好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

藤野可織『青木きららのちょっとした冒険』を読みました

藤野可織は新刊が出たら絶対買う作家のひとり。今回も買ってはいたもののしばらく積んでいたのですが、ようやく読むことができました。変わらず素敵な藤野可織ワールドでした。最高。

『青木きららのちょっとした冒険』には9作の短編小説(うち2作は同じ世界観)が収められていて、そのどれもに何らかの形で「青木きらら」という名前の人物が登場する。「青木きらら」は同じ人物ではなく、全く別の存在だ。名前だけが同じだけど、違う世界に住む人たち。
藤野可織の描く世界は現実世界をベースにしているけれど、現実世界の常識ではありえないことがするっと入り込んだ世界だ。例えば『放送局』がひとつの街ほどに敷地を広げたり、例えばスカートから歯が出現したりする。そのシュールさが私は好きなんですが、今回本書を読んで気になったのはそこではなかった。登場人物の悔い改めなさ、というか。抗いえない時代の流れとか流される個人の無力さ。でも無力さを積み上げるしか道がないんだということ。

ここ数年の藤野可織の小説は、フェミニズム小説に分類される。フェミニズムという観点で小説を読むことには正直あまり興味がないのですが、それでも藤野可織の小説は抵抗なく好んで読んでいた。なんでだろうとは思っていたのですが、おそらく「これはおかしい」という事象について、社会そのものに罪を負わせているから読みやすいのだ。よからぬ風潮を支える思想をもつ個人を悪役に仕立てるのではないところ、個人をひどい目に逢わせて留飲を下げるのではないところが好き。そういう教育を受けて、そういう時代を作ってきた、無意識にそういうものに加担している人々全体で、男女区別なく罪を分け合っているところが好き。

「相手が青木じゃなくても選択的夫婦別姓制度が施行されてたら……」青木は反論しかけたが、もしその制度があったとしても自分は青木でいられたかどうかわからなかった。青木が青木でいたいという主張を、夫は、夫の家族は、自分の家族はどのように感じるのか、もし反対されたとき自分の主張を通せるほど強い気持ちで青木でいられるのかわからなかった。青木は強い気持ちもなにもなくただ青木でいられたら青木でいたはずだった、夫がそうしているように。[……] 青木は戦いたくなかった。戦わないと得られないものを、自分が得ることができるとは思えなかった。夫が戦うことなく得るものを、自分は戦わないと得られないというのはどうにも納得できないことだった。(P.123-124 「消滅」)

「そう、ここでならできる、だって私はここでいいから。どこかほかのところに行きたいわけじゃないから。ここで生きていくためにそうしなければならないのだったら、そうする」(P.212 「トーチカ2」)

女性の生きにくさとか社会における役割分担の不均衡さというのは別に男性のせいではない。女性の敵は男性ではない。彼らがあきれるほどに鈍感だったとしても、彼らは別に悪人なわけではない。そういう社会なのだ、今この時代は。それはそれとして認めておいて、でもこのままでいいとは言ってねぇぞ、という意思を感じる。罪を憎んで人を憎まない、人は憎まないけど罪を見逃しはしない。そういう姿勢が感じられて好きだ。

全編どれも好きなんですがどれか一つというのならやっぱり「スカート・デンタータ」かな。語り手は痴漢の常習犯である「ぼく」で、青木きららは満員電車で痴漢被害に遭う女子高生の名前なのですが、この世界では世の中のスカートというスカートから突然歯が出現して痴漢の腕を食いちぎる事象が発生する。これまで女性を狩る側だった「ぼく」はその優位な立場を追われ、牙をむいたスカートで強気な態度をとる女性たちに憎悪の目を向ける。

 そう、スカートは凶器だった。女たちはいまや、モテの手段としてのスカートではなく、はっきりと自覚的に、凶器としてのスカートを穿いていた。女たちのこちらをにらみつける顔、にらみつけながらも浮かべている薄笑い。女たちは道を譲らず仁王立ちになり、あるいはわざとらしくこちらを脅すようにスカートを揺らめかせながら突進して来るので、こちらが避けなければならなくなった。女たちは電車の座席でみっともなく足を開いて座り、こちらの膝に当たっても謝罪ひとつ述べないどころか姿勢を正しもしなくなった。焦りのにじんだ「あ、すみません」という女の声を、ぼくはいつから聞いていないだろう。このような女たちの態度を、ぼくは脅迫と受け取った。(P.66-67 「スカート・デンタータ」)

たぶん今も、声をあげる女性の態度を脅迫と受け取っている人はいるのだろう。そして男女問わず、立場が弱い相手に対して過剰に強く出る人はいるだろう。不均衡は正されるべきだけれど、シーソーの上下がそっくりそのまま交代になるだけの世の中なら、良くなったなどとは到底言えない。それは何も変わっていないのと同じだからだ。
「スカート・デンタータ」のラストがすごく良いのですが、ネタバレなのでここでは書かないでおく。読んで。とにかく読んで。


ほかにも他者の不幸を消費する「花束」や男の子=クリスマスケーキ説を力説する「美しい死」もすごくよかった。「美しい死」で語られるクリームパンのドームの話なんてたまらなく好きである。本筋には関係ないんですけど。

不均衡な世の中だから、きっと誰もが加害者になりうるし、それは無自覚に行われる。社会に合わせるほうが楽ちんだからそうするけど、その時何かを捨て去っているのだ。未来の可能性とか、そういうものを。おかしいぞ、と思うことが目の前で起きて、でもそれに対して何もアクションしなかったとき、不均衡のシーソーの下がっている方に手のひらで掴める程度の一つ分の砂を落としているのだ。手のひら一つ分の砂でも、積もり積もった砂の山になる。
私は、正直、自分が「あ、今自分は違和感をなかったことにしたな」と思う瞬間がある。咄嗟に口に出せないのだ。和を尊ぶ教育を受けているから、とか言い訳しちゃうけど、罪を重ねている意識はある。ちゃんと言わないと何も変わらないんだよな。そんなこといちいち考えなくていい社会であるべきだ、というのは正論としてあるけど、今日そうじゃないなら明日もそうじゃないだろうから、粛々とシーソーの軽い方に砂を足していくしかない。

非常にフェアなフェミニズム小説でとても好きでした。