好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

管啓次郎『本は読めないものだから心配するな 新装版』を読みました

本は読めないものだから心配するな〈新装版〉

本は読めないものだから心配するな〈新装版〉

  • 作者:管 啓次郎
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

2020年の終わりを締めくくる記事が、とても素敵な本の感想となることを嬉しく思います。詩人であり人類学者であり翻訳家であり、な管啓次郎の著作。随筆や書評など、いろんな雑誌に書いた短文をまとめて一つにしたものであるらしい。

この本を読む前の私は、管啓次郎という人については、エイミー・ベンダーの訳者としての一面しか知りませんでした。彼の著作である『狼が連れだって走る月』が良いというのも聞いてはいたのですが、なんとなくこれまで機会がなくて、彼自身の文章というものは読んでいなかった。ただ気にはなっていたためにこの本が手元にあった。
ということで文筆家としての彼には本書で初めて出会ったのですが、冒頭のエッセイ「本は読めないものだから心配するな」からしてノックアウトされました。タイトルと同じ一文で始まるこのエッセイでは、読書についての彼の考えが語られています。

本に「冊」という単位はない。あらゆる本はあらゆる本へと、あらゆるページはあらゆるページへと、瞬時のうちに連結されてはまた離れることをくりかえしている。一冊一冊の本が番号をふられて書棚におさまってゆくようすは、銀行の窓口に辛抱強く並ぶ顧客たちを思わせる。そうではなく、整列をくずし、本たちを街路に出し、そこでリズミカルに踊らせ、あるいは暴動を起こし、ついにはそのまま連れだって深い森や荒野の未踏の地帯へとむかわせなくてはならないのだ。ヒトではじまりレミングの群れとなり狼の群れとなって終わる。あるいは、終わらない。どこまでもゆく。そんなふうに連係的・運動的に、さまざまな本から逃げだしたいろんな顔つきのページたちを組織する。そして読み、読みつつ走り、走りつつ転身する。それが「テクスト」であり、時間の経過の中ではじめて編み上げられてゆく「テクスト」という概念は、もともと運動的なものだ。(P.8-9、「本は読めないものだから心配するな」)

……何だこの言葉の濃密さ、力強さ。
書架に整然と収められていた分厚い本が次々に床に落ちてページが捲れ、文字として印刷された「ことば」がそこから浮き上がって奔流のようにあふれ出し、空調が適切に保たれた部屋から直射日光の屋外へ転がるように飛び出し、黒い塊の群れとなってあっという間にどこかへ行ってしまうような、そんな強烈なイメージが、このページの上にあった。まるで蝗の大群のように瞬間的に空を覆って、またどこかへ行ってしまう「テクスト」。あれはなんだったのか、よくわからなかったけど、なんかすごいの通ったね。同じ「テクスト」の群れを見た人とそんな会話を交わしたりして。
それはまさしく読書だ。よくわからなかったけど、うまく説明できないんだけど、なんかすごいの読んじゃったっていう確信。

おそらく著者自身が常に気を配っているんだろうな、と想像されるものは、繰り返しテーマとして登場する。「言葉」「旅」「翻訳」「多様性」など。そしてそこここに差し挟まれる誰かの言葉や著者自身の記憶をもとにしたエピソードが、その語り口がまたすごく良い。

好きな箇所を抜粋してたらキリがないのですが、年末年始にぴったりな部分があったので引用します。

 大晦日の暗さ、それは「過去のある時点で自分が望んだ未来がいかにわずかにしか果たされていないか」という事実をつきつけられたことで生まれた、悔恨だ。ディドロバルザックもマルローもプルーストも、おやおやこんなに持っているのに、結局まるで読んでいない。でも元旦の明るさ、それは迷いから突然に覚めた明るさだ。過去の自分との約束は果たせなかった、それは認めよう。でもそれはただ無謀な夢想にふけっていただけで、これからはずっと現実的な目標を立てて、少しずつこなしていけばいい。そのための資源が、ほら、こんなに手元にあるんだから。もう体裁を気にしていられるだけの時間は、自分には残されていない。一歩ずつ進めば、それでいい。(P.255、「声の花と眠る書物」)

ちょうどこれを読んだのが大晦日。今年の振り返りをして、来年から真面目に生きようって思っていたときだった。今年は全然、本を読んでないなって思っていたとき。あるいは読んだという手ごたえが、年々感じにくくなっているのか。

だいたい読書というものは、読み終わってからが本番である。本を読んでいる最中というのは、紙面(あるいは画面)に書かれた文字を体内に取り込む作業をしている時間であり、それはそれで喉を通る時に甘かったり苦かったりして楽しめるものではあるんだけれど、本番はそのあと。言葉が体に入り込んで消化されてから。
管啓次郎もこの本で書いている通り、多分読んだものの大方は排出され忘れてしまうのだ。でもたまにものすごい劇薬がその読書体験に含まれていると、数年後か、場合によっては数十年後くらいに、何かのきっかけで頭をもたげて唐突にその読者を揺さぶる。あるいはもっとシンプルに、たった一つの場面だけがちょっとした拍子に思い出されたりする。この、後からやってくるものまで含めてが読書だろうと思う。だからそれは死ぬまで続く。
「読み終わる」というのは、確かに「読み始める」の対になるポイントではあるのだろうけど、そこで「終わり」ではないはずだ。ということが、最近ようやくわかるようになってきた気がする。ある程度振り返る蓄積がないと体感できないものなんだろうなぁ。大人になるのも悪くはないものだ。


ともあれ、とても良い本でした。管啓次郎はやっぱり言葉に真摯な人なんだな。文筆家としての管啓次郎もすごく好きになりました。嬉しい。来年も楽しみだ。