好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

クリストファー・R・ブラウニング『増補 普通の人びと』を読みました

去年出たときに名著の気配を感じて買っておいた本です。買っておいたはいいものの、気が滅入るだろうなぁと思うとなかなか手が出しにくく、積んでいました。ナチス時代の普通の人だったはずの人たちが、なぜ尋常じゃない数のユダヤ人殺害を実行したのか、何が彼らをそうさせたのかを研究した本です。…もう本を開く前から気が重い!でもこれはきっと読んだ方がいいやつだと思ったので買ったのですが、実際読んでよかった。ものすごく良い本だった。でもやっぱり気分がどーんと落ち込みますのでこれから読む予定の方はご注意ください。

副題に「ホロコーストと第101警察予備大隊」とつけられているように、この本ではナチスによるユダヤ人虐殺に関与した兵士のなかでも、「第101警察予備大隊」の行為に対する裁判資料をメインで取り扱っています。

 結局のところ、ホロコーストがなぜ生じたかといえば、根底において、個々の人間が多数の他の個々人を長期にわたって殺害したからである。民衆からなる加害者は「職業的殺戮者」と化したわけである。(P.16)

第101警察予備大隊の兵士の多くは徴兵された一般市民で、もともとは別の職業(理髪師やら職人やら)に就いていた人が多かったようです。年齢も高めで、ナチス的教育を受けたわけでもなく、そこまでナチスに心酔しているわけでもない。それでも彼らは強制収容所に移送されるユダヤ人たちの警備というような間接的な仕事だけではなく、至近距離による銃殺をも実行していたのでした。兵士ではない一般市民を。武器を持たない無抵抗の人々を。それってどんな気分なのか。

想像だけで語ることは容易い。例えば命令に背いたら殺される状況だったのだとか。しかし資料からは「断ることも可能だった」という事実が明らかになっていて、一部の兵士は実際にその任務を辞退していたこともわかっている。ではもともとサディスティックな嗜好を持つ民族だったからか?しかしこれも乱暴な理論だ。上司が見ていないところでは仕事をさぼって、脱走するユダヤ人を見逃す兵士もいたとのこと。彼らの全員が嬉々として「ユダヤ人狩り」をしていたわけではない。
だとしたら「仕事だから」というのが一番ありそうだ、けど、それって説明になるだろうか?「仕事だから」でどこまで実行できてしまうのか?「仕事」だとしても辞退を選んだ人がいたことを考えると、そのボーダーラインというのは一体何なのか?何が選択に影響するのか?

ユダヤ人虐殺はすべてが強制収容所で行われたわけではなく、村に住んでいる千人を超えるユダヤ人を片っ端から森に連れて行ってひたすら銃殺するというパターンもあったそうです。ローテーションを組んで数時間、なるべく効率的に殺していく。そして銃殺を実行したのは、ついこの間まで一般市民として暮らしていた人々だった。プロ(応援部隊として来ていた職業軍人)に比べれば途中で脱落する割合も多かったけれど、最後まで頑張る人もいた。何度も繰り返すことで感覚が麻痺する兵士もいたけれど、彼らだって多くの場合は行為に対する嫌悪感が消えたわけではなかった。そして銃殺行為については辞退したり脱落したりした兵士も、強制収容所への移送警備については任務を全うした。その先に何があるのか知っていても、見えないところで行われる行為については鈍感でいられた。

Aに至るA'は許容できるのに、Aを許容できない。それは倫理といえるのか。でも気持ちの上ではわかる。程度の問題というやつだ。でもそれって、一番線が引けないパターンではないか。1kmは走れても2kmは無理、でも毎日走ってたらそのうち2km走れるようになっちゃうかも、みたいな話だろう、きっと。

道徳や倫理って、いったい何なんだ?義を見てせざるは勇無きなり、頭の中での理屈が行為に結びつかないことは多々あるけど、それならどうしたらいいんだ?勇気を育てればいいのかな。野蛮化がどのように行われるのかとか、潜在的な暴力性向が覚醒しただけだとか、権威への服従とか、退役後の経済的基盤の有無とか、「普通」とみなされていた人たちが殺害を辞退できなかった理由についての仮説も多数書かれていて、どれも非常に興味深かったです。中でもミルグラムが実験した、仲間の圧力の影響というのが私個人には大きく影響しそうだと感じた。そして人によってトリガーが変わってくるんだろうなとも思う。
「これが決定的原因だから、こうすれば大丈夫!」みたいな決定的な対処法というのは、たとえ1000年待っても確立されることはないだろう。これはそういう種類の問題ではない。ということはつまり、なるべく早く適用可能な、私個人で実行可能な暫定的対処を自分で作っておかなくちゃいけないということだ。

