好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

現代思想 2020年10月臨時増刊号『総特集 ブラック・ライヴズ・マター』を読みました

2020年10月に臨時増刊号として店頭に並んだ現代思想の「ブラック・ライヴズ・マター」特集。装幀が格好いいなと思ったら、川名潤さんのお仕事でした。
これ、ちゃんと去年のうちに買ってはいたんですけど、ずっと手に取れませんでした。絶対しんどいだろうなと思って勇気が出なかった。ようやく先月くらいから読み始めて、今月読み終えた次第。見て見ぬふりをしているほうが心穏やかに生きられるところを容赦なく突いて来るのでとっても辛くて、インタビューや寄稿を一日一本ずつ読み進めていました。でも5月25日までには読み終えたいと思っていて、それは果たせた。

掲載されている論文の一覧については、下記URLからご確認いただけます。全部でざっと43本ほど。

www.seidosha.co.jp

正直に申し上げますと、私はこの雑誌を買った当時、2020年のブラック・ライヴズ・マター(以下、BLM)運動が具体的に何を要求するものなのかを全く理解していない状態でした。私にはあまり関係のない話だと思っていたし。そして、あまり親しい立場にない人間が拳を振り上げるのって、義憤に駆られるというアトラクションを楽しんでいるように思えて気が引けるので、特に何のアクションもしなかった。ただナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーの『フライデー・ブラック』が凄く良かったのもあって、理解したいという気持ちはずっとあった。なので、現代思想で特集を組んでくれたときには迷わず買いました。

2020年のBLM運動は、5月25日に起きたジョージ・フロイド事件がきっかけとなって起きたものです。被害者の黒人男性フロイドは、偽札使用の疑いで呼び出された警察官に頸部を圧迫されて殺害された。その映像がSNSで拡散されて、世界的な抗議運動になった。
私が認識していたのはせいぜいこのくらいだった。BLM運動が警察の予算削減を訴えるものであることも、パンサー党のことも、BLMというスローガンがいつからあるのかも、クィアフェミニズムの運動と深いつながりがあることも、今回の特集を読んで初めて知りました。あまりに何も知らなさ過ぎたので毎日論文や寄稿を読むたびにいろいろ衝撃を受けては落ち込んでいた。知らなかったことに落ち込んでいたのではなく、これまで見ていなかった、目を逸らしてきた、というのを自覚せざるを得なかったからです。心の底ではちゃんと自覚していたことではあるけど、まぁ、へこむよね。

なのでどれも興味深く読んだのですが、特に印象的だったものをいくつか紹介しておきます。


■川坂和義「全ての人が自由になるまで誰も自由にはなれない――クィア・ムーブメントと人種とジェンダーセクシュアリティの交差」

BLMとクィア・アクティビズムは、別々の運動と見られることも少なくないが、差異よりもむしろ共通点の方が多い。二〇一四年からのBLMの主催者である三人の女性のうち、二人がクィアというアイデンティティを表明している。(中略)だが、一方で双方の共通点を消去する作用も働き続けている。LGBTの運動が主流化していくなかで、人種問題や経済的平等をめぐる問題は優先課題とされてこなかった。BLMの報道に関しても、ジェンダーセクシュアリティの要素が消去されることが多い。(P.58)

ジェンダーセクシュアリティLGBTの問題がBLM運動とどう関わっているかを論じた寄稿。黒人もトランスジェンダーも、社会構造的に取りこぼされやすい立場であること、黒人のトランスジェンダーはさらにその確率が高くなること。
ちなみにこの論文は、フェミニズムとBLM運動の関係を論じた新田啓子の「未踏のホームへ(P.48)」の次に掲載されていて、一連の流れに乗って読めるのも良い。公民権運動で置き去りにされた女性がブラック・フェミニズムを主導した歴史を読んだうえで、ではクィアは? と、文章に入りやすくなっています。


■兼子歩「アメリカの警察暴力と人種・階級・男性性の矛盾」

その結果、警察的男性性は、対決しねじ伏せるべき対象たる危険な男性性を求めつつ、男性性のコンテストに敗北する可能性を過剰なまでに恐れ、対峙した男性性を誇大化して認識するという矛盾を招くことになる。そしてここに人種化された警察暴力が発動する契機がある。この危険な男性性の体現者として選ばれるのが、主に黒人男性だからである。(P.77)

