好物日記

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映画『デカローグ』5,6を観てきました

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最初は『不思議惑星キン・ザ・ザ』を観に行くつもりだったのだ。しかし当てにしていた映画館ですでに公開終了していたので、じゃあ別のを……となった。お気に入りの映画館であるシアター・イメージフォーラムのHPで『デカローグ』をやってることを知り、観に行くことにしました。というのも、ちょうどいま読んでいる山田稔の『シネマのある風景』で、この映画について書かれていたのです。この偶然は観るしかない。

しかしこの作品、4月からもう公開していたんですね。そういえば見かけた気もするけど、気にしていないと目に入らないものだ。
デカローグとは、日本語にすれば十戒のこと。十戒にちなんだ約60分の映画10本で構成された作品となります。今回は観たのは、そのうちの「5.ある殺人に関する物語」と「6.ある愛に関する物語」の2本。2本で頭も心もいっぱいいっぱいだった。
ちなみにこの2本はストーリーがどうとかという話ではあまりないので、この記事では結末に関することも配慮なく記載しています。未見のかたはご注意ください。



「ある殺人に関する物語」は、青年ヤツェックがタクシーの運転手に強盗殺人をはたらいた廉で死刑判決を受け、執行されるまでを描いたもの。ヤツェックの弁護を担当したものの、死刑を阻止できなかった新任弁護士ピョートルの無念が響く。
この作品は、判決がどうなるのかを手に汗握って見守る類の話ではない。ヤツェックの有罪も死刑も冒頭からすでに明らかだ。この作品が突きつけてくるのは、タクシー運転手を殺した青年が、法に依って合法的に殺される事実。
ヤツェックが何故強盗殺人をはたらいたのか、その動機は語られない。犯行に使うロープをリュックに忍ばせて街を彷徨い、獲物となるタクシーを物色するヤツェックの昏い目つきよ。
カフェでコーヒーを飲みシュークリームを食べ、ロープを片手にゆっくりと巻き付けるシーンが実に良い。彼はそのカフェで、死んだ妹と同じくらいの年頃の少女たちと窓越しに視線を交わし、にっこり笑うのだ。それがもう、少年のようにあどけない。手に巻き付けたロープ(観客は、このロープが何に使われるのかをまだ知らない)を慌ててリュックの中に戻したりする。後ろめたさがにじみ出ている。でも女の子たち二人はその場を去ってしまう。彼は再びロープを手に巻き付ける。あ、引き返せなかったんだ。ゆっくりと手にロープを巻き付ける動作が映える。
ヤツェックについた弁護士ピョートルはこの事件が初めての担当らしく、「私がもっと経験豊富だったなら、彼の死刑は回避できたのでは…」と自分を責めている。年老いた裁判官はそんなことはないというが、ピョートルは後悔が拭えない。彼は死刑の執行直前にヤツェックに会い、死んだ妹の話や彼の家の墓の話を聞く。ヤツェックの犯した殺人は計画的なものであったはずだけど、ここでは彼はただの少年、死を前にして怯える子供だ。刑の執行に立ち会ったピョートルの目には、死刑が国家的な殺人にしか見えない。
死刑制度については多分永遠に決着はつかないだろう。いつの時代にも、どの地域でも、賛成の人と反対の人がいる。どちらにも言い分がある。なお私個人は制度としては残して、実質的には誰もその対象にはしないのが良いと思っている。
ダンサー・イン・ザ・ダーク』をちょっと思い出したりもしたけれど、「ある殺人に関する物語」では死刑執行前の執行部屋準備の場面が凄かった。首を吊る時に足元の床が問題なく開くかどうかのチェックとか、縄の長さを調整するために巻き取るリールに油を差したりとか。システマチックに計画的に行われる刑の執行。無自覚に行われる殺人だ。ヤツェックが犯行に至るまでの準備と、ヤツェックの刑が執行されるに至るまでの準備が交互に映されるのがうまい。
死刑は、法を犯した者に対する社会からの報復なのか。不当に生を奪われた被害者とその家族の無念は勿論あるだろう。ただ、人が人を殺すという点において、死刑は殺人と同じである。だからなんていうか、多分、どこかで諦めなきゃいけないんだろう。どちらかを明示的に選択するしかないのだ。善悪などという曖昧なものを理論だけで決着つけようなんてできるわけがないんだから、殺人と開き直ったうえでやるかやらないか決断するのだ。正義の行いだとか例外だとか言い訳せずに、人としての罪を犯すという毒を飲み干す覚悟があるなら、それならそれでよいだろう。時と場合によっては間違いを選ばなくちゃいけないこともあると思うし。でもなぁ、それっぽい言葉でごまかして知らないふりするのはやっぱりなんかすっきりしないし、そういうのってついごまかしたくなるから、私はやっぱり嫌だな。しかも今結構他人事みたいな口ぶりで書いているけど、2021年の日本国には死刑制度健在だから、全然他人事ではない。何もしていなくても責任の一端を担っているのだ。



