好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

「2022年の『ユリシーズ』」の読書会(第十一回:第十一挿話)に参加しました

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2021年4月25日にZoom上で開催された「2022年の『ユリシーズ』」の読書会、第十一回目に参加しました。

2019年に始まったこの読書会は『ユリシーズ』刊行100周年である2022年まで、3年かけて『ユリシーズ』を読んでいこうという壮大な企画で、ジェイムズ・ジョイスの研究者である南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんの3名が主催されているものです。なお読書会共通のテキストとして使用しているのは柳瀬訳です。
この記事では一参加者としての個人的な第十一挿話の感想について記載していますが、作品解説やあらすじ紹介のようなものはありません。内容が気になる方は上記URLにて公開される資料をご覧ください。


さて、第十一挿話は「セイレン」。オーモンド・ホテルでサイモン・デッダラスらが歌い、ブルームがリッチーと食事をしながら歌を聞き、その間にボイランが馬車を走らせる場面です。

あの、しかし、早めに正直に書いておきますけど、私は第十一挿話が嫌いです。もう全然楽しくなかった! だって全然わからないんだ! そして今もわからない! 文字を追うのが辛すぎる!

ということで、何故十一挿話がこんなに嫌いなのかを考えてみたわけですけども、理由はだいたいわかっています。語順がぐちゃぐちゃで読みにくいったらないのだ。

 甘いお茶をケネディ嬢は注いでミルクを入れてから両手の小指で耳栓をした。(P.439)

上の文章なんか、お手本のような悪文である。読みやすくするなら「ケネディ嬢は甘いお茶を注いでミルクを入れてから、両手の小指で耳栓をした」という語順になるはずなのだ。
ちなみに私は『ユリシーズ』を読むときに、英語の原文と柳瀬訳を対訳のような形で Word でタイプしている(写経)のですが、上記柳瀬訳は英語原文の語順に忠実で、英文も「Sweet tea」から始まっています。つまり、原文でも「お茶」から文章が始まる読みづらい文章なのです。しかしもう一つの有名な日本語版『ユリシーズ』である丸谷才一らの訳(以下、鼎訳)では「ミス・ケネディはおいしいお茶とミルクを入れてから…(単行本版2巻 P.21)」となっているので、読みやすいように語順を変えたようでした。
訳文は解釈の問題なので、どちらの訳が適切かという点についてはここでは触れないでおく。しかし少なくとも、柳瀬訳と原文の読みにくい語順は「わざと」だ。となると、ジョイスはなんでわざわざこんな語順にしたんだ?
きっと何かジョイスなりの理由があるんだろう。この語順でなければならない理由が。でも読者である私に一ミリも伝わってないんですけど。私の修行が足りないという可能性が濃厚ではあるけど、ジョイスは読者に何を求めてるんだ。

とはいえ、これはまだいい方です。ちゃんと読めば何が書いてあるかわかる文章だし。
問題は以下のような部分。

 やんわりとブルームは肝無しベイコンの向うに強張った表情の歪む律動を見た。腰痛だ。ブライト病のぎらぎら眼。プログラムの次なる曲は。支払い増え笛の曲折。丸薬、パン屑弾奏製、値一箱一ギニー。しばしの休止符。耳鳴りも。五人囃子が死んじゃった。おあつらえ向き。腎臓パイ。美しい花を美し。あまり儲っていない。で値頃最高。いかにもこの男らしい。パワーか。飲むものにはうるさいからな。グラスに傷があるだの、新鮮なヴァートリ水だのと。カウンターからマッチをくすねて倹約。そうして一ポンド金貨をちょびりちょびりと散財する。で、当てにされるときには一銭も出さない。酔っぱらうと馬車賃も踏み倒す。変り種。(P.462)

ブルームとリッチーが歌を聞きながら食事をする場面です。歌声を聞きながら、ブルームが対面に座るリッチーについて何か考えてるんだろうなとは思うけれど。思うけれど! 意味がわからない! 原文を見てもやっぱりわからない。鼎訳の註を見て細かい語彙の知識はついても、根本的な疑問は何も解決しない。「パン屑弾奏製(pounded bread)」って、何故そんな単語がここで出て来るんだ。テーブルの上にパン屑でも落ちていたのか。しかしなんでこんな単語になるの?

そんな感じでまるでわからない文章がごろごろ出て来るので、ずっとイライラして読んでました。第十一挿話なんか嫌いだ。

でも読書会であらすじを聞き、他の参加者の感想なども聞いて少し落ち着きました。『ユリシーズ』二周目以降なら、もうすこし分かり合えるかもしれない、などと淡い期待を抱いている。一周目では、これは無理だ。


