好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

OracleLinux7.9のGUIデフォルト設定を変更しました

先日、VMware Workstation PlayerにOracle Linux7.9を入れて、Oracle Database 19cのデータベースを作成しました。

OracleのインストールにはOracle Universal InstallerというGUIウィザードが便利です。そのためOSインストールの際に「サーバ(GUI)」を選んでインストールしました。しかしそうするとマシン起動時にデスクトップモードでの起動になる上に、ユーザーの初回ログインでアプリのデフォルトがどうとかいろいろ聞かれて実にめんどくさい。しかもホームディレクトリにデスクトップやら音楽やら、気を利かせていろんなディレクトリを作ってくれる。

そういうの要らないんで!ということで、作られない設定を調べました。
日本語から英語へ、とかはいろんな人がやってたんですが、フォルダ作成をなくす手順は数が多くなかったので、備忘を兼ねて記録しておきます。
またデスクトップセットアップとかも鬱陶しくて聞かれたくないので、そこも一緒に無効化しました。
最後に起動時のデフォルトがGUIではなくCLIになるように変更しておくところまで記載してます。

ただのメモ書きなので悪しからず。

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ESXiをインストールしました

<これまでのあらすじ>
新調したPCにVMware Workstation Playerをインストールし、ESXiを立てて、Oracle Database RACを構築しようと目論む

新調したPCのOSがWindows11(VBS機能デフォルト有効)だったため、Windows Hypervisor Platformを追加導入してVMware Workstation Playerをインストール
VMware Workstation Playerをインストールしました

仮想マシンにESXiを入れようとしたとき、Windows Hypervisor Platformの制限事項によりESXiが導入できないことに気づく。
ESXiをインストールできませんでした

いまここ

というわけで、今回はVMware Workstation Playerの再インストールからESXiのインストールまでです。
結論から言いますと、無事にインストール完了しましたので、ご安心ください!
長くなるのでたたんでおきます。

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ESXiをインストールできませんでした

先日無事にVMware Workstation Playerのインストールが完了したので、次にESXiをインストールするための仮想マシンを作成しようとしました。
……が、結論から言いますと、記事タイトルにある通り、失敗しました。
VMware Workstation Playerのインストール方法がよろしくなかったのが原因です。

ちなみに目下目指すべきゴールはESXi上にOracle Linuxをインストールして、Oracle DatabaseをRACで組むことです。
長くなるので折りたたんでおきます。

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VMware Workstation Playerをインストールしました

※2022/4/9追記※
本記事は2022/4/3に公開されたものですが、その後の作業によってESXiを入れるためのVMware Workstation Playerをインストール方法としては不適切であることが判明しました。(続き:ESXiをインストールできませんでした)
ESXiの構築を想定してVMware Workstation Playerをインストールしようとしている方は、参考にしないでください!


みなさま大変お久しぶりです、いかがお過ごしでしょうか。私は秋口から仕事が忙しくて本を読む元気も映画を見る元気もなく、荒んだ気持ちで日々を過ごしていたら、気づけば外では桜が咲いていました。
最近ちょっと元気になってきたので、新しいおもちゃとしてノートPCを新調しました。せっかくだから仕事で知識のなさに打ちのめされた部分をいろいろと勉強できたらな、と。
しかし手を動かしてもどうせすぐに忘れてしまうのは目に見えている。ちょうどブログを持っているんだし、ここに手順や経緯を記録しておくことにします。文章の書き方も思い出すはずだ……。

ということで、新しいPCにVMware Workstation Playerをインストールして、仮想マシンにESXiを入れて、その上のゲストOSにOracle Linuxを入れて、Oracle Databaseをインストールしてみたいと思っています。
本当は古いPCにESXiを入れたかったのですが、NICドライバが対応してなくてすぐには着手できないことなどから一時断念。ESXiはWindowsの上に入れるのではなく、WIndows押しのけて入れるものなので、古いPCが使えなくなるのも避けたかった。
その点Workstation PlayerはWindowsOS上にインストール可能だし、個人使用ならライセンスも無料だし、勉強にはもってこいです。

