいる。集まることで<群衆>となる。

「民衆」というのは20世紀のキーワードだったはずだ。しかしこのドキュメンタリー3選のタイトルは、「民衆」ではなく「群衆」なんだよな。このニュアンスの違い。彼らはスターリンのパフォーマンスをパフォーマンスと知らずに参加して踊らされている。異常だ、と思うのは我々が本当のことを知っているからだ。その時その場にいるときに自分が異常であることは、残念だけど、なかなか気づけないものだろう。詐欺を嗤う者が詐欺に泣くのだ。明日は我が身と心得よう。
しかし、たとえあの場にいて彼らを異常だと思ったとして、「個」に何ができる? とも思うのだ。法廷にいた彼らも、そう思いながら演じていたのだろうか。

アウステルリッツ』も近日中に観に行きます。

石川宗生『ホテル・アルカディア』を読みました

ホテル・アルカディア

ホテル・アルカディア

『ベストSF 2020』に収められていた石川宗生の『恥辱』がめっちゃ好みだったので買いました。『恥辱』も入った短編集、なのですが、一冊で一つの世界を構成しています。すべてはプルデンシアのために。

それぞれの小作品は、多くが「小説すばる」に掲載されたもの。雑誌で「素晴らしき第28世界」のタイトルでの連載されていた作品と、HPで「石川宗生ショートショート」として公開された作品、それに書き下ろしを追加して一冊の本として構成し直したのが本書となるようです。

 春の陽差しが花々の暖色とたわむれはじめたころ、ホテル<アルカディア>支配人ロレンソ・バルドビノスのひとり娘が閉じこもったという噂が広まりだした。
 名はプルデンシア。二年前から首都の国立大学でホテル経営学を学んでおり、大学近くのシェアハウスで暮らしていたが、一ヶ月前、学期中にもかかわらず突然帰郷した。周囲が驚いたことに、彼女は言葉をまったく話せなくなっていた。話しかけられたときは首を縦横に振るのみで、顔には始終憂いの色が染みつき、ある日の黄昏時には裏山の頂きでひとり泣きくずれているところを従業員に目撃された。ついにはあからさまに人目を避けるようになり、二週間ほど前から、敷地のはずれにあるコテージに閉じこもっているという。(P.12)

上記文章で始まる冒頭の「愛のアトラス」では、このあと奇妙な物語群が語られることになるきっかけを説明しています。ホテルに滞在している自称芸術家たちが奇妙な物語を語ることで、コテージに閉じこもったプルデンシアの気を引いて、外に出てくるように仕向けようというのでした。

目次をみると本書は7つの章に分れていて、合計で29個のお話を味わうことができる、という計算をすることもできます。煮え切らないのは、本書は千夜一夜的構造になっているために、個別にカウントするのもなぁ、と感じる掌編が複数あるからです。幕間話のような書き下ろしは別カウントとすると、独立した掌編は21編。あとは『ホテル・アルカディア』世界を補完するための書き下ろしです。これらは繋がっているけど、繋がっていない。けど繋がっているのだ!

さて掌編についでですが、どの話が好きかというのを一つだけ選ぶのはものすごく難しい。正直どれも好きで選べない。
例えば一番最初に置かれている「タイピスト <I>」は、仮想空間内の体験者の意識に文学作品をタイプ=打ち込むことで新たな読書体験を得られる「タイピング」にのめり込む話です。友人に薦められて初めてタイピングにやってきた語り手は、タイピスト<I>による『ママ・グランデの葬儀』のタイピングを経験することになる。

 と、次の瞬間、真夏の陽差しめいた激烈な感覚が二の腕を、鎖骨を、小指の先端を射貫いた。「S」に「O」に「B」、取り留めない文字群に眩惑されている間にも、新たな文字群がのべつ撃ち込まれる。肘の鈍痛、きぃんという耳鳴り、舌のしびれが文字をたぐり寄せ、数珠つなぎとなる。数多の文字が蠢動し、軋轢からママ・グランデの喪失感が熱気のごとく立ちのぼる。漏れ出る恍惚の吐息。それすら内外を巡る奔流に呑み込まれ、先に、新たに撃ち込まれた文字に融解し、流れそのものが漠々たる多幸感となって沸き立つ。(P.25)

