好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

五島一浩「画家の不在」展に行ってきました

www.goshiman.com

日比谷の図書館でポスターを見かけたので、気になって行ってきました。会場は廃校をアートスペースにリノベーションした3331 Arts Chiyodaです。場所はだいたい、湯島駅末広町駅の間らへん。
初めて行きましたが、教室ごとにいろんな展示があって、文化祭ぽくて建物全体がとても面白かった。定期的に通いたい。無料なのもありがたいところ。

www.3331.jp

「画家の不在」展は、カメラの父祖である「カメラ・オブスクラ」を部屋に再現した展示です。

深い森の中にあるアトリエの廃墟。巨大な凸レンズが空中に吊られたまま残され、壁のフレームには誰も見ていない像が結ばれています。この部屋/世界はひとつのカメラ・オブスクラであり、空間に飛び交う無数の情報から、レンズは「意味」を抽出します。そしてアトリエに迷い込んだ私の眼もまた、その像を網膜に投影し、投影と結像は無限に繰返されていきます。…ひょっとして思考しているのは私ではなく、レンズなのかも知れない。(公式HPより)

天井から吊るされたいくつものレンズと、その焦点の先に存在するオブジェと、レンズの近くに頼りなく存在する額縁。額縁のなかの空白にレンズが像を結んで、さかさまのオブジェをぼんやりと映し出す。

この世ならざる感が非常に好みでした。たぶんあの部屋は、人類が滅びた後の風景に似ている。部屋を訪れた私は鑑賞者としてその部屋に存在するはずなのに、オブジェやレンズから疎外されているように感じた。私がいてもいなくてもレンズは勝手に像を結ぶのだ。誰もいない森で倒れる木は、音を立てるのか。

見る/見られるというのはやはり特別な行為だ。そこには「見る主体」が必ず存在する。私が物体Aを見るとき、「物体Bではなく物体Aを見る」「物体AをP地点から見る」など、見る側の意思や事情やらがフィルターになって視界を濁らせる。見る主体が物を見るとき、その時その場所からそれを見る、というユニークさが生れてしまう。その唯一性は一種のノイズだ。

先日そごう美術館に観に行った吉村芳生展の時にも考えたことだけど、限りなく純度の高い「世界そのもの」を視界から取り出すには、観察者の自我を消し去るしかないんだろうな。そしてこの展示の「画家の不在」というロジックは、世界そのものという境地に近づくための方法の一つなのかもしれない。

では監視カメラではダメなのか? 画家の不在を監視カメラに預けて撮らせておけばいいのでは? ……という疑問も生じたけど、やっぱりそれは違うのだ。カメラでは「見る」意思が強すぎる。ピントという概念が存在するのもイマイチなんだけど、それよりも何よりも「見る」に特化した機械であるというのが、くどい感じ。

その点レンズは良い。レンズは「見る」のではなく「反射する」ものなので、見ることに対する意思が薄まる。結局は「見る」システムの一部ではあるんだけど、ただの物理作用なので、そこまで強い目的意識を感じないのがいい。
だから例えば、オブジェの近くに水槽があって、ゆらゆら揺れる水面に映るのを見るのはアリだと思う。水槽の水は眼球の水晶体にも少し似ているし。


……ちなみにこの記事を書いていて初めて気がついたんですが、この「画家の不在」展、ほかの映像作品なんかも展示されているらしい。え、観てないんですけど。「画家の不在」以外の展示はどうやら脇道にそれたところのギャラリーに集められていたらしく、ふらふらと夢うつつで会場を彷徨っていた私は見逃してしまったらしい。え、そんな部屋入ってない。えー!! 見たかった!! もう一回行くか? 展示は11/15(日)まで。行ける日があるか?
これから来場する皆さんはぜひお見逃しのないようご注意ください。

あと残念ながら来場できない皆さんは、せめて予告影像でその雰囲気を楽しんでください。

youtu.be