なお基本的に自分のための記録なので、その点はご承知おきください。手順紹介ではありませんので、ご自身で作業する際には環境に合わせて実施ください。実行結果には責任を持ちません。

そして長くなるので折りたたんでおきます。

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ダリアン・リーダー『HANDS―手の精神史』(松本卓也・牧瀬英幹 訳)を読みました

書店で見つけて買いました。「私たちは手のしもべである。」という、帯のアオリにやられたのです。
想像が膨らむ目次は以下の通り。

1. 分裂する手 ―自律と自由のパラドックス
2. 自律する手 ―手と口の病的な関係
3. 掴む手、放す手 ―愛着と喪失
4. 社会化される手 ―手を暇にさせておくことの危険性
5. 鎮める手 ―感覚を取り除くための刺激
6. 暴れる手 ―暴力行為の効能
7. 言葉と手 ―手を使わせるテクノロジーの今昔

左右社の本で、なんだかすごくしっかりした紙を使っているのが印象的でした。
タイトル副題の「手の精神史」部分は原題にはなく、邦訳で付与したようです。実際のところ内容としてヒストリー要素はそこまで多くなく、数百年前の西洋世界の話に触れているくらいでした。

ただ、精神史という副題をつける理由もわかる。人類の歴史というのはすなわち、手がどのように使われてきたかということの変遷ではないか、というのがこの本のテーマだからだ。

 しかし、人間の歴史におけるこの新時代を、少々異なる角度からみればどうだろうか? 現代文明がもたらすものへの新たな期待や不満に焦点を当てるのではなく、今日の変化を、「人間が自分の手を使って行うことの変化」として捉えてみるとすれば? デジタル時代の到来によって、私たちの経験のありさまが変わってしまった例も多いかもしれない。しかし、この時代には、もっとも明白であるにもかかわらず無視されている特徴がある。それは、これまでに前例のないほどのさまざまな方法で、手を忙しくしておくことができるようになった、ということではないだろうか。(P.9)

平易で読みやすい文章ですが、読みながらいろいろと考えるので、ぱぱぱーっとページが進む本ではないです。でもとても楽しかった。

確かに我々の生活は生れた時から死ぬまでずっと手に支配されているように思う。五感の中では視覚に依存しているなというのは前から思っていたけど、肉体では、移動のための足を除けば、手に一番依存している。身の回りの道具の多くは、手で操作することを前提として作られている。

手は私たちに仕える。手は実務的な活動の道具であり、私たちが何かを行うための手段である。手は、私たちの願いを叶えるために、世界を操作することができる。私たちは、投票したり、賛成を示したり、団結を確認したりするために挙手を行うが、それは、手がその所有者である人間という能動性の主体(エージェント)を表すために用いられているからである。(P.13)

特に面白いなと思ったのが「手を忙しくさせておく必要性」の話です。西洋には「手を暇にさせておくと悪魔が取り憑く」という言い伝えがあること、扇子や手袋、嗅ぎ煙草などは手を忙しくさせる格好の口実であっただろうことなど。そして今は、スマホによって手を忙しくさせておくことが可能になったこと。
この辺りの話は4章で語られているのですが、とても面白かった。7章に出てきた、音声操作だけでは「操作してる実感」が得られない話も。
納得する部分もあるのですが、本当にそうなのかな?という気もする。我々の生活は手が自在に使えることが前提になっているから、手もち無沙汰だとなんだかそわそわする。その「そわそわする」は習慣的なものなのか、本能的なものなのか、どっちなんですかね。生れた時から手がない人は、別の部位を忙しくしておくと落ち着くことなどがあるんだろうか。ヒトという種は手を使うことが生命活動に直結しているんだろうか。あるいは二足歩行になった後、操作する器官として手を発達させてきたからなのか。後者だとしたら、二足歩行になったときのような、種としての劇的な変化が生じた場合には、そのとき手は今の地位から転落するかもしれない。まぁその劇的な変化後のヒトというのは、今のヒトと同種とは言えないだろうけれども。だからヒトとして考える場合は、手は特別な器官なんだってことで、いいのかな。