「ある愛に関する物語」は、郵便局で働く内気な青年トメクが、向かいの家の女性マグダの奔放な私生活を望遠鏡で覗き見していたのがバレる話。トメクは郵便局で働いていて、彼女に会いたいがために偽の為替通知を偽造して彼女の郵便受けに投函し、自分の働く窓口まで来させたりする。
率直に言って完全にストーカーなんですが、陰湿な雰囲気ではなくかわいらしさが先にくるのは、演出の上手さなのか。もちろんストーカーは犯罪ですよ! 普通に考えて自分の部屋を覗いてるうえにいろいろ嫌がらせしてくるストーカーなんぞ、ただただ不気味である。決して真似してはいけません。でも恋愛映画はファンタジーなので。
覗かれていたことを知ったマグダに「何が望みなの? キス? セックス?」と訊かれたトメクは少し怯えたように首を横に振り、「喫茶店で僕と一緒にアイスクリームを食べてくれませんか」と言う。そして牛乳瓶を積んだリヤカーを引いてアパートの間の道を踊るように走り去るトマクの姿。この一連の流れが素晴らしかったです。空いた牛乳瓶がぶつかり合ってシャラシャラいうの、好きでした。この作品の中で、トメクはこのときが一番うれしそうだったな。トメク役はオラフ・ルバシェンコ、繊細で可愛いくって非常によろしかったです。
牛乳瓶の場面に限らず、電話のベルやら目覚まし時計が鳴り響く音とか、生活音を響かせているのが印象的でした。トメクには、彼自身が住んでいる家の生活音は聞こえるけど、自分が覗いているマグダの家の音は一切聞こえない。たとえばマグダが恋人と喧嘩して帰宅して、冷蔵庫から出してテーブルの上に置いた牛乳瓶を倒してしまうシーン(これがまた良い)。トメクは瓶が倒れたことを望遠鏡越しに見ているけれど、倒れた音は聞こえない。肩を震わせるマグダが見えるけれど、彼女の泣き声は聞こえない。
とはいえお互い物理的に近づいても、彼の純粋すぎる愛情はマグダには届かないし、マグダの求めるものはトメクにはわからない。トメクはマグダに触れたくて触れるわけじゃなく、手を握るのもおっかなびっくりだ。セクハラまがいに肉体的接触を強要されると、傷ついて家に逃げ帰り手首を切ってしまう。悪魔的な純粋さである。トメクはしきりに「愛している」っていうけど、マグダはそれを幻想だという。そりゃそうだわって感じである。19歳で純粋一途ってほんとタチ悪いな。別にトメクの気持ちを疑うわけじゃないけど、求めているものと与えたいもののタイミングがズレすぎてて、これじゃ噛み合うわけがない。精神的なものと物理的なもの、どっちも必要だと思うけどな。
ちなみにこれは十戒ネタなので、「隣人を愛せよ」ではなく「姦淫するなかれ」であるはずなんですよね。どこが姦淫なのか。マグダに恋人がいるからか。覗きというのもちょっと違うしな。
あと気になる点として、『デカローグ』を観るきっかけのひとつとなった山田稔の映画エッセイでは、「ある愛に関する物語」のあらすじがちょっと違う風に書かれていました。結末部分も違うので、彼が観たあとに、また少し構成を変えたのかもしれない。山田稔が観たのはまだ『デカローグ』内の一編になる前のものであったようだし。個人的には今回観たラストが良いなと思います。吹っ切れた顔しててよかった。


どちらも非常に濃い60分で大満足でした。他のも観たいけど、全部みたら600分……
監督はクシシュトフ・キェシロフスキポーランドの人らしい。他の作品も機会があったら観るようにしよう。すごく良かった。