新宿紀伊國屋書店でたまたま見つけて読んだ本ですが、非常に良かった。私が今すごく読みたい内容の本だったので、なるべく積まずに読み始めました。四つの章に分かれていて、週末に一章ずつ読み進めて一カ月で読み終わった。
内容はタイトルの通りで、人種差別がどのような習慣的な行為として日常の中に表出しているのかを考察したものですが、特徴的なのは著者がオーストラリア育ちの中国系ベトナム人であることで、差別される経験を持つ人であること。論の進め方については目次見ていただいたほうがわかりやすいと思うので、青土社のサイトに記載があったものを載せておきます。
序論
第一章 人種差別の習慣――身体的な仕草、知覚、方向づけ
第一節 習慣と習慣的身体
第二節 習慣は社会的でありうるのか
第三節 習慣的で身体的な仕草や知覚のなかの人種差別
第四節 習慣的な人種差別と責任第二章 人種差別と人種化される身体性の生きられた経験
第一節 人種差別と人種化の身体的な経験
第二節 白人の身体性と存在論的な拡張性第三章 不気味さ――人種化された居心地悪い身体
第一節 不気味さ(Unheimlichkeit)と人種化された身体
第二節 家の多孔性、身体の多孔性
第三節 家は必要なのか第四章 人種差別のまなざし――サルトルの対象存在とメルロ=ポンティの絡み合いとの間で
第一節 対他的身体、対象性、人種差別のまなざし
第二節 まなざし–対象の存在論を複雑化すること――目を向けることの様相、見られている自分自身を見るこ と、そして身体の両義性
第三節 メルロ=ポンティの絡み合いと、人種化された身体性における主体–客体の溶解
結論
私は第三章を特に興味深く読みました。
現象学としてのアプローチはメルロ=ポンティの『知覚の現象学』を下敷きにしているけれど、必要に応じて引用してくれているので未読でも大丈夫です(私も未読だった)。人種差別の事例については過去に報道されたニュースやアジア人女性として生きている著者自身の体験談のほか、ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』からの引用が多数あります。
私の探求の指針となるのは、次の二つの主要な問いである。第一に、現象学の諸分析はどのようにして人種差別的慣習の新たな領域や様態を見分けるのに役立つのか。ここで私が依拠するのは、フランスの現象学者モーリス・メルロ=ポンティが残した方策であり、習慣的な身体についての彼の考え方は、人種差別のより繊細で基本的な働きのいくつかに向かう道を切り拓くものだということを論じる。第二の問いは、人種差別と人種化の身体的経験とはどのようなものであるか、そしてそれは、身体的な存在である――それに伴って社会的に状況づけられた存在である――という私たちの本性について何を教えてくれるのか、というものだ。(P.14)
印象に残った論点はいくつもあるのですが、全部書いているとキリがないので、特に気になった点をいくつか書いておきます。
まずいいなと思ったのは、人種差別という事象を「そういう時代の教育を受けたからね」と環境のせいにしたり「そういうつもりじゃないんだけど」と悪意がないのを言い訳にしたりすることに対して、明確なNOを伝えているところ。今まではそうだったかもしれない、そういう環境で育ってそういう先入観を持って生きてきたかもしれない、でもこれからどうするかはあなた自身の責任で振舞うことができるんですよ、というメッセージ。
しかし、私の主張は、自分の状況に対する責任だけでなく、とりわけ人が能動的な意味で習慣を保持し、そのような習慣が他者を人種として対象化し、危害を加え、抑圧している点で、その人は自身の身体的な習慣に対しても責任を持つことができ、また持つべきである、というものなのだ。(P.102)
これはただ相手を責めているわけではなくて、諦めるなということだと捉えたい。
私自身は基本的に「罪を憎んで人を憎まず」スタイルなのですが、上記主張と共存することはできると思っている。確かにあなたは(そして私も)人種差別を容認する社会に生きてきて、そういう価値観でこれまで生きてきた、それは事実。とはいえその状況に自覚的であれば、自らの価値観をちょっとずつでも変えていくことができるんではないか? 差別は悪いことだと頭の片隅で分かっていながら、何もしないでいるのは、それは環境のせいではなくてあなた(そして私)の責任なのではないか?
