好物日記

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映画『ファーザー』を観てきました

thefather.jp

映画館で予告編を観てこれは行かねばと思っていた『ファーザー』を、ようやく観てきました。あんまり期待しすぎるのもどうかなとも思っていたけど、要らぬ心配でした。実に良かった。

ロンドンで独り暮らしをする老人アンソニーは、娘のアンが派遣する介護人とうまく行かない。アンソニーは手伝ってもらうことなど何もないと思っているし、介護人はいつも、腕時計を始めとする彼の身の回りの物を盗んでいくからだ。これまで父親の世話を続けていたアンが介護人を依頼するようになったのは、結婚してパリで暮らすことになったから。しかしアンソニーは言う。「そうしたら俺はどうなる」「お前は俺を見捨てるのか」
何人目かの介護人ローラは、ようやくアンソニーも気に入ってくれそうな雰囲気。しかしアンソニーの家には謎の男が我が物顔で居座っており、自分はアンと結婚して10年になると言う――。


認知症の老父アンソニーを演じるのがアンソニー・ホプキンスなんですが、もうとにかく彼が素晴らしかった。アカデミー賞主演男優賞受賞したそうですが、納得である。繰り返すけど、素晴らしかった。ちなみに娘アンを演じるのはオリヴィア・コールマン。『女王陛下のお気に入り』、まだ観てないや……。

アンソニーは娘のアンや我々観客から見れば明らかに認知症である。自分が置き忘れたり落としたりして失くしただけのモノを、盗まれたと主張するのはよくある被害妄想のパターン。それに加えて記憶の混濁も見られて、買い物から帰って来た娘が誰か分らずに「誰だ?」と誰何したりする。

この映画の面白いところは、これら記憶の混濁が「アンソニー視点」で映されるところだ。買い物から帰って来て「アンはここよ」と自分を指す女性は、数分前の場面で彼と話をしていた女性ではない。アンソニーは、自分をアンだと主張するその人物のことを、アンソニーが認識している「アン」ではない人間の姿として見ている。彼にとっては「アンではない」が真実なのだ。
でも「アンはどこだ?」「アンはここよ」と言われると、アンソニーはもうそれ以上言い返せない。彼は、自分が間違っている可能性のほうが高いことを自分でわかっている。わかっているけれど、頼りになるのは彼が見ていると思っているものだけ。だから彼は見ることをやめないし、でも混乱は続く。「言ったでしょう」「話してあったでしょう」「もう一週間になります」とか言われた時、彼は黙って引き下がるのだ。けどその表情に浮ぶ戸惑い、不安、混乱を、アンソニー・ホプキンスは、それはもう実によく表現している。俳優って凄い。

アンソニー視点のカメラであることが観客に明らかになった後は、登場人物たちの顔と役割がいっそう不安定になる。時は遡ったり繰り返したり、同じ名前を複数の人間が名乗ったり。思い出したのは映画『去年マリエンバートで』で、あの映画も時系列やストーリーが錯綜していた。この映画では、最後まで観ればあの時のあれはここが間違ってて、とかがちゃんとわかるようになっています。


そしてこういう映像を見てしまうと、自分のことを考えるのが人の常である。
私の両親はまだ認知症の気配はなく、父親の耳が遠くなったくらいだ。けどいずれこういう時がくるかもしれない。私が中学生のときに亡くなった祖母はずっと元気な人だったし、認知症にはならなかった。けれど病気をして入院してからぐっと元気がなくなって、被害妄想の症状が出たのをよく覚えている。それまで人の悪口なんて全然言わない人だったのに、同じ病室の隣のベッドの人が物を盗んだということがあって、まだ中学生だった私はかなりショックだった。祖母自身、年齢の割に元気であることを誇りにしていたので、入院なんてことになって一気に自信がなくなったのだろう。数か月であっという間に亡くなってしまった。


