好物日記

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そごう美術館「超絶技巧を越えて 吉村芳生展」に行ってきました

www.sogo-seibu.jp

アクセスの良さからしばしば足を運ぶ横浜のそごう美術館に、今回も行ってきました。吉村芳生の展覧会です。
実は展覧会に行くまで、吉村芳生のことは知りませんでした。ポスターに出ていた精密な鉛筆画に惹かれて観に行ったのですが、いい意味で思っていたのと違って、いろいろ考えて面白かったです。

彼の特徴は何といっても制作過程なのだというのが良くわかる展示でした。鉛筆での緻密な模写、という一言ではちょっと言い尽くせない。
まず題材となるシーンを撮った写真があります。次にその写真を方眼紙のように升目で区分けします。写真の濃淡に従って升目ごとに数字を割り振ります。升目ごとに割り振られた数字に対応する数の斜線を引きます。最後に版画として印刷して出来上がり……なのですが。
ちょっと言ってる意味わかります? 自分で書きながらこれじゃ伝わんないよなと思う。言葉にすると簡単な「升目ごとに鉛筆で斜線を引く」っていうのが、実物を観ると圧倒されます。「ジーンズ」という作品について、その制作過程含めて展示されていたのに釘付けでした。なんだこれ……! 制作過程の説明展示を入れてくれてありがたかったです。こんなの、説明されないと全然わからない。
ちなみにシルクスクリーンとして刷られる前の、フィルムの状態のものも展示されていたのですが、向う側が透き通ってて好みでした。印刷後よりも、よりストイックな感じ。

写真をもとにしたモノトーンの作品は1970年代~1980年代にかけて制作されているのですが、何かを彷彿とさせると思ったら、ブラウン管テレビだった。
彼の絵は升目で構成されているので、ものすごく乱暴に言えばドット絵の一種になるのかなとも思う。ただドット絵と決定的に違うのは、ひとつのドットのバリエーションが色ではなくて濃度であることだ。吉村芳生は昔、色に対して警戒的だったということがキャプションに書かれていたのも面白い。
しかし考えてみると彼が題材としている構図はもともと「写真」として存在しているものです。「写真」は現実の風景を平面に写した印刷物なので、必然的に画素からは逃れられない運命にある。となると、升目ごとに濃淡を埋めていくという手法は、写真という形態にかなり近いものがあるのか。
ただ「写真の模写、ただし鉛筆で」というのが吉村芳生にとってどういう意味があったのか、展覧会を見た後も私の中で謎のまま残っている。

展示を観ながら、写真と同じくらい精緻な絵というのは芸術として成立するのかどうか、というのを一時期考えていたことがあるのを思い出した。もうだいぶ昔の話です。その時はまさか現実にこんなことしてる人がいるとは思っていなかったのですが。それに当時想定していたのは、元の写真と並べても、どちらが写真でどちらが絵画なのかが判別できないほどの模写が可能であったなら、その絵画から画家の視点のバイアスとか画家の自我を消し去ることは可能かどうかということだった。絵を描くときにはどうしても「何をどのように描くか」という画家の意思があって、それが絵の楽しみの一つでもあります。でも、写真を完全に模写するという方法で絵を描けば、あるいは視界そのものを模写するような形で絵を描けば、そのキャンバスに、物そのものを映し出すようなことはできないか? というのを考えていたのだ。懐かしいなぁ。当時の私は、何にも依存しない物そのものを、ただの物体を、世界や自分の意識から切り離して見てみたかったのだ。とはいえ絵を認識する主体がいる以上それって無理な話だよなというのが今の自分の結論ではあるけれど、自我のない世界は未だにちょっと憧れる。

ちょっと話が逸れました。
今回の展覧会で思ったのは、吉村芳生の制作方法はデジタルで置き換えることが不可能ではないだろうなということでした。彼は写真を升目に区切って、数字を振って、その数字に従って機械的に、敢えて心を殺して機械的に斜線を引いた。私心は交えないというようなことがキャプションに書かれていた。なんで? どういう経緯でそういうスタイルになったの?
彼の制作過程をデジタルに置き換えて印刷したものと、彼自身が斜線を引いた絵とを並べたとしたら、それは片方が偽物で片方が本物と呼ばれるようになるんだろう。しかし吉村自身が斜線を引くのにかけた時間と、その線ひとつひとつの重みというのは、機械的にプログラムされて引かれた線による作品に対してどのように認識されるんだろうか。観る人に区別がつかなかったとしたら、その絵のもつ芸術性というやつは、一種の信仰のようなものになるしかないんだろうか。
本当に、吉村芳生はどうしてこういう制作過程になったんだ? しばらく作品を発表しなくなったスランプ期間がいわゆるIT革命期と被るのは、なにか影響があったのだろうか。

しかし2000年以降、転居した山口で、色鉛筆で花を描くようになってからの作風はまたがらりと変わっていて驚きました。多くの画家は南国で原色の世界を目の当たりにすると色遣いが変わるものだけど、山口の豊かな自然を目の当たりにした吉村芳生にも同じような効果があったのだろうか。展覧会のキャプションでは、コスモスの群生に救われたって書かれていた。「未知なる世界からの視点」というめちゃくちゃ大きな作品が、すごく良かった。パキパキに乾燥した茎と、瑞々しく伸びる茎の描き分けや、水面に映ったススキの茫洋とした感じが好きでした。異界の入口っぽかった。
あと、絶筆となったコスモスの絵の、まだ描かれていない空白にぞっとした。2013年にたった63歳で亡くなったのだ。

展覧会のタイトルに「超絶技巧」とあるのは、ここ最近の超絶技巧ブームの流れだろうか。確かに制作方法は驚愕するし実際の作品は緻密だしその執念どっから来るのって感じでもあるので間違ってはいない。ただ、吉村芳生の作品の凄さって、フィジカルな技法よりももっと概念的なところにあるんじゃないかと思う。単純に私の好みというだけかもしれないけど、展覧会でずっと考えていたのは、芸術性とか本物とかっていったい何なんだろうってことです。人間の手で生み出すことにどこまで意味があるのか? 機械の印刷による絵は芸術ではないのか? 昔は機械の精度がいまいちだったから人の手のほうが正確だったけど、今の時代では精緻なだけでいいなら単純作業は機械の方が得意だ。人間が作品を作るまでに積み上げた時間は可視化されない。同じ出来なら、時間を節約した機械の方が「良い」のか、時間を積み上げた人間の方が「良い」のか。プログラムの書いた小説は小説なのか問題と、同じ性質のものを孕んでいるように思う。
展覧会のキャプションでは、機械に奪われた時間を人間の手に取り戻したいというような吉村芳生の言葉が書かれていた。それってどういう意味なんだろうか。

ミュージアムショップで、写真を鉛筆で模写した作品がポストカードとしてプリントして売られているというのが、なかなかシュールでした。
横浜そごう、2020/12/6まで。