好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ねじれ双角錐群『よだつ』を読みました

nsoukakusuigun.booth.pm

2023年11月11日(土)に行われた文学フリマ東京37にて入手した、文芸同人・ねじれ双角錐群によるアンソロジー『よだつ』を読みました。

ねじれ双角錐群さんはテーマを掲げたアンソロジーをほぼ毎年刊行されていて、毎回楽しみにしています。今回のテーマは《ホラー×毛》とのことで、ブースもホラージャンルに置かれていたようです。私は開場早々は自サークルのブースにいたのですが、売り切れを恐れて仲間に頼んで買ってきてもらい無事に入手。なので直接ねじれ双角錐群さんのブースを訪ねてはいないのですが、実際に読み始めて、大事なことに気づいてしまった。

私は日本のホラーが苦手なんでした。

英国ホラーや怪奇小説の類は全然いけるんですけど、日本のホラーは生活と密着しすぎていて、めちゃくちゃ怖くてダメなんでした。読み始めて気づいた。初っ端の「えいべさん オーディオコメンタリ版」がめちゃくちゃ怖くてですね……。でも昼間の電車の中で読んでいたのでなんとか読み切った。夜の寝室で読んでたらやばかった。あと、2作目以降は方向性がちょっと違うので、日本のホラーが苦手な私でも難なく面白く読めてよかったです。

しかし毎回のことながら、表紙が良いな。今回のテーマはただの《ホラー》ではなく《ホラー×毛》というのがポイントですね。そういえば私が小学生のころ、なぜかトイレに黒々とした髪の毛の束が落ちていたことがあったな……あれ何だったんだろうな……絵に描いたようなホラーすぎて当時は深追いしなかったけども。

ちなみにねじれ双角錐群さんの過去のアンソロジーの感想は下記記事に書いています。よろしければご一緒にどうぞ。
kinokeno.hatenablog.com
kinokeno.hatenablog.com


以下、『よだつ』の各作品の感想を書いています。ネタバレは伏せていますが、未読の方はご注意ください。

続きを読む

相川英輔『黄金蝶を追って』を読みました

書店で見かけて買いました。きれいな表紙だな、というのに惹かれて手に取ったのですが、購入の決め手は裏表紙の帯です。この本に収められた短編のひとつ「ハミングバード」の書き出しが抜粋されていて、それが私の心を鷲掴みにしたのでした。

 半透明の大江さんが洗面所から出てきて、いつもと同じようにテーブルに向かう。見えない食パンにバターを塗り、見えない新聞を片手に朝食をとる。まるでパントマイムだ。私はフローリングの床に座り込み、一連の動作を眺めた。
 初めて彼が現れたのはひと月ほど前のことだ。もちろん最初は飛び上がるほど仰天したし、ひどく怯えもした。幽霊が私の部屋で日常生活を送っているのだから驚かないはずがない。しかも、その人物はここの前の所有者なのだからなおさらだ。(「ハミングバード」, P.58)

こんなの絶対好きじゃん!
著者の相川英輔という方の作品はこれまで読んだ覚えがなかったけれど、略歴で既刊を「惑星と口笛ブックス」「書肆侃侃房」「河出書房新社」から出していることを知り迷わずレジに持って行きました。この出版社のラインナップは信頼できる。

書き下ろし2編を含む計6編の短編が収められたコンパクトな文庫本ですが、満足の一冊でした。ちょうど用事があって電車で読んでいたら、目的の駅に着く数十秒前に作品を読み終えるということが2回くらい続いて運命を感じたり。
幽霊と同居する「ハミングバード」はアメリカのSF誌に翻訳が載るなど海外で高い評価を受けたということが「あとがきに代えて」に書かれていました。作家としてはちょっと珍しい経歴を持っているようですが、経歴は面白いほどよい。入り口は広いほうがいいですね。私の目を奪った美しい装丁は、今回も坂野公一さんのもの。

