好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ディディエ・エリボン『ランスへの帰郷』を読みました

ランスへの帰郷

ランスへの帰郷

初めにこの本を知ったのは日経新聞朝刊の書評欄でした。誰が書いていた書評だったかは覚えてないんですが、気になってスマホの読みたい本リストにメモしておいた。
そしてその後書店に行って実物を見て、いいお値段だなーと思いながらレジに持って行ってしまった。みすず書房は他の出版社よりもちょっとお値段高めなんですが、その分絶対良書だっていう確信があるから……あと、表紙に惹かれたというのもある。図書館で借りるという選択肢も頭をよぎったのですが、これは買ったほうがいいやつだと思った。時間の縛りなく、任意のタイミングで読み始めて、自分のペースで読み進めたかったので。そして多分手元に置いておいて良いやつだと思った。実際のところ、自分のペースでじっくりゆっくり読めたので、買って正解でした。

翻訳は塚原史さんですが、表紙には解説の三島憲一さんの名前も併記されています。というのもこの本、ドイツ語訳を読んで感銘を受けた三島さんの働きかけで和訳が出版されることになったのだとか。経緯については三島さんの解説に記載されているのですが、複数の出版社がしり込みするなか、みすず書房が出版してくれて本当によかった。自伝という形式をとってはいるものの、実際には学術書っぽい本なので、採算考えると厳しそうだ。2016年に出たドイツ訳は2009年にフランスで出版されたとき以上に話題になってブレークしたと解説に書かれていたけど(P.250)、なぜドイツでそこまでウケたのかも気になりました。ドイツ文化は全然知らないなぁ。

本を買った時も読み始めた時も、エリボンのことは名前すら知りませんでした。『ミシェル・フーコー伝』で有名なフランスの思想家だそうです。この本では、1953年にフランスの北東にあるランスで労働者家庭の次男として生まれてから大学教授になるまでの半生が語られています。そして人の一生というのは社会背景と切り離せないものなので、本書は当時(20世紀後半)のフランス社会の振り返りでもある。
エリボンはフランスでゲイとして生きるため、そして「知的文化人」として生きるため、労働者家庭である親族から意識的に遠ざかりました。中でも偏狭な父親のことを特に嫌っていて、口もきかなかったといいます。そして本書はその父親の訃報に接する場面から始まる。

 その少し前、父が死んでランスへの帰郷を果たした頃から、ひとつの疑問が私につきまとった。(中略)「私は社会的場面での恥、つまりパリに移住して、自分とはまったく異質な社会層出身の人びとと知り合うようになってから、私自身が生まれ育った環境を恥じる気持ちをあれほど実感したのに(自分の階級的出自について、私は彼らによくちょっとした嘘をついたし、彼らの前で出自を告白することに深い困惑を感じたものだ)、なぜ著書や論文の中でこの問題を取り上げなかったのだろうか?」はっきり言ってしまおう。私には社会的恥より〔ゲイであることの〕性的恥について書く方が容易だったのだ。劣等感を抱かされた主体の形成過程と、それと共通してはいるが、自己について沈黙することと自己について「告白」することの間の複雑な関係を考察することが、性行動に関しては現代政治の枠組みの中で価値を与えられ、価値を求められ、要請されてさえいるのに対して、貧民層という自己の社会的出自に関して同じように考察することはきわめて困難であり、公共の言説の場からほとんど支援を受けられないとまで言えるような状況なのである。だから、私はこうした「なぜ?」について理解したいと思った。(P.14)

そして当時のフランスの労働者家庭というのがいかなるものか、エリボンの両親がどのように育ち、出会い、結婚したか、どのような仕事をしてどのような結婚生活を送ったか、などなど、エリボン家の事例をもとに貧困階級の暮らしが語られます。そしてそんな環境からエリボンがいかにして脱出したのか、ということも。

階級構造や差別構造を含まない社会は多分今のところ存在してないし、おそらく今後も存在しないだろうと思う。だから現代日本においても、どの国のどんな時代においても、この本を読んで共鳴する部分というのはあるだろう。他人事とも思えないのでずーんと暗くなりながら読んでいましたが、特に印象的だったのが、教育システムがすでに差別構造を内包しているという部分。それから労働者階級が右翼化し、レイシズムが公然と広まって行ったという部分。

正直なところ、私自身は比較的恵まれた家庭で育ってきたので、エリボンの苦労の半分もわからない。勉強は得意な方だったし、私立の高校に通っていて周りは当然のように大学進学する子ばかりだった。それに日本だと立身出世は褒められる風潮があるから、そんなに隠すことでもないじゃん?とも思ってしまう。
ただ、出自に対する恥の感情というのは、心当たりがあります。つまり、自分が恵まれた環境で育ってきたことについての引け目のようなもの。
エリボンは労働者家庭から文化人になったので、文化人世界で労働者世界の話をすることに抵抗を感じていたわけだけど、「あちら側」の話はしにくいっていうのは、どっちから見た時も同じだと思うのだ。たとえば上流家庭の人が何らかの理由で労働者になったとしても、その人は自分の出自について言葉を濁すだろう。今自分がいる場所にそぐわない背景は、隠しておいた方が角が立たなくてよいから。
エリボンは文化人になるために出自を棄てた、裏切ったという罪悪感を持ち続けていたようだけど、それはなんというか、そういうものだろうと思う。たぶん両方に足を付けて立ち続けるのはすごく難しい。稀にごく自然にやっちゃう人もいるけど、大方の人には無理だろう。あっちを選ぶならこっちにはいられないし、こっちに留まるならあっちには行けない。
とはいえそれが「階級」というやつだから問題なんだけども。そもそも「あっち」「こっち」という階級が存在していること自体、社会制度として間違っているというのが21世紀のスタンダードであるはずだから。生まれた家庭の懐事情によって機会の不平等が発生し、特定の未来へ流されやすくなっている教育システムというのは間違いなく改善すべきだ。

しかし、すべてを平らにならすことなど無理だっていうことを認識しておいてもいいと思うのは、裏切りだろうか? 実際みんな気づいてないわけないから、認識はしているけど言わないだけなんだろう。テンション下がるからか。ただ、あまりにもクリーンな未来ばかり口にするのも現実的ではないように思ってしまうのだ。それって、完璧でひとつのバグもないシステムの実現を追い求めてるみたいでちょっと恐い。間違っちゃいけないことがこの世に存在すのは事実だけど、それでも間違いは無くならないのも事実だ。
しかしやっぱりこんな風に考えてしまうのは裏切りだろうか。この諦めは錆になるのだろうか。私が間違っていればいいなと思ってはいるんだけど。

何というか、非常にざらざらした読後感の本でした。でも読んでよかった、買って読んでよかったと思う。和訳を出してくれてありがとうございました。