読書会では、第十一挿話の冒頭部分について盛り上がったのが非常に面白かったです。
そう、冒頭部分! 柳瀬訳P.433~P.436の「開始!」までの部分です。この「冒頭部分」が第十一挿話に存在する意味は何なのか。それによってどんな効果があるのか。
冒頭部分を初めて読んだときはあまりの意味不明さに「わからーん!」と心の中でちゃぶ台を100回くらいひっくり返したくなったし、私が第十一挿話を嫌いな理由の一つでもある。前述の二つの抜粋部分など比べ物にならないくらいわけのわからん部分。散々惑わされてこれがセイレーンの歌声か……とも思った。だって「こなまこしゃくしゃくしゃくしゃ。(P.433)」なんて、初読でわかるわけがないのだ。でも第十一挿話を一通り読み終えると、挿話で書かれたあれこれをつまみ出して並べていることに気づく。気づきはするけど、意味はわからない。
読者が初読じゃ理解できないことをジョイス自身は当然わかっていて、狙ってやってるのだ。この冒頭部分をここに書こうとしたときの、そして仕上げた時のジョイスの顔が見てみたいものである。さぞ悪い顔をしていたことだろう。
第十一挿話のテーマは音楽、音、楽曲であって、この冒頭部分が第十一挿話の「序曲」にあたるというのは、まぁ理解はできる。序曲だから冒頭じゃなきゃいけないんだ、というのは理性的な説明だ。
だけどそれだけじゃなくて、最後に置いたらどうなる? とか、この部分が無かったら挿話全体としてどうなるだろうか? という話題がこの読書会ではごく自然に出てきて、それでzoomのコメント欄が盛り上がっていた。これがこの読書会の凄いところだと思います。読んでいて意味がわからなくても、読書会があるからとりあえず目を通すだけでもしておこう、という気になれる。一人で読み進めるだけだったら、私はきっと第十一挿話で脱落していたことでしょう。


なお第十二挿話「キュクロープス」の読書会は6月下旬。すでに写経(英文と柳瀬訳の対訳まとめ)を進めていますが、分量は長いものの、第十一挿話よりずっと読みやすくて面白いです。第十二挿話は、柳瀬訳で読む最後の挿話だ。次回の読書会も楽しみにしてます。

ローレン・アイズリー『星投げびと コスタベルの浜辺から』(千葉茂樹 訳)を読みました

星投げびと―コスタベルの浜辺から

星投げびと―コスタベルの浜辺から

古本屋で工作舎の自然科学系エッセイを見かけたときは、できるだけ買うようにしている。外れがないからだ。
この本も、古本屋で見つけて買った一冊です。著者のアイズリーの名前は知らなかったけど、タイトルが良いし、目次にずらりと並んだ章タイトルが非常に好みだったので。「鳥たちの裁判」「惑星を一変させた花」「最後のネアンデルタール人」……はい、これは好きなやつ!

実際読んでみると結構がっつりめの自然科学エッセイ(ネイチャーライティングとも呼ぶらしい)で、しっかり目を覚まして文字を追わないと頭に入ってこないタイプの本でした。なので一ヵ月ほどかけて、ゆっくり読みました。
硬派な文章だし、ところどころ頑固そうな雰囲気も感じられはするものの、アイズリーがものを見つめる目が愛に溢れているのが感じられて、とても良かったです。世界も捨てたものではないと感じられる。多くの人が素通りするものをわざわざ立ち止ってじっと見つめるタイプの人だというのが。行間からしっかりと伝わってきました。アイズリーは、ニューヨークにいても、化石を掘るために地方の田舎にいても、そこで生きるあらゆる生物を愛をもって見つめる人だ。神のようだ、と言ったら本人は嫌がるだろうな。

アイズリーが出会った生き物エピソードはどれも好きだけれど、特に冒頭に置かれた「鳥たちの裁判」は印象的でした。私が鳥が好きだからというのと、初めて読んだアイズリーだったということと、両方がその理由だと思う。
「鳥たちの裁判」で描かれるのは、ニューヨークのホテルの二十階で見た鳩たちの旋回、霧の深い朝に家の近くで鉢合わせしたカラス、砂漠で出会った化学物質の飛行。それから、ヒナをひと呑みにしてしまったカラスを小鳥たちが取り巻き、鳴き喚いているのをアイズリーが偶然目撃した事件のこと。

 あえてカラスに攻撃を挑むものはいない。しかし、鳥たちは家族を奪われたものによせる本能的な共感の声をあげた。空き地は、鳥たちのやわらかな羽ばたきの音と鳴き声で満たされた。その翼で殺人者をさし示すかのように羽ばたいた。おかしてはならない漠とした倫理をカラスが破ってしまったことを、彼らは知っているのだ。そのカラスは死の鳥なのだった。
 そして、生の核心にあるかの殺人者たるカラスは、おなじ光に羽を輝かせ、ふてぶてしく、身じろぎもせず、おちつきはらって、ほかをよせつけずに座っていた。
 ため息は完全に静まった。そして、そのとき、私は審判がくだされるのを見たのだ。審判の結果は死ではなく生だった。あれほど力のこもった判決を二度と見ることはないだろう。あの痛ましいほど長くひき延ばされた声音を聞くことは二度とないだろう。抗議の嵐のただなかで、彼らは暴力を水に流したのだ。まず最初に、ウタスズメのためらいがちな、しかし、クリスタルのように透明な鳴き声がひびきわたった。そして、はげしい羽ばたきのすえに、最初は疑わしげに、やがて、つぎからつぎへと歌いつがれていって、邪悪なできごとは徐々に忘れ去られていったのだ。鳴鳥たちは奮い立って、歓喜の声で喉をふるわせた。生きていることは甘やかで、陽ざしは美しい。だから彼らは歌うのだ。彼らはカラスの重くたちこめる影のもとで歌った。カラスの存在を忘れてしまったのだ。彼らは死ではなく生を歌いあげる歌姫たちなのだから。(P.36-37、「鳥たちの裁判」)

アイズリーが見つめる「自然」というのは、きっとこういうものなんだろう。厳しくて、優しくて、薄情で、冷酷で。夜の後には朝が来て、冬の後には春が来るけど、それを迎える側は朝や春にはもうこの世にいないということは、十分にありうる。生きとし生けるものすべてがそれを知っている。