はっきり言って、私は自分を信用していない。残念ながら、空気を読んで道徳を投げ捨てるタイプだと思う。なんとかして正しく生きたいとは思っているし、異常な状況に陥ったとしても、自分の中の倫理を優先して踏ん張れる人でありたいという憧れはある。でも多分、今の自分では転ぶだろう。
そもそも自分の中の倫理なんて、どの程度信じられるものなのか。緩やかな差別、それらしき理屈のある区別、「だから」という接続詞の都合の良さをうまく使って自分を騙すことくらい、いくらでもできる。しかも、絶対的な正義を与えてくれる宗教の持ちあわせも無い。
結局は選択の問題だろうとも思う。選択の基準になるルールを倫理や正義と呼んでいるだけなので、選択のための計算式のストックを自分の中にため込んでおけばなんとかなったりしないかな。しかしこれまで蓄積してきた価値の重みづけがしぶとく生き残っているので、結果を測る単位自体を更新しないと無理そうなのだ。道は長いけど、道がないわけではないという希望にすがらないとやってらんないや。


本書はもともと1996年に原著がアメリカで刊行され、1997年に日本でも和訳が刊行されています。そのあと2017年に原著改訂版が刊行され、増補がついている本書は改訂版の訳にあたる。増補版には、ゴールドハーゲン教授による初版への批判の反論にあたる「あとがき」と、初版刊行後の研究をまとめた「二五年の後で」が追加されています。
ゴールドハーゲンいう人は本書の著者ブラウニングと同じく、第101警察予備大隊の資料をもとに研究を行った人なのですが、結果として別の結論を持つ本を書いたらしい。別の結論というのは、第101警察予備大隊の兵士たちはもともとユダヤ人を憎悪しており、チャンスに応えてユダヤ人虐殺に積極的に関与したのだというものです。恣意的な資料の引用など、突っ込みどころ満載な本であることが多数の研究者によって指摘されている模様。ゴールドハーゲンの本は読んでいないので伝聞での情報でしかなくアンフェアなのですが、ゴールドハーゲンの本をわざわざ読む気にはなれなかったです。
私はあとがきに書かれていたブラウニングの以下の記述に賛同します。

わたしはわれわれが住んでいるこの世界に不安を抱いている。現代世界では、戦争と人種差別主義がどこにでも跋扈しており、人びとを動員し、自らを正当化する政府の権力はますます強力かつ増大している。また専門化と官僚制化によって、個人の責任感はますます希薄化しており、仲間集団は人びとの行動に途方もない圧力を及ぼし、かつ道徳規範さえ設定しているのである。このような世界では、大量殺戮を犯そうとする現代の政府は、わずかの努力で「普通の人びと」をその「自発的」執行者に仕向けることができるであろう。わたしはそれを危惧している。(P.359-360)

そして私は、政府レベルではない、個人生活レベルでの薄っぺらい責任感による道徳の崩壊が一番怖い。経済効率や空気感で誰かを押し潰す側に、確実に自分は立っているはずなのだ。自分が設定している倫理が目の前で侵されたとき、果たして私は自分の倫理を守れるのか、正直まったく自信がない。その倫理侵犯が自分の利益を特別脅かすものではないなら、自分は目をそらす気がしてならない。そのあと3日くらい落ち込んで、あとは忘れてしまうだろう。それではいけないはずなのに。
本当に、どうしたらいいのか未だにわからないままです。時々こういうこと考えて激しく落ち込むのですが、辛くても時々は落ち込まないと忘れちゃって手の施しようがなくなりそうなので、いい薬なのかもしれない。手遅れになる前になんとかしなくてはな。そういう意味でも、非常によい本でした。しんどかったですけどね…。
また読むときが来そうな気はする。次に読む時には、もう少しましな人間になっていたいなぁ。