全体的にしっとりとした雰囲気を持ちながらも湿っぽくはなく、軽みがありながらも軽薄ではなく、落ち着いた文章だけど笑わせてもくる、みたいな、バランスの取れた文体という印象でした。作品のラストに希望を添えてくれるものが多く、読後感が良いのはこの短編集独特なのか、相川さんの作風なのか。
私たちは私たちの生活を生きていく、食べて寝て、夜が来て朝が来て、その繰り返しの中に人生がある、そんな短編集でした。好きだ。


各作品とても好みだったのでそれぞれ感想を書いておきます。ネタバレはしていないつもりですが、未読の方はご注意ください。

続きを読む

第三回かぐやSFコンテスト 最終候補作品を読みました

virtualgorillaplus.com

かぐやSFコンテストは2000字~4000字の短編小説のコンテストで、第3回のテーマは「未来のスポーツ」でした。
最終候補作品は著者名を伏せられた状態で全文公開され、読者投票による読者賞が決定されます。また審査員によって選ばれる大賞を受賞した作品は、英語と中国語に翻訳されるというのがちょっと珍しい。
かぐやSFコンテストの面白いところは「匿名で応募する」というルールがあること。

応募数は一人一作品まで、匿名で応募していただき、審査員は作品タイトルと本文のみで審査を行います(最終候補の筆者は結果と同時に発表)

あらゆるバイアスを排除して作品と向き合うため、ということで、主催のバゴプラのそういうスタイルを私は非常に好ましく思っています。好きです。

今回の読者投票期間は2023/9/19までだったので、ギリギリながら無事に投票を済ませました。私はモニターで小説が読めないタイプなので印刷できないか頑張ったのですが、どうしても広告が入り込んでしまったので断念して頑張ってスマホで読みました……。テキスト抽出しにくいほうが作品を守れたりするのだろうか。あんまり安易にコピーできてしまうと悪意のある行為が可能になるからか?

何はともあれ無事に投票を終えたものの、今回は特に迷いに迷って投票したので、各候補作について感想を書いておくことにします。
終結果が楽しみだ! 長くなるので隠しておきます。記載の順序はタイトル順です。

続きを読む

【新潮クレスト・ブックス 25周年記念】偏愛3冊紹介します

www.shinchosha.co.jp

現代の海外文学を好んで読む人にはお馴染みのレーベル、「新潮クレスト・ブックス」。今日書店に行ったら小冊子が置かれており、25周年であることを知りました。もうそんなに! この間20周年だったばかりなのに! 月日の経つのは早いものだ。

ずいぶん前の話なのでだいぶ記憶が曖昧なのですが、新潮クレスト・ブックスのことは、好きな本を持ち寄って紹介し合うタイプの読書会で初めてレーベルとして意識したのだったはず。当時はまだ現代の海外文学を読み始めたばかりで、ハードカバーの本は図書館で借りるけど書店で買うことはあまりなかった。(そんな純朴な時代が私にもあった)
「新潮クレスト・ブックスはいいぞ」と誰かに唆されて、読んでみて、ハマってしまったのだ。何よりも驚きだったのは、その本の著者がまだ生きていて、現役でバリバリ書いているということ。当時の私は海外小説の中でも19世紀~20世紀前半の小説を好んで読んでいたので、まさに生きている海外文学というのが一種のカルチャーショックだったのだ。そうか、海外文学って古典だけじゃないんだ、という至極当たり前の事実に愕然とした。目から鱗とはまさにこのこと。
現代海外文学をほとんど知らなかった私にとって、新潮クレスト・ブックスというレーベルは非常に頼りになる存在でした。私の読書の指針のひとつだったといっても過言ではない。片っ端から読み漁っているうちにちょうど白水社エクスリブリスが創刊になって、そちらも夢中で読んだけど、新潮クレスト・ブックスの財布への優しさは特にありがたかったです。あと表紙の手触りがめちゃくちゃ好みです。装丁は新潮社なんですが、表紙も素敵でお気に入り。毎回その作品にぴったりの表紙絵をつけてくる。


