- 作者:リュジン, チャン
- 発売日: 2020/12/23
- メディア: 単行本
数年前から韓国の現代小説が書店で目立つようになっていたけれど、なんとなく機会を逃し続けてまだ一冊も読んでいなかった。現代韓国小説市場はフェミニズムとすごく強くリンクしている印象で、それが重要な問題であることに異議はないんだけど、私のスタイルとはちょっと違うやり方であるように感じていたので、これまで少し離れているようにしていたのです。それはフェミニズム文学というものが、プロレタリア文学に通じるものがあるからかもしれない。明確な目的のある作品集合体であるということ。
(ちなみに韓国人作家グカ・ハンの『砂漠が街に入り込んだ日』は読んだけど、あれはフランス語で書かれているので韓国小説としてはノーカン)
まぁとにかく、私はフェミニズム運動のための小説は苦手だ。しかし現代韓国小説は読んでみたい……と思っていたところで、先日Youtubeで放送された「みんなのつぶやき文学賞」の第1回結果発表会にて倉本さおりさんが紹介していたのが本書。紹介を聞いてこれは面白そう! と思ったので買ってきました。
ちなみに結果発表会は今もYoutubeにて視聴可能です。
全8篇の短編が収められているのですが、正直に言ってとてもよかった。軽やかで、爽やかで、ちょっと意地悪なところもあるけどキュートでスマートな感じ。著者のチャン・リュジンは私と同年代なのも親近感が湧くポイントだ。
今の韓国ってこんな感じなのかな、というのがすとーんと入ってきました。私は未だに韓国に行ったことがないので(そろそろ行こうと思っていたらコロナ禍になってしまった)想像するしかないのだけれど。
巻頭の『幸せになります』は、ちょっとズレた会社の同期に振り回される話。主人公の私は就職戦線を勝ち抜いてきたしっかり者の女性。同期のクジェとの結婚式を間近に控えたところで、世間知らずで子供っぽい、特に親しくもない(と私は思っている)同期女性ピンナオンニから、結婚式に呼んでよ! と無邪気な催促を受ける。
一般的な結婚式のやり方や招待の仕方などが日本と違うのも面白いんだけど、違わないのは「特に親しくない(という認識の)同性知人との間合いの測り方」の難しさである。私は世俗にまみれた人間なので、断然「私」に感情移入して読んでましたが、こういうピンナオンニみたいな他意のない困ったちゃんは見ててヒヤヒヤする……もっとうまくやりなよ、と思ってしまう。
大人社会で顰蹙を買うような種類の無邪気さは、小説世界では大抵「目に見えない正しさ」みたいな役回りで、世間擦れした主人公の目を覚まさせることになる。この短編でもそういうことにはなるんだけれど、そこに至るまでの有能な「私」の振り回されっぷりがコミカルでありながら妙にリアルで面白い。ネタバレになりそうなので詳しくは言いませんが、一万二〇〇〇ウォン分のプレゼントを買う場面がめちゃくちゃ好きでした。わーかーるー!! そしてこの場面で浮き彫りになるのが「私」の器の小ささでもあるところが、ほんと、チャン・リュジンいい性格だな。この容赦ない感じはすごく好きだ。
しかし韓国が競争社会だというのは噂に聞いていたけど、それが具体的にどういうことなのかというのは、この本を読んでようやくイメージできたように思う。表題作『仕事の喜びと哀しみ』は会社の不条理に振り回される給与所得者の話で、主人公はアプリ開発を手掛けるスタートアップ企業に勤める女性。今時っぽい雰囲気を纏いながら旧態依然から抜け切れてない部分の描き方が素晴らしいです。
デザイナーのジェニファーは韓国人だ。会社があるのはシリコンバレーではなく板橋(パンギョ)テクノバレーであるにもかかわらず、あえて英語の名前を使う理由は、代表がそう決めたからだ。迅速な意思決定が求められるスタートアップ企業の特性を考慮し、代表から社員まで全員が英語名だけで対等にやり取りするフラットな業務環境を作ろうという趣旨だそうだ。上下関係のある等級体系は非効率的だと。意図は悪くなかった。だが、代表や理事と話すときはみんな「先日、デービッドからご要請のありました……」あるいは「アンドリューがお話になった……」と相変わらず敬語を使っていた。だったらなんでわざわざ英語の名前を使うんだろ? 問題は代表のデービッドがそれをまんざらでもないと思っていることだった。(P.41)
本書全体で、パワハラかましてくる企業トップの話とか、同期の男性と給与が大幅に違う話とか、不合理さを告発する視点をさらりと組み込んでくるバランス感覚が非常に私好みでした。おそらく、そういう要素を排除して書いたとしたら、作品世界の風景が嘘になるのだろう。地球に重力があるように、現代韓国社会には女性にとってやりにくい習慣や風潮が残っていて、それを作品の背景として描くのは、例えば「落ち葉が風に舞っていた」というようなレベルの、ごく当たり前の描写なんだと思う。それを敢えて描かないのはむしろ不自然なレベルの。
『俺の福岡ガイド』の主人公や『真夜中の訪問者たち』の元恋人というような男性たちは、愛情という至極まっとうな感情を持って女性に優しく接しているけれど、本人たちが自覚していない部分で相手の女性を傷つけている。その描き方のさりげなさ、さりげないんだけどちゃんと読み取らせる筆致が、チャン・リュジンという作家の凄いところなんだと思う。なんとなく、キャサリン・マンスフィールドを思い出した。
どれも良作ぞろいなんだけど、巻末の『タンペレ空港』が一番好きです。フィンランドのタンペレ空港で、飛行機の乗り継ぎのために余った時間を、目がほとんど見えない老人と過ごしたことを思い返す話。若かりし日のキラキラしたものが、日々の労働によって、金のための労働によってだんだんと、しかし確実に失われてしまう様子の描き方が辛くて良い。そしてラストが! いいんですが! さすがにちょっとそれはここでは言えないですね。ネタバレすぎるので。お願い、読んでください。
ほんとうに、どの作品も完成度が高くて素晴らしかったです。これでデビュー作ってすごいな。今後新刊が出たらまた読みたい作家です。すごく良かった。