ヒトが本能的に手を使いたがる話については、3章に載っていました。

驚異に晒されたとき、、私たちは――たとえ、掴むことが生き残るという目的に直接的に結びつかないとしても――何かを掴もうとする傾向がある。つかまるための何かは人工物であっても、自然物であってもよい。ロープやいかだ、木の幹にぶら下がるシーンを含む小説や映画を考えてもよいだろう。ヘルマンの理論に従えば、いたるところに見られる「何かにぶら下がる」というこのシーンは、母親の身体からの早期の分離にフォーカスしたイメージということになるかもしれない。私たちは、そこから振り落されることを恐れ、そこに引き戻されることを切望しているというわけである。(P.59-60)

わけであるかどうかは別として(この後著者もそれだけが理由ではないだろうと述べている)、掴むという行為が象徴するあれこれを考えるのは面白い。そしてそれと対になる、放すという行為と組み合わせて考えると一層面白い。「掴む」「掴まれる」「放す」「放される」と広げることもできる。しかし本文にも出て来た話ではあるんですが、「掴まれる」は大半がホラーですね。そして「掴む」先の結果についても、「手に入れる」「すり抜けられる」「壊れる」などいくつものパターンがある。

意識の誕生と発達には肉体という器が必要で、身体にまつわる慣用句は身体感覚なしには生み出されないものだということは、最近ではもう共通認識になっていると思う。ヒトが何かをするときは大抵「手」を使ってするわけだけど、もしも「手」がなかったら(怪我などで使えない場合というのではなく、種として手という器官を経験していなかったとしたら)どうなるんだろうか。魚は手がない生き物だから、きっとなにか根本的に物の捉え方が違うんだろうな。

…などと色々考えながら、とても楽しく読みました。一日一章ずつ読んで一週間で読了しました。
10年くらいするとまた状況変わってそうなテーマではあるので、今読むのが多分一番面白いと思います。でも10年後に読み返してみるのも面白そう。

映画『最後にして最初の人類』を観てきました

synca.jp

ヨハン・ヨハンソンの遺作だというので、何が何でもスクリーンで観ねばならん! と思い、直行直帰で行ってきました。壮大なサウンドノベルという感じで、非常に好みでした。万人受けではなさそうですが、私にはどストライクで、がっつりと心を鷲掴みにされました。もう一回観に行きたいくらい。

ちなみに私はヒューマントラストシネマ渋谷で観ました。ここにはodessa vol+という特設シアターがあって、お値段そのままでワンランク上の音響で観ることができます。これが、もう、最高で! やっぱりこれは音がとても大事な映画なので、これから渋谷で観るつもりの方はぜひodessa vol+での鑑賞をお勧めします。(上映時間によってシアター変わるので、予約時に注意)

なおこの記事では映画の内容に触れています。未鑑賞の方はご注意ください。




『最後にして最初の人類』は、約20億年後の太陽系で絶滅の危機に瀕した人類の末裔からの、時空を超えたメッセージを伝えるという内容の映画です。
約20億年後、何度も苦難を乗り越えながら進化を重ねて「第十八期人類」となった人類の末裔。彼らは太陽系に進出し、テレパシーで意思疎通を行い、集団的意識を持つ。しかし太陽に異変が起きた影響で、彼らも滅亡しつつある。

パンフレットに載っていたヨハン・ヨハンソン自身の言葉のように、この映画版『最後にして最初の人類』は三つの層で構成されています。一つが旧ユーゴスラビアの戦争記念碑を使った「映像」、一つがオラフ・ステープルドンによって書かれティルダ・スウィントンによって朗読される「言葉」、一つがヨハン・ヨハンソンが土台を作り、彼の亡きあとはヤイール・エラザール・グロットマンらが引き継いで完成させた「音楽」。
いやー、もうね、この3つのどれが欠けてもここまでの傑作にはならなったでしょう。しかも、そのどれもが隙なく見事に完成されているのだ。