25周年のお祝いと感謝の気持ちを込めて、今回は新潮クレスト・ブックスの中でも特に好きな3冊を紹介します。紹介の順番は著者名順で、3冊の中に順位はありませんのでご了承ください。



ジュリアン・バーンズ『人生の段階』訳:土屋政雄

ジュリアン・バーンズは『フローベールの鸚鵡』を最初に読んで、その意味の分からなさに度肝を抜かれた。そのあと『文士厨房に入る』で普通の文章も書けることに安堵し、『終わりの感覚』が刊行される頃にはすっかりファンだったので即買った。でも一番好きな作品はこの『人生の段階』です。
作家としてのジュリアン・バーンズを支えるエージェントでもあった最愛の妻がこの世を去って、悲しみに暮れる日々を書いたもの。著者自身の感情の吐露でありながら、気球の歴史やナダールとサラ・ベルナールのエピソードなどを盛り込み、作品として仕上げているのがさすがだ。しかし、どれだけのエネルギーが必要だったのだろうか。行間に、段落の変わり目に、彼の悲しみが塗りこめられているようだ。
土屋政雄訳であることがまた作品の雰囲気に実に合っているのだ。冷静でありながら情感あふれる文章が好きです。
なおジュリアン・バーンズは『人生の段階』以後も何冊か本を出しているけれど、まだ訳されてはいないようですね。待ってます。



セス・フリード『大いなる不満』訳:藤井光

何かあるたびにおすすめしまくっている一冊。初めて買った新潮クレスト・ブックスでもある。当時は藤井光訳の小説を読み漁っていて(ドーアとか、プラセンシアとか)その中の一冊としてこれを読んだのだったはず。
エデンの園であらゆる生物が互いに争うことなくただじっと時間が過ぎていく表題作「大いなる不満」をはじめ、毎年大虐殺が起きるにもかかわらず大盛況のピクニックを描く「フロスト・マウンテン・ピクニックの虐殺」、架空の微生物の生態を記した「微生物集—若き科学者のための新種生物案内」などが収められた短編集。
日常の中の異物を拡大して目立つように陳列したような感じ。ちょっとした違和感を増幅するとこんな感じなんだな。めちゃくちゃ好きな作品群なのですが、短編メインの作家であり邦訳はこの一冊のみ、英語でも他に一冊のみ。バベルうおの『BABELZINE Vol.2』に短編がひとつ掲載されて狂喜したけど、寡作にもほどがある……。
しかし何度読み返しても面白く、10年近く経っても古びてないのですごい。これからも推していきます。



テジュ・コール『オープン・シティ』訳:小磯洋光

若き精神科医が黄昏時にニューヨークの街を歩きながらいろんなことを回想する話。記憶というのがいかにあてにならないかという話であり、散歩は全人類に必要な行為だという話でもある、と思う。私自身がむしゃくしゃするととにかく歩くタイプなので特にそう思うのだけれど、移動を第一目的とせずに歩くのは最高の贅沢であり、精神安定にも良いです。普段は目に入らないものが見えたりするのが楽しいし、考え事をするにもじっとしているよりも歩いているほうがいいようです。
著者はナイジェリア系で、主人公もそうだ。私が「アフリカ系アメリカ人」と呼ばれる人の微妙な立場を明確に意識したのは、恥ずかしながら、確かこの作品が初めてだったはず。
ちなみに帯や裏表紙に「ゼーバルトの再来」と思いっきり書かれているのですが、この本を最初に読んだときの私はまだゼーバルトに出会っておらず、その意味がわかっていなかった。今ならわかる、どちらも好きだから。今調べたら、2023年10月に新刊を出すようですね。訳されるかな……?


上記以外にも好きな作品はいくつもあるのですが、機会があればまた今度。
実は最近は新潮クレスト・ブックスから少し遠ざかっていたのですが、小冊子で読みたい本がいくつも見つかってしまった。書店に行くたびに新刊チェックはずっとしていたのだけれど、追いついていないなぁ。
これからも活きのいい海外文学を届けてくれること、楽しみにしています。25周年おめでとうございます!