文字ベースでこの言葉群を読んだだけですでに酔う。仮想体験でありながら、文字の味わいを強調したものであるらしいのがとても良い。いいなぁ、私も体験したいなぁ。タイピスト<I>と語り手の好みに引きずられているかもしれないけど、ラテン・アメリカ文学のほうが文字が香り立ちそうなのは、なんとなくわかる。タイプという行動との相性がよさそうだ。でも『ホテル・アルカディア』のタイプもいいかもしれない。

他にも庭に天使(と、思われるもの)がやって来る様子を描いた『アンジェリカの園』や、老犬の最後を看取った男の独白である『饗宴』もすごく好きな感じ。死ぬと星になる世界を描いた『光り輝く人』の最後の一文も痺れるし、国際調査団が超高層建造物の全貌を解き明すためにひたすら塔をのぼって行く『チママンダの街』も、上へ上へと行くにつれて変わっていく世界の様子が面白い。でもやっぱりノアの箱舟を題材にした『恥辱』が一番好きかなぁ。私はああいうのが好きなんだよな。

個別に掌編を語るのも面白いんだけど、やっぱり全体の構成が素晴らしいですよね。配置の仕方とか、世界観を盛り上げる幕間劇とか、実によく計算されている印象でした。夢と現を行ったり来たりして、いずれも夢である罠だ。
そういう意味で第4章にあたる『文化のアトラス』はこの本の核心なんだろう。廃墟となったアルカディアに残された<アトラス>のツアーの話なんですが、これがまたたまらなく良いのだ。

 <アトラス>には地元民が二六時中出入りしており、既存の<手>を読み、新しく<手>に物語をしたため、既存の<手>に貼り合わせる。物語の大半は<手>一枚程度の掌編だ。(P.210)

 特筆すべきことに、地元民には<アトラス>の保護意識が欠落している。これは「<アトラス>観」と称すべき独特の見地に基づくもので、彼らからすれば現今の<アトラス>がすべてであり、過去に消滅した<手>はてんから存在しなかったも同然なのである。(P.213)

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。人が生まれて死んでいくように、物語の集積群である<アトラス>も変化することが自然なことなのだ。死んだもののみが止まる、生きているものは常に動く。だから消えゆくものは消えるに任せる。
この世界観をうまく一冊の本にまとめ上げているのが凄く面白い。まとまりよく、でも整然としすぎない程度に雑然としている。石川宗生、何者なんだ……。

そして装丁が最高に良かったのも言っておく必要がある。川名潤さんの装丁です。もう最高。読み終わって見返すと無駄な部分が一つもないの。さすがです。カバーを外したときのデザインもすごく良かったです。

石川宗生ワールド、最高でした。『半分世界』も読まねばなるまい。

松本清張『昭和史発掘 9』を読みました

父親のお下がりの文春文庫の古い版で読んでいる『昭和史発掘』9巻を読み終わりました。
ISBNがついていなくて、新版は収録内容が違うのでリンクは無しとなっています。

7巻からずっと二・二六事件に向かって突き進んでいってるのですが、ついに9巻で昭和11(1936)年2月25日夜までたどり着きました。でもまだ朝は来ない!
内容は以下の二本立て。

