好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ジェニー・クリーマン『セックスロボットと人造肉 テクノロジーは性、食、生、死を”征服”できるか』(安藤貴子 訳)を読みました

ちょっと前に読み終わっていたんですが書く時間がなかった。2022年8月に刊行されたノンフィクションです。
著者はイギリス人女性、原題は"SEX ROBOTS & VEGAN MEAT Adventures at the Frontier of Birth, Food, Sex and Death"。
版元が双葉社なのがちょっと意外な感じなのですが、日本SF大賞を受賞した『残月記』も双葉社でしたね。

論調としては「技術的に可能だからってめちゃくちゃな勢いでいろんなことが進んでいるけど、ちょっと立ち止まって考えてみませんか?」というもので、個人的にはあまり好きではない論調なのですが、完全に同意できないからこそ読みたいもの。自分の思ってることに同意しかしてくれない本なら別に読む必要ないですもんね。
とはいえテクノロジーの進歩自体を全否定するわけではなく、一度世間に広まったものを知らなかったことにはできないことも、著者は理解している。先端科学を活用したスタートアップ企業へのインタビューが主で、世の中のためといいながら金儲けをしたいだけではないかと、技術がもたらすバラ色の未来と世界の救世主になるはずの自分を無邪気に信じる若き実業家を疑いの目でみている。いいことだけではないはずだし、何かを選ぶときは何かを切り捨てることだ。

内容は、副題にもある4つのテーマ「性、食、生、死」に分かれていました。取材に5年かけたうえ、原書の刊行が2021年なので、訳者あとがきにあるとおり現時点ではあらゆるデータが変わっているはず。
技術的に可能ならさっさと変わってしまえよ、というのが私の気持ちですが、それによって失われるものをちゃんと認識しておくことは大事だと思う。追いやる側の責任として。
しかし誰もが、何らかの形で、しあわせを願っているのだなと思いました。それが正しいかどうかは別として、みんな幸せを求めているのだ。
どうか、誰にとっても世界がもっと過ごしやすいものになりますように。

下記に各テーマについて簡単な感想を書いておきます。



PART 01 セックスの未来
最新型セックスロボットの紹介。シリコン製のめちゃくちゃリアルなセックスドールが売りのアビス・クリエーションズの工場見学から始まる。
純粋にどんなものか一度見て触れてみたいけれど、リアルなドールというハードウェアを必要とする気持ちには私には共感できない。それは生身の身体にこだわっているわけではなくて、身体などいらないのでは? という方面の考えだからだ。むしろアビスが開発している最先端ドール「ハーモニー」のAIのほうが面白そう。

 もっと極端な話をすれば、相手がセックスロボットなら、男性は完全な支配権をもつことができる。つまり、セックスロボットは、自主性のないパートナーを手に入れる機会を、それをいちばんほしがる男性に与えることになるのだ。願望や自由意志といった面倒なものをもたず、自分のほうが絶対的に優位に立つことができるパートナー。ポルノスターに似ているが、何をしてもえずきもせず嘔吐もしない、泣きもしないパートナー。一部の男性にとって、それは人間の女性のアップグレード版だろう。けしてノーと言わないセックスロボットは、そうした欲望を満たすものなのであって、欲望そのものを消し去るわけではない。(P. 86)

著者はそもそも不適切な欲望を持たないように導くべきという観点からセックスロボットは根本的な解決にはならないという。それはまぁ、そうだろう。しかし対症療法も必要であって、実際に不幸な事件が起きるよりはよほど良いとも思う。それに、著者のいう社会的に不適切な欲望はまず消えないし、特殊な性癖を持っているからといって全員が実行に移すわけではないし。すべてを解決するんです! と売り手が主張するならそれは違うだろうと思うけれど、セックスドールで解消できるものがあるなら、全然ありだと思います。そもそも、生身の人間同士で傷つけあって大人になるってプロセスって、はたして必要なんだろうか? たかが「私の心の成長」のために他者を傷つけることが許されるんだろうか。
しかしまぁ、やっぱり、セックスロボットにリアルなハードウェアが必要というのは共感できないんだよなぁ。それはもうひとつのフェティシズムだよな。


PART 02 食の未来
最近わかってきたのですが、肉食が疎まれる原因のひとつに畜産業者の悪徳ぶりへのアンチがあるそうですね。肉を食べる人間が増えすぎたために、畜産業が工業化して温室効果ガスをまき散らし気候変動を起こしている事実への反発。ヴィーガンや菜食主義の動機にもいろいろあると思いますが「動物がかわいそう」なら植物はいいのか? というのがずっと疑問だった。でも畜産業者へのボイコットという意図があるなら、理屈は理解できる。植物の収穫も工業化されてはいるけど、たぶん温室効果ガスの排出量はかなり違うだろうし。
肉は食べたいけど地球も大事だ、ということで人造肉や植物由来の肉っぽいものが話題だ。大豆ミートは何度か食べたけど、培養肉は未経験なので、そのうちどこかで食べたいと思っています。SUSHI SINGULARITY TOKYO、あのあとどうなった?