映画を観ているときは、アンソニーの心情を思うと辛くてやりきれなかった。新しい介護人ローラに良いところを見せようとしたアンソニーが「私は昔ダンサーでね」みたいなことをいう場面があるのですが、そこでアンが突っ込むのです。「エンジニアでしょう?」
エンジニア!! これまで頭を使って論理的な思考で仕事をしてきたひとが、記憶が曖昧になっていくのは恐怖だろうな。昔はバリバリ仕事をして、周りからも頼られていたのに、「話しておいたでしょ?」とか言われて憐れみのこもった目で見られるようになるのだ。辛すぎる。
私の父親もエンジニアだったし、私もエンジニア系なので、他人事ではないのだ。私はずっと一人暮らしのつもりだけど、認知症になったら自分でちゃんと気付けるだろうか? 日記でもつけておいたら振り返れるかな。おかしくなったら誰か教えてくれるだろうか。私の現在の娯楽の多くが視覚に頼るものだから、目が見えなくなったりしたらどうやって生きて行こうかというのは、たまに考えることがある。

そういえば映画の中でアンソニーがヘッドホンで聞いていたオペラ、聞いたことあるけどタイトルを知らなくて、調べたらビゼーの「耳に残るは君の歌声」でした。全体的に音楽が良かったです。音楽担当はルドヴィコ・エイナウディとのこと、憶えておこう。


この映画を観た人が、アンソニーとアンのどちらに心を寄せて観ていたのかは多分それまでのその人の経験によって違うのかもしれないなと思いました。私は9割方アンソニー寄りの立場で観ていたけど(カメラトリックの影響もある)、実際に介護をした人やしている人はアンの立場で観るのだろうか。ちょっとお聞きしてみたい。

以下、映画の結末に触れるので隠しておきます。




支えても支えても、もう死んでいる姉妹と比べられ貶されるアンについて。
子供が何人かいるときに、お気に入りの子供とそうでない子供がいることがあるというのは、よく言われることだし、実際そういうことはあるようだ。アンソニーは、アンよりも、事故で死んだもうひとりの娘の方をより可愛がっていた。実際に老いた父親の世話をしているのはアンのほうだけど、世の中そういうものだ。
夜中に寝ている父親を殺そうとした場面、あれが妄想で良かった。でもありうる世界線の話でもあったはずだ。施設に預けない選択をした場合には、あったかもしれない未来。

それでも「いろいろありがとう」って、たった一度アンソニーがアンに言ったあの場面が、私はこの映画のハイライトだと思っている。もちろん、たった一度のお礼の言葉がそれまでの全てを帳消しにするとは限らない。アンはこれまでアンソニーの言葉に何度も傷ついている。それでも、あの一言があるのと無いのとでは全然違うのだ。
わたしたち人間は本当の意味で相手の気持ちを理解するなんてことできないから、推測して想像するしかない。相手のためを思って、これが正しいことだって信じて実行するしかないけど、一抹の不安はずっとある。これで本当にいいんだろうか、自分の独り善がりではないだろうか、相手にとって本当は迷惑なんじゃないだろうか。他にも表に出さないように気をつけている負の感情の後ろめたさとか、いろいろ抱えてぐるぐるしている。
そんな時にたとえ一度だけでもいいから、そういう類の一言があれば、その記憶は言われた人の中でずっと生きる。あ、これで良かったんだ、って思うことができる。そういうものだ。アンにとってあの一言は絶大な意味を持っただろう。
ああ、もうこの場面、思い出すだけで泣きそう。でももちろん何度言ったっていいんですよ! もちろん毎日毎回言うのは最高なんですけどね!


最後に泣き出してしまうアンソニーの混乱した心の中とかも、想像するだけでこっちが悲しくなってくる。自分が自分でなくなっていくような恐怖が伝染しそうだ。ああ、怖いでしょうに。一人になってしまって。でもあのままではいられなかった。アンもアンソニーも悪くはない、誰も悪くないのが一番つらい。


非常によい映画でした。