二・二六事件 三
「安藤大尉と山口大尉」
「二月二十五日夜」

前から出ていた話題ではあるんですが、決行を目前に控えた9巻では「実行したのは誰だったのか」という問題が大きくなってきたのが非常に面白かった。
もとはといえば貧しい農家の状況を目の当たりにしてこのままではダメだと焦燥を募らせていた若手将校たちが、愚昧な軍上層部から天皇陛下を救い出し、新たな日本の夜明けを自分たちの手で作りたいと思って行動しだしたのでした。彼らはそれを「昭和維新」と呼んで自らを幕末の志士になぞらえていたとのこと。それって結局テロリズムなんだけど、生活に困っている人がいたのは事実だし、そういう人たちを救いたいって気持ちはわかるし、へらへらと保身しか考えてないような年寄連中を憎みたくなる流れは理解できる。あいつらどうしようもねぇな、みたいになって、自分の方が正しいって確信持っちゃったら、あとは行動するだけだ。
でも、その「行動」への最後の一歩って、やっぱりできる場合とできない場合があるだろう。口ではいろいろ言いながら、実際にじゃあお前やれよって話になると尻込みする人がほとんどである。そうじゃなければ現代だって、選挙のたびにもっとたくさんの候補者が名を連ねるはずだ。自分が正しいと信じる意見を口にはしても、実行するのはかなりしんどい。だって、リスキーだし。

もちろん彼らもそうだった。一定の人数である一線を越えてしまえばあとは集団心理でテンション上がっちゃうんだろうけど、最初の一線を越えるまでが大変だ。官軍になるには勝たねばならない。密告されて失敗でもしたら賊軍になる。しかしある程度の人数がいないと制圧されてしまう。どこまで情報を事前に伝えておくべきか? ギリギリまで部下には伝えないでおくべきか? 普段から昭和維新の精神を部下に教育してはいるけど、本当に、彼らはそこに共鳴しているのか? 上司の言うことだから調子を合わせているだけでは?

本書では当時のクーデター参加者の行動を、のちの取り調べでの供述をもとに説明していることが多いのですが、裁判でも参加した兵たちが果たして「同志」だったのか、というのが結構重視されたらしい。

 日ごろから下士官兵を同志化し、その自発的決意に基づいて蹶起することを方針とした、というが、それはあくまでも方針であって、そのようになったというのではない。
 将校らは、一方的に下士官兵に対し政治、社会の腐敗を説いて「昭和維新」の必要を主題とする精神訓話をした。それは兵士の出身環境からして共鳴は得たが、理論の共鳴と実行参加とは別である。精神教育だけで同志化が出来たわけではない。(P.117-118)

「同志」だったのであれば、個々人の自由意志の総体という集団となる。それはどういうことかというと、クーデターのために「兵を出動させたわけではない」というエクスキューズが成立するのだ。
なぜそのエクスキューズが必要なのかというと、将校レベルの判断で兵の出動を行うことは、統帥権干犯にあたるからです。それはまずいので、なんとかして合法になるようにと蹶起側は画策するんだけど、軍という単位を使って立ち上がろうとしている以上、どうしても苦しい言い訳にしかならない。しかもこの急進派は、真崎が教育総監が更迭された経緯の問題を「統帥権干犯」だとして非難していたんだから、ブーメランも甚だしい。

そしてそういうことも視野に入れたうえで、実行するかどうかを散々悩んだ人もいた。思想には共鳴するけど実行には躊躇する場合、それは臆病だからとかではなく、誠実であろうとするからだ。その一人が、安藤輝三大尉だった。
安藤大尉は歩三の大尉で、蹶起を急ごうとする急進派に対して時期尚早であると言い続け、成功の確率が低いことを言い続けていたという。ちなみに彼の言う成功の定義というのは、要人の暗殺自体ではなく、その後の体制づくりを言っていたのだろうと松本清張は書いています。

 問題は、「昭和維新」が成るか成らないかの見通しである。
 彼らは自らの行動を「捨石」と考えていたが、それにはあくまで「革命」の成就を前提とする。でなければ文字通り「意味のない捨石」となってしまう。のみならず、それをきっかけに体制側の大弾圧がはじまり、在京部隊をはじめ全国の部隊にわたる同志将校まで根こそぎやられる。
 武力行使は一度きりのもので、やり直しがきかない。成功に十分な確信がない以上、動けないのである。全か無かである。(P.28)

