好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

松波太郎『そこまでして覚えるようなコトバだっただろうか?』を読みました

とんでもない本を読んでしまった。『故郷』『イベリア半島に生息する生物』『あカ佐タな』『王国の行方—―二代目の手腕』の四つの作品が収められた短編集で、いずれも音としての「ことば」と、ことばを発する器官を持つ身体が異様なまでに存在感を放っている。なんていうか、全体的に、とても独特な小説でした。意識の流れ的な。物体としての圧というか、厚みと重みをもった生き物っぷりを感じる。いや紙の上に構築されたフィクションなんですけど、身体性の描写が多いためか、重量感があるのだ。



冒頭の『故郷』は、なぜモンゴルに行きたいのかを問い詰められる場面で始まる。どうやら「わたし」はモンゴルに行くために何かの申し込みをしたらしく、志望動機書を提出したようなのだが、その内容がいまひとつだったようだ。問い詰められる「わたし」は、しかしうまく説明できなくて、ただ「んー」とうなり続けるのみ。

 んー
 これ以上どう相手に説明しようか……
 んー
 これ以上どのような言葉で説明したらいいんだろうか……
 んー
 最初から言葉で説明することなんてムリだったんじゃないか……という言葉を最後のようにして、心の中でも頭の中でも何も思わなく考えなくなっていく。
 んー
 というどの母音にも属さないような音は、そのまま体の中でもどこにも属さないかのように一つ一つの境界をまたいでいく。
 んー
 少しむず痒くもなってくるくらいゆっくりとしたのんびりとした歩調でのそのそとこだましていっている……
 んー
 このままどこまで行くんだろう……
 んー
 すでに頭や心の中は通りすぎていて、目や耳や鼻はもちろん、首をこえて、胴体から四肢の方へと進んでいっているようである。(P.6-7 『故郷』)


んーんー唸っている「わたし」が抱いている志望動機と、「わたし」が説明しかねている理由は作品内で語られますのでお楽しみに。

ただこの「んー」がもつ魔力が、作品の後半になるにつれてどんどん強くなっていくのがすごいのだ。ラストのあれは、何なんだ。居心地の悪さを後ろめたく思いながら、安心できる居場所を求めて彷徨う「わたし」が最後にたどり着く故郷が……ああ……。

言葉というのはそもそも意思疎通のための道具のひとつであって、話す人・聞く人が同じルールで使うことを前提としている。そんななかで「伝わらない言葉」があるとしたら、それはもはや言葉として意味を為さないわけだけど、とはいえ言葉を使えばすべてが正しく伝わるのかというとそういうわけでもないのが言語の不完全なところだ。言葉は便利な道具だけど、過信しすぎてはいけない。万能のツールなどない。どんなに言葉を尽くしても、伝わらないものはある。言葉はあくまでも言葉であり、「それそのもの」ではない以上、言葉に変換するときに零れ落ちるものは確かにある。
しかしそれならば、逆転の発想で、別に言葉が完全に使えていなくても、伝わるものもあるのでは? 身近な例でいうとジェスチャーなんかがたぶんそれに該当するのだけれど、厳密に正しく伝えることを(もちろんそれが必要な場面もあるけど)日常会話ではそこまで求められることはむしろ少ない。なんとなくでいいんだよ。分かり合えないことを前提にしたコミュニケーションくらいが、ちょうどいい。


つまりこの本はそういう小説だったんですか? と言われると「どうだろう?」って感じなのですが、すみません、なんか、そんなことを考えました。たぶん違うように受け取る人もいる作品だと思う。なんなら読んだ人全員に私の方が感想を聞いて回りたい小説でした。松波太郎、何者なの……。



ちなみに私が一番好きだったのは二作目の『イベリア半島に生息する生物』で、これはサッカー部所属の男子高校生がスペインの田舎町に短期留学する話。中学時代はそれなりにうまかったけれど高校に入ってからのプレーがいまいちぱっとせず、やる気もなく、そんな中で試合後に声をかけられて選考を受けて合格して、スペインの田舎町に派遣されることになる。流されるように現地について、なんとなくボールを蹴って、試合っぽいことをしていたら突然身体が勝手に動き出して、練習場所の金網をぶち破り、ひたすら走りだすのだ。

 ……そう思うだろ?
 何故独り言の自分はここまで結論を急いでいるのだろうか。
 ……そう思うだろ?
 つねに体に寄り添って言葉をはっしてきた独り言である。
 ……そう思うって、言っておけ
 一個人である自分の体から離れた俯瞰した存在であろうとするこちらの自分より、現在の事態をあるいは正確に把握しているのかもしれない。(P.148 『イベリア半島に生息する生物』)


ただただ運動するだけの物体になってひたすら走り続ける(制御もできない)のは、新しい奴隷形態のようであまり自由にも見えない。人間社会のしがらみから解放された! というよりは、逃げる場所がどこにもなくなって気づいたらこんなんでした、という感じ。

 何故自分はこの物事に一日を通じて最も多くの時間をさいているのか。
 何故自分はこの物事に最も多くのお金をかけているのか。
 何故自分はこの物事を無賃でやっているのか。
 何故自分はこの物事をしているのか。
 何故自分はこの物事をはじめたのか。(P. 146 『イベリア半島に生息する生物』)


「ぼく」は漫然と続けていたサッカーに対して上のような疑問を抱き始めるのだけど、これって結局「なんで生きているのか」という問いと同義であって、答えなんて「たまたま産まれたから」としか言いようがないのだ。走り続けて四つん這いになって銃声に追われて山を駆け下りて新しく生まれなおしたとして、サイドチェンジはうまくならないんだろうな。あわあわしながら生きていくのだ。それでいいんだろう。



『あカ佐タな』『王国の行方—―二代目の手腕』も日本語の音と文字を駆使した奇妙な作品で、頭がこんがらがってくる。いつも使わない脳みそ使った気がする。ジェットコースターのように走り抜けることなどできず、つんのめりながら進む巨大迷路みたいな感じだ。読むのに体力を使う、スケール大きなアトラクションって感じでした。それでもやっぱり「それでいいんだよ」「そんなに気張るなよ」と言ってくるような雰囲気があって、ちょっと間違えたらたちまち糾弾されるような世間とはわざと少しだけ歩くリズムをずらしている印象がある。

松波太郎の作品は今回初めて読んだのですが、すごく良かった。これからも楽しみにしています。あとこの本の版元である書肆侃侃房は実にロックで素晴らしいと思います。攻めてるな! 素敵だ。