時空を超えて語り掛けてくる「声」は、声だけであって姿は見えない。設定として、この声はテレパシーを使って脳内に直接語り掛けているはず。ただ映画では象徴としてオシロスコープが使われていて、声がすると緑の光点がつぶれたような形になる(専門知識がなく、この状態がどういう言葉で表現できるのかを知らない)。この緑の点滅が、一度真っ赤なアラートになる場面がありまして、そこがすごく好きでした。ぞわわっとした。あくまでも冷静沈着な声で理性的な語りが続くなか、音楽だけが不穏な音で盛り上がって、第一期人類の心を揺さぶってくる。

「声」は20億年の間に人類が辿った歴史と、その果ての彼ら第十八期人類の生態を語る。だけどカメラは彼らの姿や生活を、そのままの形で一切映さず、ただただ巨大なオブジェを映し続ける。画面に映る中で最もヴィヴィッドなものはオシロスコープくらいで、そのほかの場面では常に色調は抑えられており、空は雲で覆われている。雲が何かの形にみえるような気もするけど、それはただ見ている者の感傷に過ぎない。

そう、この映画、人間がひとりも画面に出てこないのだ。コンクリートのオブジェや建築物を、ひたすら舐めるようなカメラで映し出すだけ。ごくたまに、鳥が飛んだりする。でもそれだけ。映し出される建築物が実用的なビルや家屋ではないのも大事なポイントだ。もともと私が建築物鑑賞好きだからこの映画が刺さるんだろうか…? 確かにそれもあるだろうけど、それだけではなさそう。そういえばニコラウス・ゲイハルター監督の『人類遺産』という映画がありまして、人類が滅んだあとの世界を映すって設定で廃墟となった建物をひたすら映す作品があるんですが、あれも超好みだった。あれは廃墟萌えだから好きだったんだと思うんですが、今回のは映像だけじゃなくて、音とのコラボが世界観をより強固にしていたと思う。

なお私は原作の小説は読んでいません。映画観て俄然読みたくなって、帰りに本屋に寄ったけど置いてなかった。和訳は国書刊行会しかないらしいんですが、品切れ増刷未定なんですね。国書刊行会さん、映画に乗じて増刷してくれていいんですよ……そういうのしないところも好きだけど。

久しぶりに映画のパンフも買っちゃったんですが、パンフの中に小説からの抜粋が一部掲載されていました。原文だとやっぱりいろいろ説明されているんだな、というのがよく分かりました。映画ではかなり言葉が絞られていて、詳しく説明されていなかったので。それでもこの映画は、小説のテキストを使わずして、小説が醸し出す雰囲気を最大限に再現しているように思う。原文読むと余計にそれが感じられる。

映像も美しいのでポストカードがあれば欲しかったけど、でも音も大事なのでやっぱりDVDで持っておくべきか? カメラワークもよかったからやっぱり動画という形式である必要がありそう。映像と音と、どちらが欠けても片手落ちって感じだ。マルチメディア作品、としか言いようがない。いやぁ、たまんないですね。

なんかべた褒めしてしまいましたが、冒頭にも書いた通り、好みは分れる映画だと思います。ストーリーに重きをおいた作品ではないので、筋書きを楽しむ人には拍子抜けかもしれない。大きなスクリーンに映し出される映像と、重厚な音楽と効果的に挟み込まれた無音の時間、そして必要最小限にして必要十分なテキスト、この3つで語られる世界観に頭からつま先までどっぷり浸かって味わう映画だと思います。
スクリーン上映してくれてありがとうございます。すごく良かった。

「2022年の『ユリシーズ』」の読書会(第十二回:第十二挿話)に参加しました

www.stephens-workshop.com

2021年6月27日にZoom上で開催された「2022年の『ユリシーズ』」の読書会、第十二回目に参加しました。

この読書会は2019年から隔月で開催されており、『ユリシーズ』刊行100周年である2022年に『ユリシーズ』を読了しようという壮大な企画です。ジェイムズ・ジョイスの研究者である南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんの3名による主催。なお読書会共通のテキストとして使用しているのは柳瀬訳なのですが、柳瀬さんは『ユリシーズ』を今回の十二挿話までしか訳していないので、柳瀬訳テキストを使うのは今回が最後となります。寂しい……
なおこの記事では一参加者としての個人的な読書会及び第十二挿話の感想について記載しています。作品解説やあらすじ紹介のようなものがあるようにみえても、気のせいですし、ネタバレ配慮もしていません。
読書会の詳細な内容が気になる方は上記URLにて公開される資料をご覧ください。なんと、参加者の方がまとめた資料もあります。