 次は、襲撃に兵力を使用することである。竜土軒の会合で村中、磯部と激論したとき安藤は、「われわれが前衛として、飛び出したとしても、現在の軍の情勢では、果して随いて来るかどうかが問題です。若し不成功に終ったら、われわれは陛下の軍隊を犠牲にするので、竹橋事件以上の大問題です。わたくしは村中さんや磯部と違い、部下を持った軍隊の指揮官です。責任は非常に重いんです」
 といったというが(新井勲「日本を震撼させた四日間」)、この言葉に安藤の懊悩がにじみ出ている。
 ここには「陛下の軍隊」という語が使用されている。別な言葉でいえば兵力の使用は統帥権の発動による。私に動かせば「統帥権の干犯」となる。
 しかも、成功の見込みのない決行に踏み切れば、他部隊との交戦で無辜の部下を殺傷させ、捕えられて罪に陥れることになる。成功の見込みがないというのは、襲撃実行の失敗ではない。兵力をもってすればそれは確実に遂行される。問題はそのあとで、彼らの行動が実るか実らないかである。もし、実らないときは、兵士まで国家の罪人にさせてしまう。安藤の苦慮はここにあった。(P.30-31)

安藤大尉は結局散々悩んだ末に歩三を出動させてしまうんだけど、現状打破のために行動したい気持ちとの板挟みを思うとたまらない。
でもそこで安藤大尉に感情移入して心を揺らすのは、なんだか彼らの行動を消費しているようで、正直気が引ける。自分が彼らの生きるか死ぬかをエンタメとしてとらえていることを否定できないから。あと、それにしたって他の方法なかったの? なんて後の時代の常識で物をいうのも傲慢だし、でも彼らの行動を支持することはできないし、どうしたらいいんだとか考えてしまって結構しんどくなってきました。だからノンフィクションは苦手だ。

とはいえここまで来たら最後まで見届けるしかないので、10巻に行きます。次でいよいよ25日の夜が明ける。

映画『国葬』を観てきました

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『セルゲイ・ロズニツァ<群衆>ドキュメンタリー3選』と銘打たれた3作品のひとつ、『国葬』を観てきました。3選の他の2つは『粛清裁判』と『アウステルリッツ』ですが、こちらは未鑑賞。
セルゲイ・ロズニツァという名前は全然知らなかったのですが、今回の3作品が日本初公開となる監督らしい。ベラルーシで生まれ、ウクライナキエフで育ち、モスクワで映画を学んで、今はベルリン在住。そして1964年生まれのソ連育ちでもある。

そもそもこの映画の存在を知ったのは、ドキュメンタリー3選の作品中のひとつ『アウステルリッツ』がきっかけでした。私の中で『アウステルリッツ』といえばゼーバルトなんですが、一般的にはナポレオンの「アウステルリッツの戦い」である。しかし今回に限っては、ゼーバルトの『アウステルリッツ』で良いらしい、というのを知って俄然興味が湧いた。そして公式サイトで3作品あわせた<群衆>としての予告編を観て、その独特な雰囲気にやられたのでした。
国葬』と『粛清裁判』はソ連スターリンの話、『アウステルリッツ』はホロコーストのダーク・ツーリズムの話です。最初は『アウステルリッツ』だけ観に行こうかと思っていたのですが、2回分のお値段で3枚綴り券を買えることを知って、つい綴り券を買ってしまった。しかし買ってよかった!! 『国葬』、観て良かったです。

国葬』は2019年公開で、3作品の中ではもっとも最近の作品にあたります。135分間、スターリン国葬の記録がナレーションも解説もなしに粛々と流れるという、一見なかなかストイックなドキュメンタリー映画。ロズニツァ監督は当然スターリンのリアルタイム世代ではないので、映像は当時のカメラマンが映したもので、音源も当時のものを使用しているのだとか。映像はモノクロメインだけどカラーもある。映される場所はモスクワ、ウクライナベラルーシリトアニアラトビアウラジオストクアゼルバイジャンなどなど。
1953年3月5日、スターリンの訃報を伝えるスピーカーの音声から映画は始まります。新聞の号外を買い求める人の列、世界各地から集まる共産主義側の国賓ソビエト各地で花輪を担いで続々と集まる人々、流される涙、代わる代わる語られる追悼演説、遺体が安置されたホールを訪れる人々。最後には廟に安置されたスターリンを送り出す礼砲、機関車の汽笛。そして全編通して映される群衆の顔。モノクロまじりの画面に映える赤。