人種差別をされる側の人たちは、一種の諦めとともに、差別社会を生き抜くための対策を日常的に講じている。
私たちは誰もが就職面接や銀行口座開設時の面接では、要するにイベントや特別な機会には、普段とは異なる仕方で振る舞う。これに対して、人種化された身体の場合、この種の作業は、公園を散歩したり街を歩いたり毎週の買い物をしたりといった特別でないことの間もなされている。(P.125)
居心地の悪い教室でなるべく目立たないようにやり過ごそうとするように、変なトラブルに発展しないような行動(ヴィヴァルディを口笛で吹く、猫背で歩くなど)をあらかじめ実施する必要がある生活があるのだ。くつろぐことなどできず、臨戦態勢が日常である生活があるのだ。
誰かの不快な気持ちの上に成り立つ幸福はすべて幻想だし、誰かが我慢することで成り立つ生活はどんなに快適でも拒否すべきだと思っている。精神的な賄賂は世間に溢れていて、良かれと思って便宜を図ってくれることを精査するのはいつも難しい。難しいけれど、面倒くさがって何もしないのは罪の片棒を担ぐことになる。差別する側の人間は、大抵気づかない(見なかったことにしたりもする)。
トラブルを防ぐための振る舞いが不条理なものだと思ったとしても、それをしないことによる時間のロスなどを考えると、まぁいいやと思うこともあるだろう。人生は短いので、そういうことに費やす時間などないのだ。
そして何も変わらない。
どうして人種で人を差別することが悪いことなのか、という問いは、なぜ人を殺してはいけないのかという問いと同じ種類のもので、どんなに不快でも繰り返し答えていかなくてはならないものだ。そう決まっているからだとか、それが悪だからとか、そういう曖昧な回答では抜け道が発生してしまう。
誰だって、自分にとって都合のいい現実が嬉しいし、自分の気持ちを正当化してくれるものがあれば依存したくなるものだ。それは、そういうものだ。だから、そっちに行かないように、ちゃんと理論で根気よく説明する必要がある。
本書では人種差別が悪である理由について、現象学的な見地から以下のように書かれていた。
人種差別は、私たちの主体-とー対象という必然的に乱雑で両義的な本性にもかかわらず、私たちを主体-対象の存在論のモデルへと押しやり、一つの世界を(白人の)主体と(人種化された)対象へと分裂させようとする。そうすることによって、人種差別は、二元論的な世界、つまり文字通りの、そして比喩的な黒(人)と白(人)の世界を代わりに作り出し、身体化された存在の流動性と両義性を消し去ってしまう恐れがある。(P.318)
通常の対等な関係であれば状況によって「主体(見る)/対象(見られる)」は相互に入れ替わることがありうるけれど、人種差別が起きている状態では対象は常に対象であって、主体となることが許されないということだ。これは、人種差別が悪であるという客観的な理由のひとつとして十分なものだと思う。
とはいえ、悪いかどうかっていえば悪いのだというのは本当は分かっている人はかなりたくさんいて、何か別の理由があって見ないふりしたいのではないかというのが最近の私の考えである。正義を訴えても状況が変わらないのは、たぶん正義以外にそうしたい理由があるからで、なら相手に合わせた観点で相手が不当な行為をやめようと思えるようなアプローチする必要があるのではないか。とはいえそれは、本書とは関係のない話。
本書では人種差別が外見的特徴(白人と、それ以外)で差別対象かどうかを判断する状況を前提としている。そのとき、差別する側からされる側へのまなざしには暴力性が潜んでいて、相手を差別される側の人種に規定したその瞬間から、相手に分相応な態度を要求することになる。そこから逸脱する存在を認めることはない。
人種化するまなざしは、その根底にある、自分の認識や観点が権限を持つという感覚を表現している。(P.270)
裏を返せば、まなざしには大なり小なり権力が潜んでいることを自覚すべきということでもあるだろう。実際に権力を持って相手を見つめることもある(審査とか面接とか)けれど、友人との会話や電車でどこの席に座るか決めるときの0.1秒程度の一瞥にも、何らかの力場は存在する。権力っていうと悪いイメージだけれど、常に悪というわけではないだろう。ただ、固定化してしまうのは不健全だというのは、よくわかる。
本書で書かれている差別は人種差別にフォーカスされているけれど、同じようなフレームワークを使って、異なる問題を分析することも可能だと思う。世界があまりにもくつろげる場所になることの危険性などは最近のインターネットにも言えることだと思うし。
私は日本国内ならわりと強い立場にいる人間だという自覚はある。それはつまり他者の人権を侵害する危険性も高いということだ。たぶん気を付けたって過失は犯してしまうし、そもそも私は他人の心の動きに気を配れるタイプではない(人付き合いは恐ろしい)。だからといって、しょうがないよねで諦めるのも癪だし、相手を嫌な気持ちにさせてしまうことが一回でも減らせればいいなと思っています。
なのでこの本が読めたのはとてもよかった。翻訳して刊行していただいて、ありがとうございました。