第十二挿話は「キュクロープス」、単眼の怪物の章です。そして柳瀬訳ユリシーズでは語り手の「俺」が「犬」という設定で書かれていて、「発犬伝」として有名なのだとか。
実は読書会前に参考文献として『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』を紹介されていたのですが、余裕がなくて読めませんでした。そして今も読めていない……『ユリシーズ』完走してからのボーナストラックとして読もうかなと思っています。

そんなわけで私自身は「俺」=「犬」説についてはよく知らないまま柳瀬訳十二挿話を読んでいました。はっきりと犬と書かれているわけではなく、読んでいくうちに犬なんだなと推測するような書き方です。
今回の読書会では、主催者のひとりである南谷さんが「「発犬伝」の埋葬」と題した発表をされていて、発犬伝に対する丁寧な反論をされていました。複数の文体が入り混じり、癖のある話し言葉で地の文が進んで行くのを読んでいると、犬と言われれば犬のような気がするなぁなどとぼんやり考えていたのですが、理論的な反論を聞くと「確かに犬というのは無理がある」というのが最終的な結論です。面白いけども。
しかし南谷さんの発表でも言われていたように、柳瀬訳は発犬伝がキモではなくて、もっと別のいろんなところでキラキラ光るものがたくさんあるのが素敵なのだと思う。たとえば第十二挿話では人名ジョークがとても好みでした。丸谷らの鼎訳は原文の音に忠実だったのに対して、意味を含ませて遊んでいる。

 国際的な社交界の面々が今日午後、愛蘭土国有森林庁森林守備隊総隊長、騎士ジャン・ウイズ・ド・ノーランとモミィ・シンヨージュ嬢の結婚式に多数参列した。レディー・シルヴェスター・ニレコカゲー、バーバラ・カバノキスキー夫人、ポール・トネリーコ夫人、ハシバーミ・ヘイゼルアイズ夫人、ダフニ・ベイズ嬢、ドロシー・タケヤーブ嬢、クライド・ジューニホンギー夫人、ナナカマード・グリーン夫人、ヘレン・ブドーヅルリン夫人、ヴァージニア・ツターハウ嬢、(・・・以下略、P.546-547)

実はまだ第十二挿話の復習が終わっていないのですが、個人的に気になっているところはいくつかあります。ただまだ答えが出ておらず、後の挿話を読めばヒントがあるかも、と期待している状態。
そのうちのひとつが、ディグナムの幽霊の話。

――あの男が死んだのを知らないのか? ジョウが云う。
――パディー・ディグナムが死んだって! アルフが云う。
――ああ、ジョウが云う。
――だって俺があいつを見かけてから五分とたっちゃいないんだぞ、アルフは云う。いとも単純明快よ。
――誰が死んだって? ボブ・ドーランが云う。
――それじゃあいつの幽霊を見たんだろ、ジョウが云う。くわばらくわばら。
――何? アルフは云う。まさかそんな、ほんの五分しか……何?……それにウィリー・マリーがあいつといっしょだった、二人してあの何とかいう店の辺りに……何? ディグナムが死んだ?(P.510)

ブルームが午前中に葬式に出たディグナムを、酒場にいるアルフはつい5分前に通りで見かけたという場面。可能性としては誰かと見間違えたか、あるいは本当に幽霊なのかのどちらかになるわけですが、気になるのはこの話をここでわざわざ入れてくる意味です。なんでこんなエピソード入れたんだ?