135分、ストーリーなんて無いようなものですが、いろいろ考えてると全然退屈しないものです。スターリンは立派な口髭してるのに、モスクワの人たちはあまり髭を生やしていないものなんだな、とか。確かアゼルバイジャンの人たちは口髭率が高かった。お国柄か? ソビエトは広いので、吹雪のところもあれば晴れているところもあり、スラヴ系もいればモンゴロイド系もいる。着ている物(民族衣装ぽい)も違うけど、女性はほとんどがスカーフを頭に巻いていて暖かそうであった。

ソ連についてはほとんど知識がないのですが、共産主義だし確か無神論だったよな? 国葬ってどうやるの? と思って観ていたら、なんというか、実に唯物論的な国葬でした。「スターリンの心臓が鼓動を止めた」という表現が印象的で、なるほど、神に召されるわけじゃないからそうなるのか。唯一音楽はキリスト教ぽくて、知ってる曲だったけどタイトルが出てこない……。でも遺体が安置されたホールを訪れる人たちのなかで一人だけ十字を切っている女性がいたのが気になりました。実際はもっといるんだろうな。

そう、偶像崇拝です。観ながらずっと考えていた。
だいたい共産主義とか社会主義って、なんであんなに独裁者のブロマイドをばらまくの? 正教会由来のイコン的なものだろうか。胸元にスターリンの顔を印刷したバッチを付けた人なんかもいて、いや、それは、ちょっと、美観的にどうよ? 直接的すぎない? もっとこう、象徴的な何かで代用したりしないの? と非常に気になってしまった。鎌と槌のシンボルはレーニンソビエト連邦全体のものであってスターリンのものではないってことだろうか。でも当時のソビエトって実質スターリンのものじゃないの? 御影をみだりに配布しないこと、みたいな方向にはいかなかったんだなぁ。
でも宗教を否定するなら、民衆が縋ることのできる英雄として統治者が偶像化されるのは必須なのかもしれない。本当はそういうの無いほうがいいんだろうけど、そんなに強い人ばかりではないだろうし。神に縋りたくても縋れないなら、代わりの杖が必要だ。箔をつけるために豪華に飾り立てたりして。そうすれば統治しやすくなるという利点もあるし、というかそっちが本命だろうけども。
ソ連って、システム化を推し進めて効率よく合理的になろうとする一方で、ものすごく人間臭いことしてるように思う。人間の弱さを制御しきれなかった感じ。人類には早すぎる社会体制だったのか、というのはこれまでも何度か考えたことはあるけども。

追悼演説では「彼はもうこの世にいない、しかし彼の言葉は私たちの中に生き続ける」「彼の遺言を実行するのだ」「共産主義世界の建設を続けるのだ」というような内容が繰り返し繰り返し述べられていた。ひたすらスターリンを褒め讃え、悲しみを訴え、しかしこれからも進歩の歩みを止めないのだと。あの演説が韻を踏んでいたような気がしたのも、気になるポイントのひとつでした。ロシアは詩人の国だし、民衆を鼓舞するようなことを声高に言うときには語感を良くするのは自然なことだろう。「スターリナ」(「スターリン」の格変化形と思われる)という単語が演説で頻出していたんだけど、ア音で終わる言葉が多かったような気がする。ああでもロシア語わからないので気のせいかも……。そういえば演説は比較的一語一語しっかりはっきり発音されていたので、ヒアリングしやすかったかも。ロシア語がわかれば、ですが。