アイズリーはソローやエマソンを引用し、自身をナチュラリストと呼び、人間中心主義には冷淡な態度ではあるけれど、自分が人間であることを自覚しているところが好きだ。ナチュラリストには孤独が必要であると言い、彼自身孤独を愛しているけれど、人間が嫌いなわけではない。「自然」という言葉の曖昧さも自覚している。
ナチュラリスト」は極端な主義主張の人をも含むので胡散臭い印象を持っているのだけれど、アイズリーは善き科学者という感じで安心する。倫理をもって科学技術を使役することができる冷静さを持っていそう。過度に技術を恐れることもなく、中道を行ってくれそうな人。

でもやっぱり、彼の中にはぽっかりと浮かぶような孤独があって、時々ものすごく寂しい気持ちになったりしたんじゃないだろうか、とも思う。それがアイズリーの魅力でもあるのだと思うけど。

 この宇宙には人間ほど孤独な存在はない。ともに暮らす動物たちとは、社会的記憶や経験において茫漠たる溝によってへだてられている。そして、そのことを知るだけの知性をそなえているがゆえに、人間は孤独なのだ。(P.42、「長い孤独」)


基本的にエッセイ集ではあるのだけれど、中には小説仕立ての章もあって、そのひとつである「蛙のダンス」がとても好きでした。一緒に魔法にかかったような気持で読んでいた。ネタバレになるので詳しくは書きませんが、「その瞬間」が来た時の感覚の描き方が素晴らしかった。別に似たようなことを体験したことがあるわけでもないのに、ぞっとするような感覚を私も感じた。踏みとどまれなかった場合にはその体験を語る機会が永遠に失われてしまう類の魔法だ。アイズリー、何なんだこの筆力……。

好きなエピソードを並べ出したら頭から終わりまで全部触れなくちゃいけないので、この辺りにしておきます。
ホイットマンや『白鯨』、ダーウィンフロイトの言葉を引用して、アイズリーは彼が目にした世界を語るのだ。その世界が大きすぎることもなく、小さすぎることもないのは、彼自身がしっかりと目を開いてものを見ているからだろう。
アイズリー、とても好きな雰囲気でした。『夜の国』も読みたい。

ブッツァーティ『タタール人の砂漠』(脇功 訳)を読みました

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

ずっと本棚に飾っていたブッツァーティの『タタール人の砂漠』を遂に読みました。いろんなところで良い評判を聞いていた小説でした。これが噂の!

内容をあまり知らずに読み始めたので、タイトルから砂漠を旅する物語だと思っていたのですが、全然違った。主人公の男は、砂漠には一歩たりとも足を踏み入れなかった……
カバーの折り返しには「二十世紀幻想文学の古典」と書かれているのですが、読んだ印象としては幻想文学って感じではなかったです。カフカ的というのはわかるけど、カフカ幻想文学じゃないよな。まぁ小説のジャンルというのはグラデーションであって、厳密な境界線があるわけではないけれど……。

この小説はごくごくおおざっぱに言うと、将校に任官した青年ジョヴァンニ・ドローゴが、初めての赴任地であるバスティアーニ砦で日々を過ごす話です。
バスティアーニ砦は北の国境に位置する砦で、隣国との間には大きな砂漠が広がっている。その砂漠を、砦の面々は「タタール人の砂漠」と呼んでいる。砂漠と、砦と、他には何もない。自慢できるのは料理だけ。
将校になったばかりのドローゴはごく一般的な若者なので、非番の日には町に出て女の子と遊んだりしたい。しかし赴任先の砦は町から遠く離れており、これといった娯楽もない。せっかく将校になったというのに、こんなはずではなかった! 別に志願してやって来た赴任地でもない。別の場所に配置換えしてもらおう。上官に挨拶をした際に配置換えを打診したドローゴは、しかし言いくるめられて四か月後の健康診断を待つことになる。


以下、小説の結末などに触れた文章となりますので隠しておきます。未読の方はご注意ください。

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J・シュペルヴィエル『ノアの方舟』(堀口大學 訳)を読みました

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シュペルヴィエルノアの方舟堀口大學訳、青銅社、1977年

古本屋でシュペルヴィエルの本を見つけたので、買って読みました。普段はAmazonのリンクを記事冒頭に載せるのですが、ISBNがついていない本だったので、代わりにセルフ書影を掲げておきます。
青銅社の函入りで、函から出した表紙の鮮やかな青も美しい。マリアブルーっぽい。実は扉にサインが入っているやつでして、サインの宛名は小林ドンゲ! なのに普通にお安くて、いいのか……と思いながら素知らぬ顔でお会計してもらいました。加えて飯島耕一の栞(リーフレット)も挟まれていて、お得感が凄い。嬉しい。

とはいえ買った理由はサインではなく、堀口大學訳のシュペルヴィエルを読みたかったからです。シュペルヴィエルのことは『世界文学アンソロジー』で「沖合の少女」を読んで以来気になっていたのですが、他の作品を読めていませんでした。古本屋で見つけて、これは買わねばと思った。