BLMが予算削減を求めるアメリカ警察がどのような経緯で成立したか、そしてアメリカ警察社会の文化風土とはどのようなものかを論じたもの。非常に興味深く読みました。いわゆる「男の世界」というやつ、心地よい人には心地よい、あの独特の雰囲気。そこで女性や非白人はどのような振る舞いをしやすくなるのか。
「郷に入っては郷に従え」という言葉の功罪を考えざるを得ない。でも既存のルールで動いた方が話が早いっていう理屈はわかる。たとえば企業風土、ここではこういう振る舞いをすると評価が上がるよ、といわれたら、じゃあそういう風にしようかなと思うのはよくあることだ。それが譲れない何かとバッティングしなければ、まぁそれくらいならって譲って、その一歩が二歩になり三歩になり、最初がどうだったかわからなくなったりして。でも別に、一つ一つはいちいち戦うほどの事でもないし、でも「ちりつも」で身動きとれないような状況になったりして。
風土を変えるって、ものすごく難しいことなんですよね。その組織が成立した歴史とか、これまでの経緯とか全部積みあがっての「今」だから、それはおかしいって言われたらこれまでのことが全部間違いだったみたいな気にもなってしまうし。もうそういう時代でもないんだよって、頭で分っていても感覚がついて行かないこともある。
ノアの洪水みたいに、一度全部まっさらにした方がいいんだろうか?


■南川文里「制度から考える反人種主義――制度的人種主義批判の射程」

制度的人種主義は、「台本」と「経路」によって無意識の選択が連鎖する状況を、「当たり前」と受け止めるような態度として形作られる。「台本」と「経路」の相互作用は、一見「合理的な」基準によって不可視化され、人種集団のメンバー以外に意識されることは少ない。(P.93)

特定の集団を社会構造の周縁に押し込めて、そこから出ることが困難な状態に固定しておくこと。ディストピア小説なんかでは誰の目にもおかしい世界として描かれることがあるけど、小説の人物たちも大方そうであるように、実際にその社会の中にいると、それが異常かどうかの判断が難しくなる。だから制度的人種主義はなかなかに難しい。
まずは観測して、数値として提示することでおかしな状態であることを共通認識とする必要がある。おかしいね、という認識が共有できたら、それを改善していく。思考停止をせずに、ブラックボックス化させずに実践していくことが大事だと書かれている。そうなんだろうな。確実に物事を進めるには、足元を固めておくべきなんだろう。既存の制度で不利益を被っていない人を説得するのは難しいだろうけど、数字があれば後押しになる。
それでもやっぱり「道がないわけじゃないんだから、本人の努力が足りないんだろう」という意見もあるんだろうな。常識は一夜で変わらないものな。手放す勇気が必要だ。
労働者階級に生れたエリボンが『ランスへの帰郷』で似たようなことを書いていたのを思い出した。


■土屋和代「刑罰国家と「福祉」の解体――「投資‐脱投資」が問うもの」

ブラック・ライヴズ・マター(BLM)運動は「投資ー脱投資(invest-divest、警察・刑務所・刑事司法制度の予算を削減/脱投資し、教育・雇用・住宅・医療・コミュニティに暮らす人びとのために投資する)」というスローガンを掲げる。BLM運動の共同創設者の一人P・カラーズは、我々に必要なのは「公共の安全性」についての定義を変えることだと語る。「警察力」ではなく人びとの命を支えるコミュニティでの営みこそが安全をもたらすのだと。(P.124)

BLM運動が警察や司法について「予算削減」を求めていることを本書で初めて知ったので、かなり衝撃でした。そんなのありか! というか、そこまで言われるほどの状態なのか! でも日本はそんなことないもんね、なんてちょっと軽々しく口にするのは憚られる。私自身については日本ではマジョリティなので、職質されたことも嫌がらせめいたことされたこともないけど、それは私個人の話でしかない。
アメリカと日本の警察組織をそのまま比較するのもおかしな話ではあるのでそこは置いておくとして、しかし、刑事司法制度を抜本的に見直すことを求めるっていうのは驚きでした。革命的だ。なんていうか、私はこれまで随分小さなスケールで物を見ていたものだな。
この論文以外でも警察権力の解体について触れた文章はいくつかあるのですが、警察という組織そのものをなくす可能性について言及したものもあって、非常に面白く読みました。そういう発想も、そうだよな、アリだよな。そんなこと考えたこともなかった自分に、大いに反省した。


■ジョン・G・ラッセル「黒人の「日本人問題」」

差別する側は差別が存在している現実をできる限り否認したがる。これは、日本人に限ったことではないが、日本では多くの人が人種差別を欧米の問題であり、他人ごとと考える傾向がある。例えば、日本人は人種差別を「アメリカ病」とみる傾向があり、その証拠は日本に黒人奴隷制や人種隔離政策がなかったからだという。しかし、この見解は日本における黒人差別の真実の歴史を無視している。日本にも人種差別が存在し黒人に対する偏見と差別の歴史が長い。(P.160)