しかしこの映画の見どころはやっぱり葬儀に参列する人々の顔、顔、顔だった。柩で眠るスターリンを見て涙を流す人は結構いたけど、そもそもあんな長蛇の列に並んでわざわざ死に顔を見に来るくらいのファンだ、そういう人もいよう。一方、各地の会場に大きな花輪を運んでくるのは、多分同志としての行為のひとつだから、そこにどれだけ悼む気持ちがあるかは、うーん、多分グラデーションか。
なにより一番気になるのは、吹雪の中、スピーカー放送されるのを口も利かずじっと聞いている人たち。工場で、寒村で、何も言わずに放送を聞いている人たち。耐え忍ぶ時期をずっと続けてきていて、これからも続けるのであろう人たち。群衆。彼らは何も言わないけども、じっと何かを見つめている。寒空の下、空疎な言葉で煽り立てる放送をじっと聞いている。礼砲に動きを止めた作業現場で、脱いだ帽子を手に持って、ただ黙っている。何を考えているんだろうか。

国葬』、とても良かったです。次は『粛清裁判』を観に行く。

W・G・ゼーバルト『目眩まし』(鈴木仁子 訳)を読みました

読んでしまった。ゼーバルトの新装版4冊のうちの、3冊目です。残り1冊しか残っていない。ゼーバルトはもう他界してしまったし、あと1冊を読み終えたら今うちにある未読のゼーバルトが無くなってしまう。『カンポ・サント』とか『鄙の宿』とか『空襲と文学』とか、新装版に入ってないけど出さないのかな。買えなくなる前に買ったほうがよさそうだな。
しかしまだ新装版も3冊目です。毎回豪華な解説も楽しみの一つですが、今回の解説は池内紀さんでした。というのも、今回はカフカ巻だったから。

本書には4つの小編が収められています。

「ベール あるいは愛の面妖なことども」
「異郷へ(アレステロ)」
「ドクター・Kのリーヴァ湯治旅」
「帰郷(イル・リトルノ・イン・パトリア)」

どれも一つの独立した話として読むことができるんですが、この構成で一つの本にまとめているのには明らかに意図がある。それぞれの話が、結構しっかり繋がってもいるから。
冒頭の「ベール」はアンリ・ベール、すなわちスタンダールのことでした。ゼーバルトはだいたいユダヤ人をメインに据えることが多いので、あれ? ゼーバルトがなぜスタンダールを? と思ったけれど、イタリアについて書くための布石だったようだ(もちろんそれだけじゃないけれど)。続く「異郷へ」はイギリスに住んで25年経つという「私」がウィーンを経由してヴェネツィア、そしてヴェローナへ行くという話。そして読んでしまえばわかることだから書いちゃうけど、この行程は3編目の「ドクター・K」の足跡に対応している。

 一九一三年九月六日土曜日、プラハ労働者障害保険協会の副書記、ドクター・Kは、救護制度と衛生法のための国際会議に出席するべく、ウィーンに向かっていた。(P.115)

「ドクター・K」の話は上のような一文で始まるけど、この時点でドクター・K=フランツ・カフカとわかる。作品中では頑なにその名前が出てこないけど、一つ前の「異郷へ」の最後にしっかりカフカの名前が示されているので、読み始めてすぐに思い出して気付くことができます。
そして「ドクター・K」の話が狩人グラフスによって締めくくられると、次に始まる「帰郷」は再び「私」にバトンタッチして、彼自身の故郷W村を訪れることになる。狩人も医者も、姿を変えてちゃんと顔を出す。

この一連の流れとゼーバルトの(そして鈴木仁子訳の)端正な文章の美しさが実にたまらなかったです。静謐な、とでも言おうか。誠実で、落ち着いていて、わくわくした気持ちを抱いていてもはしゃぎすぎることがない、でもそわそわ嬉しい気持ちは伝わってくるような、この不思議な文章の魅力。鈴木仁子さん自身の文章も読みたいのですが、エッセイなどは書かれないのだろうか。読んでみたいです。
あと本書ではカフカも私(ゼーバルトだろう)もヴェネツィアに行くわけだけど、こんなにもヴェネツィアの美しさについて何も書いてない文章読んだの初めてだ……。これには先駆者がいたらしいけども。