全7編の短編集で、内容は以下の通り。

ノアの方舟
「エジプトへの逃亡」
「砂漠のアントワーヌ」
「少女」
「牛乳の椀」
「蠟人形」
「また見る妻」

堀口大學訳の本書は第一書房から1939年に出たのが初版らしく、この青銅社版は再再版になる模様。私にとっては、どれも初読でした。「砂漠のアントワーヌ」までは直接的にキリスト教の聖書にでてくるエピソードをもとにした話です。
シュペルヴィエル、全体的に飄々とした雰囲気で、好みでした。足元からすすすっと忍び寄ってきて何事かを囁くような感じ。神話世界のように、動物も普通に喋ったりするのですが、ごくごく自然にそれをこなすのでなんの違和感もない、でもファンタジーでもない。こういうのを寓話的と言うんだろうか。でも寓話的小説にしては説教臭くないのが良い。
ノアの方舟」はもうモチーフからして大好物なのですが(石川宗生の「恥辱」も良かった)、ほかにも「牛乳の椀」「蠟人形」が特に好みでした。

ノアの方舟」は、飯島耕一が栞にも書いている通り、出だしがとにかく抜群に良い。

 宿題が出来上って乾かそうとした途端、大洪水以前の一人の小娘は気がつくのだった、自分の吸取紙がぐしょぐしょに濡れてしまっていることに。この紙、ふだんはいつも喉を渇ききらしている性分のこの紙が、水を吐くとはいったいどうしたというのだ! クラスでも成績きわめて優秀なこの小娘は、自分に言って聞かせるのだった、ともするとこの吸取紙は何か素敵な病気に罹っているのかも知れないと。吸取紙をもう一枚買うには、あまりにも貧しすぎる彼女だったので、その桃色の紙を日向へ出して干すことにした。ところが吸取紙にはどうしてもその悲しい湿り気を払いのけることが出来ないのだった。一方また、宿題のインキも、いっかな乾こうとはしないのだ!(P.8、「ノアの方舟」)

タイトルが「ノアの方舟」である時点で、この小説で大洪水が起きることを読者は予測できるわけですが、大洪水の予兆が渇かない吸取紙から始めるところに痺れる。そしてこの後「脳や腹部に水の溜る病気」で人々が死ぬようになり、ついには「砂漠の砂の粒までが」水を吐き出すに至る。そして読者の誰もが最初から知っている通り、ノアは方舟を作り、それに乗り込むことができた動物のつがいは生き延びることに成功する。
ノアの方舟というモチーフの面白いところは、選ばれるものと選ばれないものが歴然と区別されることです。聖書的には、人々があまりにも堕落したために全部水に流してもう一度やり直すことにしたというのが大義名分だけれど、運よく方舟に乗れた「つがい」以外の動植物に対する慈悲は皆無である。人間はまぁいいとしても、堕落した人類に巻き込まれる動植物はたまったものではなかろう。
この小説でも、方舟に乗れなかった動物たちは「大洪水以前の動物」として滅びの運命を甘受するしかないことになっているのですが、そういう不条理を軽やかに笑いながらチクリと示してくるところが良い。「ノアの方舟」に限らず、ユーモアに包んで毒を差し出すところがシュペルヴィエルの面白いところでした。

 大洪水以前の動物の一団が会合し、転覆させようとして果さなかったノアの舟に対して、邪魔をしようと計画した。彼らは鯨に参加するようにと慫慂したが、もともと正統派ではあり、また自分が生き残ると確信している鯨は、子鯨どもを引き連れて、「後ろを向いてはいけないよ、やつらはみんな無政府主義者どもだから」と言いながら、さっさと行ってしまうのであった。(P.14、「ノアの方舟」)


「牛乳の椀」はたった3ページの短編なのですが、これがまたかなり印象的な作品で、非常に好きです。お椀になみなみと注いだ一杯の牛乳を、母親のために毎朝歩いて運ぶ青年の話。ただそれだけです。飯島耕一の栞に、フランス語の教科書に載っていたとの記載があったけれど、これを題材にした授業は面白そうだ。

 諸君が往来ですれ違う男たち、彼らが必ずしも市内の一点から他の点へと、あのように歩いているにふさわしい理由を常に持っていると、諸君は思うだろうか?(P.80、「牛乳の椀」)


いやしかし極めつけは「蠟人形」ですよ! この作品もまた、出だしが素晴らしい。

 その劇場の支配人は、たいそう親切な人物だった。そのため、彼が作者の目の前で、原稿の片隅を引き裂いて、小さな団子を作ったりしても、それがいかにも楽しそうなので、作者はこの身振りの中に、むしろ他ならぬ心づくし、わが脚本に対する多少とも異常な関心を見るにすぎないのだった。(P.82、「蠟人形」)

もう明らかに曲者の気配漂う支配人の描写! こういう描き方で支配人の人となりを言い表すところ、巧いなぁ。
そして、そんな慇懃無礼を極めたような支配人の劇場には、客の入りが悪い時に観客席に配置される蠟人形がいる。

それで支配人は、彼のために、説明しなければならなかった、近頃、諸方の劇場で、前売りが少なすぎる時には、倉庫から、観客の補充を引っぱり出すのだと。彼らは完全に似せて作ってあった。いかにも人間らしい見事な仕上げで、亜麻いろの頭髪だとか栗いろの頭髪だとか、肥っているとか痩せているとかいう、単純な差別では満足しなかった。(中略)
 幕あきの一時間前に、これらの人形は配置されるのだった。彼らは待つのは平気だった。また彼らの中の或る者は、適当な折に拍手することも心得ていた。巧みに装置された電線が、彼らの拍手の時機を教えるのだった。(P.88-89、「蠟人形」)

客の入りの少ない劇を書いた作者自身は、この人ならざる観客が気に食わない。一番の理解者みたいな顔をした支配人に言いくるめられてしまうけれど、どうしても納得できない。
話の結末をここで書くことはしませんが、この結びも、出だしに劣らず印象的ですごく良かった。事実を述べるだけで、背後にあるだろうあれやこれやを浮きかび上がらせる。けど明言はしないので想像の余地が果てしなく広がる。


シュペルヴィエルは詩人でもあるそうなので、詩のほうも読んでみたいです。その前に、もう一つの短編集『沖の小娘』も読みたいなぁ。青銅社、もう存在しない版元らしいので、古本屋でうまいこと見つけたらすかさず買わなくては。

「第18回英詩研究会」に参加しました

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2021年3月28日にオンラインにて開催された「第18回英詩研究会」に参加しました。なんと今回は、発表者として!