ハーマン・メルヴィル『白鯨』(千石英世 訳)を読みました

海に行くときはいつも水夫として海に行く。(上巻、P.65)


もうずいぶんと長いこと積んでいたメルヴィルの『白鯨』を、2023年夏、ついに読了しました。
岩波文庫からも出ているけれど、私が読んだのは講談社文芸文庫から出ている千石英世訳。誰の訳で読むかについて特に深い意図があったわけではなく、比較的新しい訳だったのと、2冊で収まるのが気に入ったのでこの結果となりました。あと単純にレーベルが好きというのもある。講談社文芸文庫は裏切らない。

正直最近は、長編小説をあまり読まなくなってしまった。読み始めてしまえば割とすいすい読めるのだが、読み始めるまでが長いのだ。とくに日々の雑務に追われていたりすると、つい短編小説でお茶を濁したくなる。大人になるほど、物語世界に耽溺するのが難しくなってしまったようだ。
しかし! 長期の旅行は絶好の読書タイムである。3日程度の旅程なら分厚い文庫1冊程度がちょうどいい。だが今年、私には約一週間の夏休みがあった。訳あって、それは船旅だった。これこそ『白鯨』を読む最適の環境なのでは?


結論から言うと、あんまり頑張って文字を追うと酔うことがあるので、船の上は「『白鯨』を読む最適の環境」ではなかったです。でもやっぱり海を見ながら読む『白鯨』は最高でした。さらに『白鯨』は、私にとって非常に好みの小説でした。読めてよかった。
あらすじなどほとんど知らないままに読んでいたのですが(いずれ読むつもりだったのでこれまでネタバレを避けてきた)、世間で言われているような読みにくさはほとんど感じませんでした。私が話がわき道にそれるのを大歓迎する読者であることも原因かとは思うけど、それよりも大きいのは訳文の良さのおかげかもしれない。だって文章が最高に格好いいのだ。
冒頭の「鯨という語の語源」「鯨という語を含む名文抄」が数十ページ続いたときは確かに何だこれと思ったものですが、いざイシュメールが現れて、「きみ」などと親しげに読者に呼びかけ、共に海を目指そうと促してくると、小説世界の空気ががらりと変わった。

口のあたりに不機嫌がつのり、冷えびえとした十一月の雨が心のなかに降りしきるとき、また、街の棺桶屋のまえを通り過ぎようとして、我知らず脚が止まるとき、あるいはときにそのまま葬儀がはじまり、葬送の行列がゆっくりとうごきだすにつれ、きまって葬列の最後にとりついてとぼとぼと歩きはじめる人がいると気づくとき、そしてその人が自分自身であると気づくとき、さらには、憂鬱が嵩じる余り、ついに自己抑制の心の努力もむなしくなって、人の頭に乗っている帽子はすべて巧みに叩き落されねばならぬとの思いに深くとらわれ、そっと街へさまよい出てはその狙いを定めるとき、そんなとき、そんなときこそは、すみやかに海に行かねばならない。それがおれにとっての拳銃と実弾のかわりなのだ。(上巻、P57-58)

そうとも、すみやかに海に行かねばならない! 多少話がわき道に逸れたって全然構わなかった。なかなか海には着かないし、なかなか船にも乗れなかったし、船に乗ったら乗ったで鯨のさばき方とか懇切丁寧に解説してくれるし、だけどそれらも含めてずっと面白かった。この面白さはなんだろうな。海のロマンか。

だいたい鯨というのはロマンにあふれた動物である。大きくて強い。海というのも文学に似合いの舞台である。何かが始まりそうな気配たっぷりの船出は次の目的地にたどり着くまで進むしかない過酷さと背中合わせで、嵐に遭って船の制御を失えば神に祈るしかない。『白鯨』で語り手イシュメールは捕鯨船に乗り込むわけだけど、その捕鯨船のエイハブ船長は鯨による利益など二の次で、自らの脚を奪った悪名高き巨鯨「モービィ・ディック」をこの手で殺すことしか考えていない。

