好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

柴崎友香『百年と一日』を読みました

百年と一日 (単行本)

百年と一日 (単行本)


10代の頃、「いまここ」で考えていることがすべて流れ去って消えていってしまうのがとても恐ろしかったのを覚えている。根が貧乏性なので、少しでも何か残しておきたくて色々書き残したりもしたけれど、別に見返すこともないまま多くがゴミセンターの煙となった。
実は未だにそういうことを考えたりする。信号が青になるのを待ちながら通り過ぎる車や空に浮ぶ雲を眺めている時、あるいは電車の窓から雑居ビルの非常階段でタバコを吸う見知らぬ人を一瞬だけ目にした時なんかに、「今ここで自分が目にしているもののほとんどを1時間後には思い出せないだろうし、10分後にだって忘れているだろうし、明日にはこんなことを思ったことすら忘れているだろう」とふっと思う。そして実際、そういうことをいつ考えたのかを、今の自分はすっかり忘れている。ただ「いずれ忘れてしまうだろう」という感覚だけを覚えているのだ。多分それは、いろんな時と場所でその感覚を何度も反復したから覚えてしまったのだろう。

なんというか、この『百年と一日』というのは、そんな感じの本でした。たまにふっと顔を出す「いずれ忘れてしまうだろう」の感覚が、この本を読んだとき、久々にはっきりと浮かび上がってきました。とっても良かった。
内容は雑誌『ちくま』に連載されていたものをまとめたものらしいのですが、短編集、というわけでもない。連作でもない。しかし帯に「物語集」とあるのは、さすがしっくりくる。そうだ、これは物語集だ。

目次に並んだそれぞれの物語のタイトルが良くて、これだけでも堪能できてしまう。たとえば一番最初の話のタイトルは次の通り。

「一年一組一番と二組一番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業して二年後に再会したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話」

で、どんな話なの? というと、まさにタイトル通りの話でした。
時折挟まれる「ファミリーツリー」「娘の話」というタイトルの話だけは1~3まで番号が振られていて、ちょっと毛色が違う。でもそれらも含めて、すべては『百年と一日』という本のタイトルに収束されていく。
文字によって語られる数分があり、語られない数分、数時間、数十年がある。語られない数十年という時間も確実に存在していて、数十年後のその人や、数十年前のその場所のことが再び文字で語られる。柴崎友香ってそういう作家ですよね。好きだ。

今のところヒトは主に骨と肉とで構成された身体に自我が閉じ込められているので、「その時、その場所」にしか存在できないようです。そしてヒトが最もメジャーに使用している情報伝達ツールである言葉は、種類の違いこそあれど、すべて時間が経過することを前提として機能するものなので、何か伝えようとするときには必ずいくばくかの時間の経過が必要となります。(これは文字であっても同じことで、文字を認識するために経過する時間というのが絶対に必要にります)
……なんてことはわざわざ書くまでもないことなんだけど、そういう諸々を改めて思い出すような本でした。今この時のこの場所というのは世界中で無数にある点(前述の理論でいくと厳密には点ではないということになるけれど、まぁ便宜上点としておく。気になるなら円と言い換えてもいい)の一つでしかなくて、任意の点から前後左右上下、どころかあらゆる方向に時空間の座標が無限に伸びているのだというのを、思い出させる本だった。そしてそういう「今ここ」の点というのはあらゆる時と場所に偏在していて、道を歩く一人一人が、あるいはどこかで座っている一人一人が、さらにはゴミ捨て場を漁るカラスさえもが、全方位に延びる座標の原点になりうるのだということを思い出させる本だった。怖い。

でも柴崎友香のこざっぱりした文章がその怖さを緩和しています。彼女はいつもさらっと軽やかに時と場所を越境する印象だ。淡々とした文章が、そこにあるべき完璧なタイミングでそこにあるって感じがすごく良い。
「角のたばこ屋は藤に覆われていて毎年見事な花が咲いたが、よく見るとそれは二本の藤が絡まり合っていて、一つはある日家の前に置かれていたということを、今は誰も知らない」のラストが非常に好きでした。

ちなみにカバーの紙袋のイラスト(どこかで見たような気がすると思ったら、長谷川潾二郎の絵だった)もすごく良いのですが、カバー外したチョコレート色もシックで好みです。各作品のタイトルの入れ方もいい感じだと思ったら、装丁とともに名久井直子さんのデザインでした。この間読んだばかりの藤野可織の『来世の記憶』も彼女のデザインで、続くとなんだか嬉しい。世界観にあっていて素敵な装丁でした。