英詩研究会は半年に一度くらいのペースで開催されていて、コロナ禍以降はオンラインでの開催となっています。今回は2020年のノーベル文学賞を受賞したルイーズ・グリュックの詩をみんなで読むという内容でした。
導入役としての発表者は3名。それぞれグリュックの詩を1編ずつ選んで、試訳を含む簡単なレジュメを用意しました。そのレジュメをもとに、ここの解釈はこうなんじゃないかとか、この言葉にはこういう意図があるんじゃないかとか、参加者全員で意見を出し合っていくというのが当日の流れです。
そしてさらにイントロダクションとして、関根路代先生と吉田恭子先生によるグリュックについての解説がありました。グリュックの経歴や特徴、現代アメリカにおける「詩」の扱われ方など、現代アメリカ詩の最新情報がいろいろと聞けて面白かったです。人気の詩人の名前なども聞けたので、要チェックだ。
※この記事では「グリュック」と記載していますが、音としては「グリック」が近いらしい、という話もイントロダクションで知りました。そうなのか!!


さて、前述のとおり私は今回初めて発表者として会に参加したわけですが、いやぁ、もう、難しいのなんのって……!
英詩研究会の参加者は大学の先生や学生さんが多数なのですが、アカデミックに閉じない場にしたいという主催者の方の意図があり、ただの本好きである私も参加させてもらっていました。しかしまさか発表サイドでお声がかかるとは思っておらず「どうですか?」と言われた時にはびっくりしました。英文学科出身でもないし、この研究会のとき以外に英詩なんて読まないし、日本語でさえ詩を読む習慣なんてないし(短歌は好きだけど)、私に声をかけるとはなんと勇敢な…!とかいろいろ思いましたが、とりあえず誘われたらやってみるが私のモットーなので「じゃあやります!」と宣言して挑戦したのでした。

とはいえ引き受けたからにはしっかりやらねばと思って、グリュックの第二詩集 "The House on Marshland" から「Gretel in Darkness」を選びました。これは、グリム童話ヘンゼルとグレーテル」を下敷きにした短めの詩です。
発表のお誘いをいただいたときにやってみようと思った理由の一つが「グリュックの詩は、読むだけならそんなに難しい文章ではない」という情報があり、ざっと見てみると確かにそのようだと思ったからです。しかし実際読んで試訳をしてみると、まぁなんとか文章にはなってるように見えるけど、詩にはなってないな? って感じで……でも詩ってそういうものでしたね。文章として読んだからといって、詩を読んだということにはならない。日本語でもそうだった。だから面白いんだった。

実際読んでみて感じたのは、代名詞や目的語の曖昧さが詩の世界の奥行きを広げているんだなということ。これは、研究会当日のディスカッションでも話題になったことです。私たちの生きる世界が三次元であるのに対して、詩が記された紙は二次元で、そこに世界を映しだそうとするなら一語に奥行きを持たせる魔力をこめるのが一番シンプルで有効な方法なのかもしれないな。
代名詞については、例えば「it」は何を指しているのか。あるいは「women」とは誰を指しているのか。読んでいれば文脈から何となく推測はできるけど、他の別解があるような気配が漂っている。womenに含める人をどこまで広げるか、あるいは限定するか。それによって読み方が変わってくる。
目的語については、おそらく故意に欠落させているように思われました。代名詞同様、文脈からわかるんだけど、明記はしない。例えば「But I killed for you.」という文章で、誰/何をkillしたのかが明記されない。全体を読んでいれば魔女だろうと思うけれど、文法的には目的語がくっついてくるはずなのに、それがない。そういう箇所がところどころにあるので、これは故意でしょう。
となると、目的語を欠落させることでどういう効果が生まれるのかっていうのが読解ポイントになるはず。効果のひとつは目的語を明確にしないことでそこに入るべき単語の幅を広げることだと思うけれど、ディスカッションで話題になって腑に落ちたのは、「書かない」ことによってそこに置かれるはずだった単語が存在感を増すという効果。鮮やかな絵の中にぽっかり浮んだ空白のような、ジグソーパズルのピースが足りないような、目立つ不自然さ。


初めての発表役でしたが、思い切ってやってみて本当に良かったです。研究会前に私が読んでいたときには気付かなかった読み方についての指摘もあって、そういうところをヒントに読んでいけばいいのか! という点をいろいろと教えていただきました。私の解釈がぐるっとひっくり返るような指摘もあって、すごく面白かった。「皆で読む」の醍醐味ですね。
私の中では「詩は韻を踏む」というイメージが強くて、音の近さで言葉を繋いでいくというのは念頭にあったのですが、単語から連想するイメージで言葉を繋いでいくという見方もあるということを、今回ようやく実感できたように思います。神話や宗教、歴史のイコンはある程度の専門知識が求められるけれど、普段遣いの言葉からも「連想されるイメージ」というのはあって、言葉に少し敏感になるだけでそういう言葉のつながりをほぐしていくことができるんだな、というのは心強い気づきでした。詩を読むことに対する気構えが少し軽減された気分。でもよく考えたら短歌の「縁語」と同じなんだな。
言葉を尽くして語る文章も好きだけど、一語にぎゅっと凝縮して立体的に読ませるのも好きだ。もしかして詩世界ってものすごく面白いんじゃないか、ということに、今回発表者としての資料を準備しながらようやく気付いた次第です。本当に、良い機会をいただいた。拙い発表だったと思いますが、ありがとうございました。グリュックに限らず、もっといろいろ詩を読んでみたくなりました。これは沼だな…