エイハブ船長! あなたが! お噂はかねがね! という感じでしたが、思った以上に復讐の鬼でした。たかが脚の一本くらいくれてやれよ、と思うんですが、執拗に白鯨をつけ狙う。どう考えてもエイハブのほうが悪役である。モービィ・ディックは自らの身体と群れを守っただけで、勝手に海に乗り出して鯨を追い回しているのは人間の方だ。


しかし『白鯨』の文章は軒並み格好いいな。読み返すたびに惚れ惚れする。
私は理屈っぽい人間なので第89章「仕留め鯨、はなれ鯨」のような社会派文章はかなり好きです。わかりやすいし、汎用性がある。

 一、仕留め鯨はそれをつないだものに属す。
 二、はなれ鯨になっている鯨は、だれであれ真っ先にそれを入手したものの正当な漁獲となる。(下巻、P.272)

聖書は旧約聖書ネタ出されるとちょっとついていけないところがあるのですが、繰り返されるヨブ記のエピソードなども深読みしがいがありそうで好ましい。おそらく『白鯨』の人気のひとつが、深読みできるキーワードがそこかしこに散りばめられているところでしょう。どちらかというとこの辺は詳しい方の解説とともに楽しみたい部分。第42章「白い鯨の白さについて」とか。なぜ白鯨は白いのか。あとピップはこの小説において何者なのか、とか。

白鯨に関して特におれが戦慄を覚えるのは、その鯨が白いということ。(上巻、P.454)

でも第32章「鯨学」のようなのも私は好きなのだ。舌先三寸で勢いつけて丸め込もうとする気配が良い。翻訳大変だっただろうなぁ。これは、挿絵が欲しいぞ。

鯨とは、潮噴く魚にして水平の尾を持つもの。(上巻、P.333)

そんなこんなで『白鯨』は、いろんな要素をたっぷり詰め込んだ大長編小説でした。読み終わりはしたけれど、まだ一周しかしてないな、という気持ち。これは何回か繰り返し読んで、論文なんかとあわせてじっくり楽しみたい小説だ。登場人物ごとに焦点を当てるのも楽しいだろうし(謎めいたマン島の老人とか)、捕鯨船の模型と照らし合わせるのもよし。次に読むのは旧約聖書を読んでからかな。


以降、私が『白鯨』で一番好きだった場面について書きます。しかし小説のラストに触れているので、一応隠しておきますね。未読の方はご注意ください。

続きを読む

文芸雑誌『代わりに読む人1 創刊号 特集:矛盾』を読みました

[......] 本誌では、この活動の延長として、読む/書く人々の試行錯誤の場となる「公園」を目指します。文芸雑誌と謳っていますが、それは専ら文芸に携わる者だけのものではありません。分野が異なれば見えている景色も、また使う言葉やその使い方も違います。思いもよらない異界や人々との出会いが生まれるように、様々な分野で活動する人々にそれぞれの視点で、エッセイ、小説、漫画などを綴ってもらいます。(P.2, 巻頭言)

年に一号ずつ発行される予定のちょっと風変わりな文芸雑誌、『代わりに読む人』。実は昨年2022年、創刊準備号として「準備」をテーマに発行されている。そのため、本書は創刊号ですが2冊目である。その辺の経緯はぜひ直接『代わりに読む人 創刊準備号』をお読みください。
2022年は自分史上最高に忙しかった年なので若干記憶が曖昧なのですが、『代わりに読む人』は確かTwitterで情報が流れてきたはず。どこの本屋にもあるという雑誌でもないので、確か青山ブックセンターあたりで買ったはず。非常に私の好みに合った雑誌であり、私はそこで初めて後藤明生を知ったのでした。
しかし創刊準備号の感想、てっきりブログに書いていたと思っていたのですが、見当たらないですね……おかしいな……。


