好物日記

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小松左京『復活の日』を読みました

復活の日 (角川文庫)

復活の日 (角川文庫)

コロナ禍をきっかけに再び世間で注目を浴びていた小松左京の『復活の日』を、とうとう読み終えました。5月に映画版を観て「面白かったー!」と叫んでいたら、小説も面白いから!と貸してもらったのです。
私が読んだのは昭和55年に角川書店から刊行された単行本版だけど、今すぐに手に入るのは文庫しかないようなので、上のリンクは文庫版を貼っておきます。
ちなみに初版本は早川書房から出ていたらしい。
あと結局映画版の話もしているので、映画版サイトも貼っておきます。

www.kadokawa-pictures.jp

復活の日』、私は先に映画を観たわけですが、映画と小説のどっちが先でも面白いタイプの作品だと思います。ただし映画を先に観ると、小説を読んでいる間中ずっとヨシズミは草刈正雄の顔で読むことになります。よく合っていて、とても良かったので問題ないのですが。
映画は映画でロマンスが強化されていておもしろかった(さすが角川)けど、小説は小説で細部に気合が入っていて、また違う面白さがありますね。小松左京作品は多分これが初めて読んだ作品のはず。文体の昭和感は最初違和感ありましたが、読んでいるうちに慣れました。あとちょくちょく挿絵が入っているのがなんだか懐かしい感じでした。

しかし他の作家の作品でも感じることあるんですが、文体の昭和感ってありますよね。あれ、どこでそう感じるんだろう。リーダ(…)の多さか、あるいは漢字と平仮名のバランスか……あるいは言葉遣いかもしれない。たとえば以下のような。

 なにゆえに、そして、なにものが――
 いったい、いかなる凶暴で不吉な存在が、かかる災厄を、このうるわしい星の上にもたらしたのか?――深度五十メートル、速度二十八ノットで針路を南にとり、音たてて流れる黒ずんだ潮(うしお)にさからって、はてしない大洋(わだつみ)のうねりの下を、孤独な巨鯨(きょげい)のごとく、ひたすら走りに走るネーレイド号の内部で、乗組む人々の胸にふたたびよみがえったのは、四年の月日のもとにすでに色あせ、諦めの厚い皮膜の下に、もはや燠(おき)ほどのぬくみも感ぜられぬようになったと思われた、あの懊悩だった。(P.15)

やっぱり漢字と平仮名の使い方かな。平成の文章はもっと全体的にシンプルになっているような印象があります。「ふたたびよみがえった」とか全部ひらがなで書くの、あまり見かけない表記なのでは。
とはいえ念のために断っておくと、それが悪いとかいいとかじゃなくて、読者である私がそういう風に感じるのは面白いなあというだけの話です。

以下、作品の内容に触れるのでちょっと隠しておきます。映画版のストーリーについても触れています。


映画版と小説版はロマンス度に大きな差異はあるものの、ストーリーの大筋は変わりません。本を読んでいると全体のページ数に対する物語の進捗率で今後の展開がなんとなく感じられるものだけど、今回小説を読んでいたら、ヨシズミとカーターがペンタゴン目指して出発する場面にたどり着くのがかなり遅くてびっくりしました。いつになったら出発するのかと、ずっとそわそわしていた。それまで非常に丹念に人類を滅ぼしにかかっていましたね……。死屍累々の場面描写はやっぱり戦争の記憶と被っているのだろうな。あのとき日本中が同じトラウマを持っていたから、共通の悪夢として認識されていた風景だったんだろうな。

また『復活の日』のウイルス「MM-88」は冷戦下の緊張関係を使った致死性の高いものとして描かれているのに対して、今全世界に広まっているCOVID-19は致死率はそんなに高いものではないというのは、よく言われる通りですね。しかし「これまでと違うウイルス」を出そうとすると、やっぱり地球外由来になるんだなというのが非常にSF的で面白かったです。

