- 作者:W・G・ゼーバルト
- 発売日: 2020/05/15
- メディア: 単行本
初めてゼーバルトを読んだのは今年の春。『アウステルリッツ』を夢中で読んで、新装版が続いて出版されることを知って楽しみにしていたのに、コロナ禍でチェックが遅れてしまった……。遅ればせながら買ってきて、貪るように読みました。
『移民たち』は1992年ドイツで刊行。訳者あとがきに「W・G・ゼーバルトが生涯に四作だけ書いた散文作品の二作目にあたる(P.266)」とあります。タイトル通り、語られるのは4人の移民の人生。
一人目は「私」と妻が借りた家の大家にあたるセルウィン夫人の夫、ドクター・ヘンリー・セルウィン。二人目は「私」の小学校の時の担任教師、パウル・ベライター。三人目は「私」の大叔父にあたるアンブロース・アーデルヴァルト。そして四人目は「私」がイギリス留学時代に知り合った画家、マックス・アウラッハ。
語り手の「私」はいずれも同一人物のように思われます。多分ゼーバルト自身の投影なんでしょう。しかし「私」は完全にゼーバルトではなさそうだし、語られる4人の移民たちも、創作混じりのようです。敢えて虚実入り交ぜて書くスタイルが良い。
しかし写真があると信じそうになるのは、普段視覚に依存して生きているからだろうか。家族写真や集合写真を掲載されて「これがあなたのお母さんよ」とか書かれると、感情的には本物らしさが上がるんだけど理論的には大した根拠ではないんですよね。
たとえば上掲の写真は、一九三九年三月、ニューヨークのブロンクスで撮影されたものだ。左端がリーナ、その隣にカージミルが座っている。いちばん右の女性がテレーズ叔母だ。ソファーに座るほかの人たちは不明だが、眼鏡をかけた小さな子どもはフロッシーで、のちにアリゾナ州トゥーソンで秘書をして働き、五十歳にしてなおベリーダンスを習った。壁に掛かった油絵に描かれているのは故郷のW村である。(P.77-78)
ゼーバルトの何が好きって、その落ち着いた文体と、文章全体に流れるかなしみと、言葉を尽くすことに対する若干の諦め、それでも書き続けているところです。1944年生まれの彼自身は、経歴を見る限りユダヤ系ではないようだけど、本当のところはよくわからなかったです。『アウステルリッツ』はユダヤ系迫害の話だったし、『移民たち』で語られる四人もみなユダヤ系だ。あの時代のドイツ人が背負ったものを、多分ゼーバルトも背負っているのだろう。特に強い感受性でもって。なぜこんなことに、という行き場のない叫びが行間から聞こえてくるようで、結構しんどくなったりもします。でもそのときにはもう文章にのめり込んでいるので、しんどくなりながらも読み進んでしまう。
そう、彼らがユダヤ系であることは、実にさりげなく明かされる。「私」が知ってることは読者も知ってて当然、と言わんばかりに、ごくごく自然に紛れ込ませている。全体的に文章が洗練されていてエレガントなのは、きっと訳も素晴らしいんだろうな。鈴木仁子さんです。端正な文章で、読んでいて気持ちがいい。
一九九〇年から九一年にかけての冬、自由になるわずかな時間を、つまりはいわゆる週末と夜とをつかって、私はここに記したようなマックス・アウラッハの来歴に取り組んでいた。きつい仕事だった。何時間、何日と一行も進捗しないことはしょっちゅうで、進むどころか戻ることも稀ではなかった。たえず私を苛んだのは、執拗に意識にのぼり、それだけいっそう私を萎えさせる心のとがめであった。その呵責のひとつは語りの対象に対するものだった。どのように語ろうが、私は対象に公正ではありえないのではないか。そしてもうひとつ、書くということのそもそもの胡散臭さ。鉛筆やボールペンで何百頁となく書き散らした。そのほとんどが抹消され、反故になり、あるいは判別できなくなるまで書き足された。<最終稿>としてどうにか救い出したものも、私の眼にはできそこないの代物であった。(P.250)
ゼーバルトは『アウステルリッツ』でも、どんなに言葉を尽くして語っても、語られないものの存在は尽きないというようなことを書いていた。同様に、どんなに言葉を尽くして書き綴っても、零れ落ちるものは無数に存在するのだろう。
そしてどんなに遠くへ移動しても、船に乗って汽車に乗って故郷を遠く離れても、なにかのきっかけで一瞬にして心がその場所に戻ることはありうる。どんなに長い年月が経っても、突然そのときのことを思い出し、あのときのあの場所に立ち返るような感覚に襲われることがあるように。
きっと時間も空間も、確かなものではないのだ。それは時空間の座標が不確かだからというよりは、観測者の問題。時と場所を観測する一点である「私」が、とても不安定なものだから。だからたぶん、一瞬も永遠も大した違いはないのかも。
巻末に寄せられていた堀江敏幸さんの解説もとても素敵な文章で、堪能しました。ゼーバルトの本はあと2冊、すでに新装版で刊行されているので、じっくり読みます。