ちなみに研究会では、日本では詩がそこまで日常生活に浸透していないという話題が出て、それはそうだなと感じました。でも日本には短歌や俳句があるんですよね。芭蕉の句で有名な観光地には大抵俳句ポストみたいなのがあるところ、いいなって思う。詩という形式は日本ではまだ歴史が浅いし、歌詞ではない詩を書いている人も少ない印象ですが、通じるものは持っていると思う。慣れていないだけで。
おそらく学校教育として、詩を詩として読む方法をしっかり伝えられればもっと詩人口が増えるんではないだろうか。技巧を含む詩文の味わいがもっとメジャーになるといいなあ。というかまず私がもっと読もう。今の詩人って全然知らない。知らないというのがもう勿体ない。絶対面白い文学ジャンルなのに。


なお当日みんなで読んだグリュックの詩3編の内訳は以下のとおりでした。

Gretel in Darkness (詩集 The House on Marshland 1975)
Lost Love (詩集 Ararat 1990)
Aboriginal Landscape (詩集 Faithful and Virtuous Night 2014)

自分の文の発表準備に追われて、他の方の詩をしっかり読み込めなかったのが反省点です。
そして研究会終わってからこの記事を書くまでにこんなに時間が空いたのは、「"Faithful and Virtuous Night" を読むと Gretel in Darkness がもっとわかる」という情報を耳にして、よし研究会の記事は詩集を読んでから書くぞ! と思っていたのですが、なかなか手が付けられないので先に記事を書くことにしたのでした。本当は意気揚々と「読んだらもっとわかった!」とか書きたかったのに、不甲斐ない……。すでに詩集の準備はしてあるので、今年中には読むつもりでいます。


次回英詩研究会は9月予定とのこと。毎回すごく濃い時間が過ごせるので、次回も楽しみにしています。

岸政彦・柴崎友香『大阪』を読みました

大阪

大阪


私が生まれたのは大阪市内のとある病院ですが、物心つくまえに引っ越してしまったので、大阪の記憶はない。私にとって大阪というのは、母親が生まれ育った街であり、両親が出会った街であり、滅多に会わない叔母が住む街ではあるけど、正直ぜんぜん馴染みのある街ではない。土地勘もない。でもまぁ、買っちゃいましたよね。岸政彦も柴崎友香も好きだから。

「はじめに」で岸政彦が書いているところによれば、岸政彦は1987年に大学進学のタイミングで大阪にやって来て、そのままずっと住み続けている人。そして柴崎友香は大阪で生まれ育って、2005年に大阪を出て行った人。二人が雑誌『文藝』にて「大阪」にまつわるエッセイを交互に書いていた連載をまとめたのが本書です。

結論から言うと、すごく良かったです。大阪という土地の魔力がどこまで働いているのかわからないけれど、書いているのが岸政彦と柴崎友香であるということの魔力はすごく大きいと思う。何を書くかというのは、つまり何を見ているかということに直結するものだ。そして、この二人が見つめているものが私はとても好きなのです。

 でもたぶん、大阪で生まれ育って、ここが地元だったら、私は東京あたりの、別の街に逃げていただろう。私は十八で名古屋から脱出して、大阪に来た。私は大阪に、「出て来た」のだ。もし大阪で生まれ育ったとしても、その地元はおそらく、女たちが殴れられ、泣かされ、働かされ、ただ我慢を強いられる街だったに違いないし、すこし「進んだ」考え方を持った子どもや、塾にも行かずにただ家にこもって本を読んでいるような子どもは、からかわれ、罵られ、仲間外れになるような街だったに違いない。(P.25-26、岸政彦「地元を想像する」)

 中学の後半からやっと、自転車で心斎橋に行ったり、電車やバスで梅田に出たりできるようになって、ようやく、わたしはこの街に居場所があると感じたし、それ以降は、夜に賑やかな路上を一人で歩いているときがいちばん心が安らぐようになった。
 今でもそうで、それは新宿でも渋谷でも、同じだ。旅行で訪れたニューヨークでもそう感じた。
 だから、わたしにとって「この街」がたまたま大阪だっただけで、他の場所で育っていたらそこが「この街」だったかもしれない、と思う。
 しかし、そうだとしても、わたしには「大阪」が「この街」だった。(P.43-44、柴崎友香「港へたどり着いた人たちの街で」)

二人が長く暮らした街である「大阪」、別にそれが「大阪」じゃない世界もあり得たかもしれないけど、この世界ではそれが「大阪」だったというのは不思議な感じだ。それが私にとっては自分の出生地でありながら何の記憶もない土地であるというのが余計に変な感じがするのだけれど、べつにそこに特別な意味はないのである。たまたまそうだったということが良いのだ。
郷土愛とか愛国心という言葉は好きではないし、私は私の地元(幼稚園から高校まで住んでた場所)にそこまで愛着もない。それでも私たちは肉体をあちこち移動させながら生きているので、暮らした街というのはそれなりに身体に馴染むものなんだと思う。治安のあまりよくない地区に親に内緒で遊びに行ったこととか、塾の帰りに寄り道をして遅くなって怒られたこととか、電車通学になってからはわざとターミナル駅で乗り換えて構内を無意味に歩き回ったこととか、大阪と全然関係のない自分の地元のことをぼこぼこ思い出した。そういう風に、自分のことをいろいろ思い出す本だった。