ゼーバルトの文章の美しさを少しでも伝えるために、気に入っている部分をいくつか引用します。私ではちょっと愛が勝ちすぎて言葉にならないので、とりあえず、実物を読んで浸ってください。

(前略)やめられないのです、とサルヴァトーレは詫びを言った、仕事が退けたあとの数時間、昼間の忙しなさからようやく逃れられると、本を手に取らずにはいられません、今日みたいに読書用の眼鏡を編集部に忘れてきてしまった日ですらです。近視がひどくて、眼鏡なしでは小学一年生並みののろさで一語ずつひろって読むのがやっとなのに、この時間になると読みたい気持ちがただもう押さえられない。仕事が退けると、とサルヴァトーレは語った、孤島に逃れるようにして散文に逃れるのです。日がな一日編集部の騒音の波にさらされていて、けれども夕暮れには孤島にいる、そしてはじめの数行を読みはじめるときまって、はるか海原に漕ぎ出していくような気持ちになる。いまなんとか正気を保っていられるのは、ひとえに夕暮れの読書のおかげなのです。(後略)(P.104、『異郷へ』)

 校舎は村はずれの丘にあって、私にとって忘れがたいその日もまた、外に一歩踏み出すと、私の視線はいつものように開けた谷から左手の方角、村の屋根の連なりを越えて木深い丘陵へ、そしてその背後に高くそびえているゾルクシュローフェンの巌のぎざぎざの稜線へと導かれていった。靄の下に白く家々や農家がじっと静まり、牧草地がひろがり、道路や間道が車の姿もなく伸びていた。そのすべての上に、大雪の前にしかありえないような鉛色の空が、どこまでも遠く、重たくひろがっていた。首が折れるくらい仰向いて長いことじいっと、気が狂いそうになるほど閉ざされたその虚空に眼を凝らしていると、雪が舞いはじめるのを見たような気がした。私の通学路は師範館と助任司祭館のそばを通って墓地の高い壁ぞいと行くもので、その壁の尽きたところで聖ゲオルギウスが、足元に踏みしだいたグリフィンじみた有翼の獣のカッと開いた喉元に永遠に槍を突き刺しつづけていた。(後略)(P.191-192、『帰郷』)

これですよ! 美しさにため息が出る。彫刻みたいな文章だ。そして相変わらず、時折挟み込まれる写真の物言わぬ存在感がうまく調和している。
上記だってこんなのほんの一部ですよ。出てくる単語の繋がりとか、句点よりも読点を多用して言葉を繋いでいくスタイルとか、いつも惚れぼれします。

私は電車の移動時間で本を読むときは大抵音楽を聴いているんですが、ゼーバルトを読むときはいちいち音楽を止める。なんか、邪魔されたくなくて。移動時間も、数分程度の隙間時間ではなく、数十分乗りっぱなしというときが読み時です。できるかぎり文章に浸りたい。たまにちょっと前の部分に戻ってもう一度読み直したりもする。最高です。

池内さんの解説はカフカにフォーカスしながら、文学者らしい丁寧な読み方をしていて非常に面白かった。史実と照らし合わせたりなんかして。
また鈴木仁子さんは訳者あとがきで『目眩まし』という訳語を当てた理由について書かれていて、納得の言葉選びでした。ベールはイタリアを出すためだけに引っ張ってこられたわけではなかったことを再確認。各小編からモチーフを結び付けていく作業も楽しいな。

ひとまず読み終わりはしたけれど、一周目終わり、という感じで、読み切った感は無い。読みそびれている部分がまだあるという確信がある。もっと深く潜れるはずだ。
でも読み返すのは、新装版4冊目の『土星の環 イギリス行脚』を読んでからかな。しばらく寝かせておきたい気持ちもあるし。『土星の環』いつ読もうかな……