記事冒頭のリンクはAmazonに飛ばされてしまうのですが、公式HPの方が情報が充実しているので、そちらも貼っておきますね。

www.kawariniyomuhito.com

『代わりに読む人』という雑誌は、なんかすごく「新しいことしようとしてる」感がひしひしと感じられるところが非常に好きです。文学の幅を広げようとしてくれている。文字でできることなんでもやりますって感じ。いいぞいいぞ。ページのレイアウトが自由なのも好き。余白を広く取ったり、二段組にしたり、見ていて楽しい。
どうか、これまで見たことのないものを見せてほしい。世界のどこにもないものを作ってほしい。やってみたらイマイチかもしれないけど、やってみてほしい。必ず評価されるもの、わかりやすく整理されているものだけじゃ物足りないのだ。こうすればうまくいきますメソッドばかり繰り返していたら瘦せ細るばかりだ。もっとギリギリをみせてよ。

私が知っている限り、『代わりに読む人』は、公園なんてのどかな仮面をかぶっているけれど、文字文学のギリギリを狙った実にロックな雑誌です。非常に好きです。

以下、各作品ごとの感想です。長くなってしまったので畳んでおきます。次号も楽しみにしております!次のテーマは何かな。

続きを読む

松波太郎『そこまでして覚えるようなコトバだっただろうか?』を読みました

とんでもない本を読んでしまった。『故郷』『イベリア半島に生息する生物』『あカ佐タな』『王国の行方—―二代目の手腕』の四つの作品が収められた短編集で、いずれも音としての「ことば」と、ことばを発する器官を持つ身体が異様なまでに存在感を放っている。なんていうか、全体的に、とても独特な小説でした。意識の流れ的な。物体としての圧というか、厚みと重みをもった生き物っぷりを感じる。いや紙の上に構築されたフィクションなんですけど、身体性の描写が多いためか、重量感があるのだ。



冒頭の『故郷』は、なぜモンゴルに行きたいのかを問い詰められる場面で始まる。どうやら「わたし」はモンゴルに行くために何かの申し込みをしたらしく、志望動機書を提出したようなのだが、その内容がいまひとつだったようだ。問い詰められる「わたし」は、しかしうまく説明できなくて、ただ「んー」とうなり続けるのみ。

 んー
 これ以上どう相手に説明しようか……
 んー
 これ以上どのような言葉で説明したらいいんだろうか……
 んー
 最初から言葉で説明することなんてムリだったんじゃないか……という言葉を最後のようにして、心の中でも頭の中でも何も思わなく考えなくなっていく。
 んー
 というどの母音にも属さないような音は、そのまま体の中でもどこにも属さないかのように一つ一つの境界をまたいでいく。
 んー
 少しむず痒くもなってくるくらいゆっくりとしたのんびりとした歩調でのそのそとこだましていっている……
 んー
 このままどこまで行くんだろう……
 んー
 すでに頭や心の中は通りすぎていて、目や耳や鼻はもちろん、首をこえて、胴体から四肢の方へと進んでいっているようである。(P.6-7 『故郷』)


んーんー唸っている「わたし」が抱いている志望動機と、「わたし」が説明しかねている理由は作品内で語られますのでお楽しみに。

ただこの「んー」がもつ魔力が、作品の後半になるにつれてどんどん強くなっていくのがすごいのだ。ラストのあれは、何なんだ。居心地の悪さを後ろめたく思いながら、安心できる居場所を求めて彷徨う「わたし」が最後にたどり着く故郷が……ああ……。