読んでいてしんどかったところもある。しんどかったというのは、不快だったというのではなくて、図星だからつらいという種類のもの。岸政彦パートの「あそこらへん、あれやろ」だ。在日コリアン被差別部落の人に対する差別の話。これがあってこそ、この本が良いものになっているという箇所のひとつなんだけど、しんどいものはしんどい。

 大阪に住んでいると、いろんなひとがいろんなことを言うのを聞く。
 二〇〇九年ごろに、大阪市内のある被差別部落に調査に入ることになって、ある夜、近くの大きな駅からタクシーにのってその地名を言ったら、そこはちょっとした盛り場にもなっていて、特段マイナーな地名でもなかったのだが、そして運転手もまだ三十代か四十代の若い感じのひとだったのだけれども、彼は小さな声で、「あそこは普通のひとが行くとことちゃいますよ」と言った。(P.117-118、岸政彦「あそこらへん、あれやろ」)

日頃は親切で温厚なひとが、唐突に声を潜める瞬間。残念ながら大阪に限った話ではない。それは差別しているという意識を伴わずに発せられる言葉であることがほとんどだと思う。統計データをもとにした悪意のない助言。あなたはこっち側のひとだと思うから言っておくけど、というニュアンスを行間に潜ませて。多分そういう黒いもやのような親切心が、学校の教室の一角に現れたりするのだろう。近づかない方がいいよ、と。そしてそういう経験が、世の中をうまく渡るための処世術として学ばれるのだ。道徳の時間とはまた別の、現実世界の生き方として。大人になるということが、そういうことであるかのように。
そして何より恐ろしいのが、こういう話を読んで「うわっ」と思う私自身が、ほかならぬ私自身が、きっと自分では気づいていないところで似たようなことを誰かに対してやっているんだろうな、ということだ。自分では差別だと思ってもいないような部分で誰かを踏みつけているようなことがきっとあって、それに自分は未だに気づいていないだろうというのは、恐怖だ。なるべく気を付けるようにはしているんだけど。


とはいえ一応生まれた土地ではあるので、一度くらい住んでみたいものだという気持ちはある。しかし大阪、景気悪いんですよね。うちの会社も関西支社があるので「異動したいです!」と言ってはいるけど、コロナ禍の影響もあって転勤のチャンスはしばらく無さそうです。
最近の景気の悪さについて柴崎友香が書いていたことが印象的だったので、少しだけ引用しておく。

 ここ何年も、個人商店や路地的な場所の小さな店がなくなることについて、考えている。あるいは、公園や公共施設が「無駄」とされ、金を稼げる商業施設に取ってかわられていくことについて。それは東京でも大阪でも、どこでも起こっている。つまり、時代の変化、ということかもしれない。
(中略)
それでも、個人商店や商店街の細々とした店がすっかり失われることは仕方のないことではない、と渋谷の新しいビルのエスカレーターで移動しながら思った。
 ここではわたしたちはただお金を使う側にしかなれない。もしくは、大企業の労働者になるか。くっきりと、お金を使う側と、お金を儲ける側が分かれてしまって、そのあいだの流動性はどんどんなくなっていく。お金を使わなければ、居場所がなくなる街になっていくということ。(P.192-193、柴崎友香「大阪と大阪、東京とそれ以外」)


スカイツリーができた時、直結する建物に割と大規模な商業施設がオープンしたことに非常に興ざめしたことをここに告白します。理屈はわかるのだ。展望台を作るなら観光客も来るだろう。でもさぁ、ちょっと金の臭いが強すぎませんか。別に金儲けが罪悪だと言うわけじゃないけど、なんかちょっと、はしたないよな、と思ってしまうのでした。うーん、やっぱり私は金儲けを意地汚いと思ってるんだろうか……


何の記憶もない街ではあるけど、何の縁もない街というわけではないので、それなりに気になる街ではあるようだ、ということを、この本を読んで改めて感じました。読んでよかった。正確には、私の好きなこの二人の文章で大阪についての話が読めてよかった。
大阪万博は2025年の予定ですが、どうなるのでしょうね。そのころには世界も今より落ち着いているだろうし、見たことないようなものを出してきてほしいなぁ。

チャン・リュジン『仕事の喜びと哀しみ』(牧野美加 訳)を読みました

仕事の喜びと哀しみ (K-BOOK PASS 1)

仕事の喜びと哀しみ (K-BOOK PASS 1)