小説版は、とくに第4章「夏」がめちゃくちゃ良かった。壮大な宇宙に浮かぶ小さな星である地球と、そこに生きるさらにちっぽけな人間たちと。

支えのない暗黒の宇宙空間にうかぶ、一つの小さな球体のイメージをおすすめしたい。くるくるまわりながら、回転軸を二十三度半かたむけて、もえあがる巨大な――といってもたかの知れた、直径百四十万キロほどの――恒星のまわりを、ゆっくりめぐっていく、直径わずか一万三千四百キロほどの、小さな小さな球体だ。直径わずか一万三千四百キロだ! この小ささに、きっとおどろかれるだろう。手近かな、使いなれた自動車の積算距離計をごらんになるがいい。一年たつかたたぬかのうちに、その数字は四万キロ、五万キロをしめしているだろう。――その車はすでに地球の直径の三倍以上を、知らぬ間に走っているのである。あなたの小さな軽自動車が、地球を一周してしまうのは、いとも短い歳月でことたりるのだ。(P.223-224)

 文化?――それらしいものがうまれてからたった一万年かそこらしかたっていないのに……世代にしてせいぜい四百世代しかたっていないのに、文化だと? つい四、五千年ほど前、人類の大部分、九〇パーセントかそこらは、飢えと疫病(えやみ)と敵と自然の災害の恐怖にさいなまれ、ボロを着、シラミをわかし、掘立て小屋の土間に寝、隙あれば殺してぬすみ、栄養失調と、寄生虫に慢性的にとりつかれ、明日食物をとって生きねばならぬ恐れの中に、獣のように生きていたのではないのか?(P.229)

こういう大きなスケールでの視点がSFの醍醐味だよなあ。とてもいい。そこからの「4.八月第一週」のアメリカの少年の話は映画でもぐっと来たところだったけど、さらに「5.八月第二週」のヘルシンキ大学教授の放送授業も素晴らしい。そのあと世界が廃墟になっていく描写で終わるこの章は、最高でした。

なお小説版ヨシズミは則子とのロマンスなどほとんどなく、オリヴィア・ハッセー演じるマリトとの接点もないけど、映画版で採用されていた南極世界で子孫を残すシステムについて「それは女性に対して侮辱的だ」という言い方をしてくれていたのが印象的でした。正直人類滅亡が危ぶまれる環境でそんな優しくて大丈夫か?って気はするし、映画版のシステムの方が合理的だとは思うけども、まぁそれはそれとして……映画版でどうしても「おまえヨシズミー!!」と思ったところがあるので書いておきたい。これだけは、言っておきたい。

それは、ペンタゴンに向う前夜の、マリトとのシーンです。いや、決死の任務を帯びた同胞に最後に良い夜を、みたいな流れはわかるんですよ。鍵をわざわざ取らせる時点で察せられるし、そこはまぁいい。映画版ヨシズミには日本に残してきて、きっともうこの世にはいないだろう大事な女性がいたというのも、設定として良い。その女性の面影を南極で出会ったマリトに見てるのも、まぁ良い。自然な心の動きだ。だから最後に一夜を過ごすとき、マリトに則子を重ねてみてしまうのも、まぁそういこともあるでしょう。不可抗力だ。
しかーし!せっかく最後の夜を共に過ごしてくれる相手に!しかも自分に対して好意を持ってくれている様子のある相手に!わざわざ相手に伝わる言語である英語で「黒い髪……黒い瞳……あの人と同じ……」とか、言います!?それはダメでしょ!せめて日本語でしょ!「あなたは僕にとって他の誰かの身代わりなんですよ」って宣言してるってことじゃん!それはダメでしょ、ヨシズミ……ダメダメすぎるよ。

しかし映画版はエンタメ感が強くて、よい脚本だったのは確かです。カーター少佐かっこよかったし。ラストで世界を彷徨う映像も美しかったし。さすが角川というべきか、さすが深作欣二というべきか。
でもラストで南極組と再会する場面で、ロマンス重視の映画版ではマリトが出迎えてくれましたが、そこは小説版の「母」との再会という終わり方の方が好みでした。深みが増すように思う。

小松左京、良いですね。他のも読もう。