言葉というのはそもそも意思疎通のための道具のひとつであって、話す人・聞く人が同じルールで使うことを前提としている。そんななかで「伝わらない言葉」があるとしたら、それはもはや言葉として意味を為さないわけだけど、とはいえ言葉を使えばすべてが正しく伝わるのかというとそういうわけでもないのが言語の不完全なところだ。言葉は便利な道具だけど、過信しすぎてはいけない。万能のツールなどない。どんなに言葉を尽くしても、伝わらないものはある。言葉はあくまでも言葉であり、「それそのもの」ではない以上、言葉に変換するときに零れ落ちるものは確かにある。
しかしそれならば、逆転の発想で、別に言葉が完全に使えていなくても、伝わるものもあるのでは? 身近な例でいうとジェスチャーなんかがたぶんそれに該当するのだけれど、厳密に正しく伝えることを(もちろんそれが必要な場面もあるけど)日常会話ではそこまで求められることはむしろ少ない。なんとなくでいいんだよ。分かり合えないことを前提にしたコミュニケーションくらいが、ちょうどいい。


つまりこの本はそういう小説だったんですか? と言われると「どうだろう?」って感じなのですが、すみません、なんか、そんなことを考えました。たぶん違うように受け取る人もいる作品だと思う。なんなら読んだ人全員に私の方が感想を聞いて回りたい小説でした。松波太郎、何者なの……。



ちなみに私が一番好きだったのは二作目の『イベリア半島に生息する生物』で、これはサッカー部所属の男子高校生がスペインの田舎町に短期留学する話。中学時代はそれなりにうまかったけれど高校に入ってからのプレーがいまいちぱっとせず、やる気もなく、そんな中で試合後に声をかけられて選考を受けて合格して、スペインの田舎町に派遣されることになる。流されるように現地について、なんとなくボールを蹴って、試合っぽいことをしていたら突然身体が勝手に動き出して、練習場所の金網をぶち破り、ひたすら走りだすのだ。

 ……そう思うだろ?
 何故独り言の自分はここまで結論を急いでいるのだろうか。
 ……そう思うだろ?
 つねに体に寄り添って言葉をはっしてきた独り言である。
 ……そう思うって、言っておけ
 一個人である自分の体から離れた俯瞰した存在であろうとするこちらの自分より、現在の事態をあるいは正確に把握しているのかもしれない。(P.148 『イベリア半島に生息する生物』)


ただただ運動するだけの物体になってひたすら走り続ける(制御もできない)のは、新しい奴隷形態のようであまり自由にも見えない。人間社会のしがらみから解放された! というよりは、逃げる場所がどこにもなくなって気づいたらこんなんでした、という感じ。

 何故自分はこの物事に一日を通じて最も多くの時間をさいているのか。
 何故自分はこの物事に最も多くのお金をかけているのか。
 何故自分はこの物事を無賃でやっているのか。
 何故自分はこの物事をしているのか。
 何故自分はこの物事をはじめたのか。(P. 146 『イベリア半島に生息する生物』)


「ぼく」は漫然と続けていたサッカーに対して上のような疑問を抱き始めるのだけど、これって結局「なんで生きているのか」という問いと同義であって、答えなんて「たまたま産まれたから」としか言いようがないのだ。走り続けて四つん這いになって銃声に追われて山を駆け下りて新しく生まれなおしたとして、サイドチェンジはうまくならないんだろうな。あわあわしながら生きていくのだ。それでいいんだろう。



『あカ佐タな』『王国の行方—―二代目の手腕』も日本語の音と文字を駆使した奇妙な作品で、頭がこんがらがってくる。いつも使わない脳みそ使った気がする。ジェットコースターのように走り抜けることなどできず、つんのめりながら進む巨大迷路みたいな感じだ。読むのに体力を使う、スケール大きなアトラクションって感じでした。それでもやっぱり「それでいいんだよ」「そんなに気張るなよ」と言ってくるような雰囲気があって、ちょっと間違えたらたちまち糾弾されるような世間とはわざと少しだけ歩くリズムをずらしている印象がある。

松波太郎の作品は今回初めて読んだのですが、すごく良かった。これからも楽しみにしています。あとこの本の版元である書肆侃侃房は実にロックで素晴らしいと思います。攻めてるな! 素敵だ。