日本における黒人差別を、例をあげて論じた文章。おっしゃる通りって感じで、とてもつらい。

ちなみに私が最近困っているのが、では差別的な言動を目の前にしたときにどういう振舞をすればいいのかってことです。道徳の時間こそ「差別はいけないと思います」と発言しながら、チャイムが鳴ったらさっさと忘れてしまう我々が、実生活においてそれを目にした時にどうしたらいいのか? 「それは差別ですよ」というのは一瞬だけど、それで相手に伝わるのか? 恥をかかされたと思われるなどして、相手の中で別の問題にすり替わってしまう恐れもあるのでは? 正しい事実を指摘するのは自分の正義感を満足させるだけで、相手の認識が変わらないと意味ないのではないか。ではどういう言い方をすれば伝わるのか。
実は本書を読んでいる期間に「それはアウトだ」と思う一言を耳にしたことがあったんですが、びっくりして咄嗟に何も言えないうちに話題が変わってしまって、結局何もできなかったことをずっと気にしている。不意を突いた言i動をされると、驚いて何もできず固まってしまう。対処のためのトレーニングが必要だと思うんですよね。でも幸いに日常ではそういう言動を見たり聞いたりすることがほとんどないので練習の機会もなく、咄嗟に身体も口も動かないことの繰り返しになってしまっていて、これはほんとに、なんとかしたい。ワークショップとか探したんですが、見つけられなかった……


■マ・ヴァン+キット・マイヤーズ「アメリカ軍事帝国主義レイシズムの交錯――ジョージ・フロイド殺害におけるトウ・タオの共犯と、アメリカとの同盟を拒否するモン系アメリカ人の抵抗」(佐原彩子・兼子歩訳 )

トウ・タオは国家に承認された殺人者たりうる。彼は、アメリカの警察と帝国の構造が重なり合う地点で、そうなるよう要請されたのだ。この重なり合う構造が、自由の「新しい友人」として、彼に積極的な沈黙を要求した。「新しい友人」は戦争後に難民となった元モン兵士に象徴される。「新しい友人」に自己決定権がないことが、アメリカ帝国の暴力と取り締まりを正当化し、暴力行為そのものに参加するよう強要するのだ。(P.308)

ジョージ・フロイドの頸部を圧迫して殺害したのは白人警察官のデレク・ショーヴィン。しかしその場にいながらショーヴィンを制止しなかった警察官の一人に、モン系アメリカ人警察官のトウ・タオがいた。この論文ではモン系アメリカ人のルーツとアメリカ社会での立ち位置について、そしてモンたちがBLM活動に参加することの意味について論じられている。
この論文でモデルマイノリティ(MM)神話という単語が出てきます。アジア系は白人社会において勤勉さや忍耐強さなどによって成功した例外的なマイノリティであるという説で、「肯定的ステレオタイプ」ともいう(P.309参照)。これはたぶん、郷に入っては郷に従えの完成形だろう。しかし兼子歩の論文の感想でも書いたように、どこまでがセーフでどこからがやりすぎなのかの線引きが難しいところだ。
難民として暮らし始めた土地で、仲間として認めてもらう必要もあるモンたちにとっては辛い立場だ。ほんとこういうとき、どうすればいいんだろうか。自分でちゃんと境界線決めておかないとわからなくなるよな。


他にも興味深い文章ばかりだったのですが、書ききれず残念だ。オバマ元大統領が黒人問題に対して冷淡な態度であったという話や、黒人トランス当事者による記事が本書に掲載されていないという指摘や、在日コリアンのライターによるエッセイのような文章などなど。
読みながらずっと、何もしていないのに疑いの目で見られる辛さとか考えて悲しい気持ちになる一方、見た目で相手が警戒すべき存在かどうかを分類することの効率性についても考えていた。相手の外見だけで警戒する気持ちというのが、私にはわかってしまうのだ。背が高い人とか声が大きい人とか、身体的に圧迫感を与える人に対して反射的に警戒することが、私にもある。何かあってからじゃ遅いし。でもその身を護ろうという反応そのものが差別になるのか?
前にヨーロッパの某国で本屋に行ったときに、店内の巡回スタッフらしいひとが珍しいアジア人の私にぴたっとくっついてきたことがあった。「私はあなたが盗みを働くんじゃないかと警戒してます」って顔に書いてあったし、別に隠そうともしていなかった。これは差別だろうか? 愉快な気分ではなかった。でも店に損害が出てからでは遅いだろう。その行動を、私は理解できる。


この特集を読んで知識をいくつか蓄えることは出来たけど、何か解決したわけではなく、むしろ考える問題が増えた。まぁ当然ではある、そういうふうにつくられた本だ。ものすごく落ち込むけど、家に置いておきたい一冊でした。
BLM運動の後、別に何かが解決したわけでもないので、これからもことあるごとに思い出して考えて行動しなくてはならないのだろう。疲れるけれど。
でも考えているだけではあまり意味がなく、行動しなくてはならないというのは分っている。心の中でどんなに寛容でいても、それだけじゃ仕方ないのだ。
私も完ぺきではないし、この本もすべてをカバーしているわけではないし、社会もおかしなところだらけだけど、少しずつ進んでいくしかないんだろうな。読んでよかったです。