www.open-meals.com

「肉はたしかに文化的なものです。肉の魅力のひとつは――ひどく物議を醸しそうな話をしますが、肉にはそういう面もあると私は考えています――、肉を食べることの魅力のひとつは、そのために現実に動物を殺さなければならないことです」
「どういう意味でしょう? そのどこに魅力があるのですか?」
「ほかの種に対する優位性です。肉は常に、力、男らしさ、火、といったものに結びつけられてきました」
[……]
マークの話は続く。「そう考えると、実験室でも工場でも、なんのリスクもなく、動物をいっさい殺さずに作られる肉は『軟弱な肉』ということになります。感覚的にはハンバーガーではなく、ブロッコリーに近いものですね。そうした従来のカテゴライズに当てはまらない製品こそ、植物由来の食事への移行を促すものなのかもしれません」(P.222-223、太字は原文のまま)

上記は培養肉事業のキーマンであるマーク・ポストがインタビューで漏らした一言。ものすごく腑に落ちた。


PART 03 生殖の未来
妊娠ビジネスの話。社会的代理出産と人口子宮について。私は子供を産みたくない派だけど、子供が欲しい人は世の中にたくさんいることは知っている。これまでは、もし女性の身体にある子宮よりも安全で確実な人口子宮が技術的に可能になれば、胎児を体外で育てることがもっと一般的になるだろうと単純に考えていた。けど文化的な文脈でそうもいかないのかも、というのをこれを読んでいて思いました。

 体外発生は妊娠・出産がもたらす不安や痛み、リスクから女性を解放する。そのいずれも経験する必要のない男性とともに暮らし、働き、競争している女性にとって、それらが大きな負担であることはまちがいない。けれども体外発生による平等は、男性が主導権のない立場に置かれてきた唯一の領域において、女性が自分たちにだけ与えられていた力を手放すことから生じる。そういう意味では、人口子宮のメリットは女性よりも、男性にとってのほうが何倍も多いと言っていい。(P.325-326)

男女の不均衡は多くのパラメータから計測されるものであるはずで、すべてのパラメータが男性優位なわけではない。本当の意味で「男女平等」にしたいのであれば、女性優位のパラメータも均衡にすべきだろう。出産とか。女性は自分の意志だけでお腹の子供をどうにかすることが(物理的に)可能だ。赤ん坊が泣いたとき、父親ではどうにも泣き止まないのを母親が抱いたとたんに泣き止んだりしたとき「やっぱりママがいいのね」というのを、毎回納得できない思いで聞いているけれど、そういうのも均衡になるならなればいい。……と私は思っているけど、女性たちは、それを、手放せるのか? しかし女性たちがそれを手放せなかったとしたら、男性が手にしているものを手放せと要求することはできないはずなのだ。


PART 04 死の未来
合法的な安楽死について。
これについて私の立場は明快で「生まれるタイミングを選べないなら死ぬタイミングくらい選ばせてくれ」なのですが、別に合法である必要はあまり感じていない。法制化が難しいのもわかるし、近しい人の気持ちの問題もある。社会的存在として生きていると、自分ひとりの身体ではなくなってしまうから。
結婚もそうなのですが、合法的なコミットを得ることにこだわる人の気持ちが私はあまり理解できないところがある。法律なんて、別に、どうでもいいのでは……と思ってしまうのですが、そうでもないですか。合法であることは大事ですか。ビジネスにするなら大事なんだろうけども。
しかしサルコはいまいちですね。到底使ってみたいとは思わない。だいたい、確実性に欠けるのが製品として致命的だ。



以上4つのテーマの中で一番製品化が進んでいるのは「PART 03」の食についてだろう。しかしいずれのテーマも、根本的な原因は文化圏の多数の人たちの常識に依存しているので、テクノロジーが可能にするのは小手先の対症療法くらいだ。
とはいえ対症療法の薬はあるほうが絶対いいので、進めてほしいけど、本当に根本から変えていくなら社会の常識を変えなくちゃいけない。女性に選挙権があるのが当たり前になったみたいに、子供が熱を出したときに父親が休みを取って看病するのが当たり前になったみたいに。なにを当たり前にするのかを選び取っていかなくてはいけない。正義は選び取るものだ。どういう世界で生きたいかによって正しい行いは変わるものだから。
しかし誰だって、幸せになりたいんだよな。そうはいっても最大公約数だけを単純に正義にするわけにはいかない。どんなに頑張っても制度から零れ落ちる人は存在してしまう。それでも、実現不可能なユートピアだとしても、なるべくたくさんの人が幸せになれる世界がいいなぁ。