これまでの挿話で出てきた幽霊といえば、ハムレットの幽霊を一番最初に思い出す。あとはスティーヴンのお母さんの亡霊のイメージくらいか。
見間違いという線で考えるなら、第十一挿話の鏡像が思い当たりますが、無理やりっぽい気もする。
キュクロプスが単眼の怪物だということからも「見る」に重点を置いた挿話ではあると思うのだけど、「埋葬の済んだ男が通りで目撃される」というエピソードがここで挿入されるのとされないのとでは何かが変わるはずで、ジョイスはこのエピソードがここにあったほうがいいって思ったんだよなぁ。もしこのエピソードがここに「無かった」としたら、何が失われるだろうか?
あるいはこの後の挿話で幽霊だか見間違いだかが出て来るんだろうか。まだ読了したことがないのでこの後のお楽しみとしておく。しかし何の意味もないエピソードではないはずなんだ……とかいってる時点でジョイスの思う壺かもしれないと思うとちょっと悔しい。

幽霊話はともかく、この挿話で一番盛り上がるのは断然ブルームVS市民のバトルでしょう。読書会でもちらっと話題にでた「愛です」は私も笑うとこだと思って読んでいました。墓地に向かう馬車のシーンでも思いましたが、ブルームってほんと世間話が下手というか、他の人とちょっとテンポがズレていて白い目で見られるタイプの人だ。当意即妙のやり取りかめっちゃ苦手そう。いい人なんだけど、それを今ここで言う? みたいなとこありますよね……見ていてほんとヒヤヒヤする。
世の中の諍いの3割くらいは言い方やタイミングで回避できるんじゃないかと常々思ってるんですが、回避せずに戦うべきときというのも確かにあって、第十二挿話のVS市民はきっとその時だったんだろう。いつも聞こえないふり見ないふりしていたブルームが言い返すのは爽快でした。ブルーム、頑張ったなぁ、こういうの苦手だろうに。

なお今回は読書会が終わってから第十二挿話を復習していたときに、「目」にまつわる表現と、「盗み」にまつわる表現にラインをひいてみました。「目」はキュクロープスの単眼からの連想。読み返していたら冒頭でいきなり煙突掃除夫に目を狙われていたのでびっくりした。一度目はスルーしていた……。
「盗み」は権威とも関連していて、結局誰が何を盗まれて、誰が何を盗んだ(掠め取った、奪い取った)んだ? というのが気になって。市民はユダヤ人やイギリス人が加害者で、アイルランドは常に被害者みたいな言い方してますけど、そういいながらブルームを害しているし。あと「鑑札もねえ分際で」とか「ちゃんとした営業許可のある店」だとか、権威や法律を持ち出す場面がいくつかあるのが気になるんですが、これらの公的なルールは正義でも公平でもないことが多くて気になりました。法律事務所を駆け回るブリーン氏も報われないし。うーん、もう少し整理する時間がほしい。

なんせこの第十二挿話、とっても長いのです。懲りずに写経を続けているのですが、とっても分厚くなりました。
そういえば読書会前にTwitterで「両面印刷159ページ」と書いてましたが、よく見たら嘘でした…なんか盛ったみたいで恥ずかしい。159ページを両面印刷なので、枚数的には80枚ですね。でも多いな。

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第十二挿話写経、努力の結晶

なお読書会ではいつもzoomのブレークアウトルームの機能を使って希望者のみ参加のフリートーク時間があります。いつもは参加するのですが、今回に限って諸事情によりマイクが使えなかったためトーク不参加でした。でも! 絶対! フリートーク参加したほうが断然面白いです。参加しない人が共通の画面に残って話す場面がつまらないとかではなくて、だって、やっぱり読んだら話したいし、話を聞きたいと思うのだ。まだフリートーク参加したことのない方は、思い切って試しに一度入ってみることをお勧めします。巧く喋れなくても、参加した方がぐっと楽しめると、私は思います。

さて次は第十三挿話、ここからは丸谷らの鼎訳を使うことになります。すでに写経始めてますが、ルビが格段に減って文体も心なしかおとなしい印象で、柳瀬文体に慣らされた身には違和感が……しかしまぁ進めていきます。
記事冒頭のURLから読書会の参加申し込みができますので(7/31現在、まだ空席はある模様)、気になる方はぜひどうぞ。