数年前から韓国の現代小説が書店で目立つようになっていたけれど、なんとなく機会を逃し続けてまだ一冊も読んでいなかった。現代韓国小説市場はフェミニズムとすごく強くリンクしている印象で、それが重要な問題であることに異議はないんだけど、私のスタイルとはちょっと違うやり方であるように感じていたので、これまで少し離れているようにしていたのです。それはフェミニズム文学というものが、プロレタリア文学に通じるものがあるからかもしれない。明確な目的のある作品集合体であるということ。
(ちなみに韓国人作家グカ・ハンの『砂漠が街に入り込んだ日』は読んだけど、あれはフランス語で書かれているので韓国小説としてはノーカン)
まぁとにかく、私はフェミニズム運動のための小説は苦手だ。しかし現代韓国小説は読んでみたい……と思っていたところで、先日Youtubeで放送された「みんなのつぶやき文学賞」の第1回結果発表会にて倉本さおりさんが紹介していたのが本書。紹介を聞いてこれは面白そう! と思ったので買ってきました。
ちなみに結果発表会は今もYoutubeにて視聴可能です。

youtu.be

全8篇の短編が収められているのですが、正直に言ってとてもよかった。軽やかで、爽やかで、ちょっと意地悪なところもあるけどキュートでスマートな感じ。著者のチャン・リュジンは私と同年代なのも親近感が湧くポイントだ。
今の韓国ってこんな感じなのかな、というのがすとーんと入ってきました。私は未だに韓国に行ったことがないので(そろそろ行こうと思っていたらコロナ禍になってしまった)想像するしかないのだけれど。

巻頭の『幸せになります』は、ちょっとズレた会社の同期に振り回される話。主人公の私は就職戦線を勝ち抜いてきたしっかり者の女性。同期のクジェとの結婚式を間近に控えたところで、世間知らずで子供っぽい、特に親しくもない(と私は思っている)同期女性ピンナオンニから、結婚式に呼んでよ! と無邪気な催促を受ける。
一般的な結婚式のやり方や招待の仕方などが日本と違うのも面白いんだけど、違わないのは「特に親しくない(という認識の)同性知人との間合いの測り方」の難しさである。私は世俗にまみれた人間なので、断然「私」に感情移入して読んでましたが、こういうピンナオンニみたいな他意のない困ったちゃんは見ててヒヤヒヤする……もっとうまくやりなよ、と思ってしまう。
大人社会で顰蹙を買うような種類の無邪気さは、小説世界では大抵「目に見えない正しさ」みたいな役回りで、世間擦れした主人公の目を覚まさせることになる。この短編でもそういうことにはなるんだけれど、そこに至るまでの有能な「私」の振り回されっぷりがコミカルでありながら妙にリアルで面白い。ネタバレになりそうなので詳しくは言いませんが、一万二〇〇〇ウォン分のプレゼントを買う場面がめちゃくちゃ好きでした。わーかーるー!! そしてこの場面で浮き彫りになるのが「私」の器の小ささでもあるところが、ほんと、チャン・リュジンいい性格だな。この容赦ない感じはすごく好きだ。


しかし韓国が競争社会だというのは噂に聞いていたけど、それが具体的にどういうことなのかというのは、この本を読んでようやくイメージできたように思う。表題作『仕事の喜びと哀しみ』は会社の不条理に振り回される給与所得者の話で、主人公はアプリ開発を手掛けるスタートアップ企業に勤める女性。今時っぽい雰囲気を纏いながら旧態依然から抜け切れてない部分の描き方が素晴らしいです。

 デザイナーのジェニファーは韓国人だ。会社があるのはシリコンバレーではなく板橋(パンギョ)テクノバレーであるにもかかわらず、あえて英語の名前を使う理由は、代表がそう決めたからだ。迅速な意思決定が求められるスタートアップ企業の特性を考慮し、代表から社員まで全員が英語名だけで対等にやり取りするフラットな業務環境を作ろうという趣旨だそうだ。上下関係のある等級体系は非効率的だと。意図は悪くなかった。だが、代表や理事と話すときはみんな「先日、デービッドからご要請のありました……」あるいは「アンドリューがお話になった……」と相変わらず敬語を使っていた。だったらなんでわざわざ英語の名前を使うんだろ? 問題は代表のデービッドがそれをまんざらでもないと思っていることだった。(P.41)


本書全体で、パワハラかましてくる企業トップの話とか、同期の男性と給与が大幅に違う話とか、不合理さを告発する視点をさらりと組み込んでくるバランス感覚が非常に私好みでした。おそらく、そういう要素を排除して書いたとしたら、作品世界の風景が嘘になるのだろう。地球に重力があるように、現代韓国社会には女性にとってやりにくい習慣や風潮が残っていて、それを作品の背景として描くのは、例えば「落ち葉が風に舞っていた」というようなレベルの、ごく当たり前の描写なんだと思う。それを敢えて描かないのはむしろ不自然なレベルの。
『俺の福岡ガイド』の主人公や『真夜中の訪問者たち』の元恋人というような男性たちは、愛情という至極まっとうな感情を持って女性に優しく接しているけれど、本人たちが自覚していない部分で相手の女性を傷つけている。その描き方のさりげなさ、さりげないんだけどちゃんと読み取らせる筆致が、チャン・リュジンという作家の凄いところなんだと思う。なんとなく、キャサリンマンスフィールドを思い出した。

どれも良作ぞろいなんだけど、巻末の『タンペレ空港』が一番好きです。フィンランドタンペレ空港で、飛行機の乗り継ぎのために余った時間を、目がほとんど見えない老人と過ごしたことを思い返す話。若かりし日のキラキラしたものが、日々の労働によって、金のための労働によってだんだんと、しかし確実に失われてしまう様子の描き方が辛くて良い。そしてラストが! いいんですが! さすがにちょっとそれはここでは言えないですね。ネタバレすぎるので。お願い、読んでください。

ほんとうに、どの作品も完成度が高くて素晴らしかったです。これでデビュー作ってすごいな。今後新刊が出たらまた読みたい作家です。すごく良かった。