好物日記

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四方田犬彦『愚行の賦』を読みました

愚行の賦

愚行の賦

書店で見かけて我慢できずに買いました。四方田犬彦の新刊! この分厚さがいい!
四方田犬彦は文章が上手いというのは勿論その通りなんだけど、さらに、興味の引き出しをたくさん持っているらしいところが好きです。師弟関係とかよく知らないんですが、なんとなく澁澤龍彦とか種村季弘とかの系譜を感じる。
そして今回の、「愚行」という論考というテーマ! あらゆるタイミングで自らの愚かさを嘆く日々を送っている私としては、ちょっと素通りできませんでした。どれどれ、と思って書店で目次を見てにんまりしてしまった。

「愚行は人を苛立たせ、魅惑する」
「わが偽善の同類、兄弟よ」
「ぼくはあの馬鹿女のことをみんな書いてやる フローベール
「わたしは本当に白痴だったのです ドストエフスキー
「わたしはなぜかくも聡明なのか ニーチェ
「おまえが深く愛するものは残る その他は滓だ 愚行と後悔」
「馬鹿なことは得意ではない ヴァレリー
「稲妻にさとらぬ人 バルト」
「わたし独りが鈍く暗い 老子
「「愚」と云ふ貴い徳 谷崎潤一郎

このラインナップ、たまらないではないですか! 実際、すごく面白かったです。

そもそも愚行とは何か。批評家としてどのように愚行を語ればよいのか、というところから、筆者は真面目そうに語り出す。

 わたしは考える。世界の医学者がペストに、マラリアに、またエイズに対し撲滅を宣言したように、またアメリカ軍がISに対し徹底壊滅を宣言したように、人は愚行にむかって撲滅を宣言することなどできるのだろうか。人類の歴史を振り返ってみると、過去に愚行に対して果敢なる戦いを挑んだ者たちがいなかったわけではないと、世界の文学は教えてくれる。ラ・マンチャの騎士ドン・キホーテから、トリノの街角で虐待された馬のために涙を流したニーチェまでの、長い長い勇者たちの系譜。だが彼らの一人として、その戦いに勝利したことがなかった。皮肉なことに彼らの多くはその確信を狂気だと見なされ、改めて愚行をなす者として、社会から排除されることになった。地上から愚行を一掃することが可能だと認識した瞬間に、彼らは絶望的なまでに愚行に陥ってしまった。なぜなら愚行に戦いを挑むことが、すでにして愚行の典型であるからだ。(P.13)

2019年8月から2020年2月に『群像』に連載されたものをまとめたのが本書とのこと。東西の「愚」の語源を紐解き、ドゥルーズボードレールベケットや『ガリバー』に言及したのち、フローベールの『ボヴァリー夫人』を愚行という観点から語りはじめる。そこからドストエフスキーの『白痴』と続いていくのですが、これらがまた、とても私好みの面白さでした。
例えば『ボヴァリー夫人』について。

 この小説では、あらゆる人物が愚行を繰り返しているわけなのだが、作者は意地悪くもそれを三つの典型に分類し、それぞれを三人の登場人物に振り当てている。すなわち愚鈍を性として、状況の認識把握能力の完璧な欠如から来る愚行。過剰な空想癖が昂じて、生活の現実から転落してしまう愚行。そして科学振興と尽きせぬ知的好奇心により、問題の本質を取り逃がしてしまう愚行。フローベールはこの三つの愚行をそれぞれ、シャルル、エンマ、薬剤師オメエに振り当てている。(P,114-115)

では『白痴』はどうか。

 この長編小説が発表されて以来この方、ムイシキンという名は単なるロシア小説の主人公を離れ、ハムレットドン・キホーテと同様、無垢にして愚かな人間の典型と見なされるにいたった。彼はもはや文学史のなかで、普遍的人間像として記憶されている。仏教文化圏に生を享けたわたしには、そうした構図は自然と胎蔵界曼荼羅を連想させる。絶対の愚を体現する公爵を中心に、大小さまざまな愚者がそれぞれに固有の場所をもち、グロテスクにして奇怪な星座布置を築き上げているのだ。人間は理性の光に導かれて幸福への道を歩むのだというイデオロギーが支配的なものとして機能していた19世紀ヨーロッパにおいて、ドストエフスキーがそれに対抗し、狂人と白痴が跳梁し、愚行という愚行がパノラマのように展示されている長編小説を執筆したことは記憶されるべきことである。(P.155)

ヨーロッパの文学者や思想家がメインですが、最後には谷崎潤一郎を出してきてくれたのは嬉しかった。そうですよねぇ、愚行といったら谷崎でしょう!


私は多感な10代だった頃、無謬の人生というのにそれはもう憧れて、ほんの小さな間違いですべてが終ったような気持になったりしていたものでした。これまでに自分がやってきたありとあらゆる愚かな振る舞いを思い出しては凹み、できることなら産まれた時から人生やり直して、一つも間違えない存在になりたかった。今となってはそこまで神経質なことは考えなくなったけど(大人になると面の皮が厚くなると聞いていたけど、本当だった)、それでも愚行を恐れる気持ちはまだ残っていると思う。完璧さへの憧れみたいなもの。何一つうまくできないからこそ、何でも上手にこなしたいって願うんだろう。ないものねだりの一つだ。
しかしなぁ、この本で紹介されているあらゆる先達や創作上の人物がそうであったように、愚かな振る舞いを極度に恐れることそれ自体が、他人から見れば愚かな振る舞いに見えてしまうものなんですよね。「それは愚行である」というのは結局は主観によるものだ。だから誰かから愚かだと笑われたときに「だから?」と笑い返すことができる人こそが最強なんだと思う。愚かな自分を受け入れるくらいの心の遊び部分があるといいなぁ。できることなら愚かであることを讃えるくらいの境地に行きたいものだ。大人になっていろいろと寛容になったので、昔に比べれば我ながらかなり丸くなったとは思うけど、まだそこまでは達してないな。というか簡単にそんな境地に至れるのなら誰も苦労はしないものだ。

例えば人間の寿命が無限になれば、無駄という概念がほぼなくなるはずなので、そのときはじめて愚行というものが撲滅されうるのかもしれない。しかし世界が有限である以上、我々の人生は選択の連続であり、その選択において大多数から見て無意味と思われる選択をすると容赦なく愚行の烙印を押され続けることになるだろう。
とはいえ「愚行」って、もしかして、ものすごく贅沢な嗜好品なのでは? しなくていいことをするって、最高じゃないですか。私は真面目なタイプの人間だけど、いつかどこかでこれまでの人生全部棒に振りたいっていう欲望をこっそりと持っている。馬鹿なことを、と言われるようなことを「敢えてする」ことは最高級の快楽なのではないか。それは悪魔の誘惑なのかもしれないけど、絶対最高に気持ちがいいと思うのだ。だから私は谷崎が好きなんだろうな。

そんなことをつらつら考えながら読んでいました。とっても楽しい読書でした。