好物日記

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映画『国葬』を観てきました

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『セルゲイ・ロズニツァ<群衆>ドキュメンタリー3選』と銘打たれた3作品のひとつ、『国葬』を観てきました。3選の他の2つは『粛清裁判』と『アウステルリッツ』ですが、こちらは未鑑賞。
セルゲイ・ロズニツァという名前は全然知らなかったのですが、今回の3作品が日本初公開となる監督らしい。ベラルーシで生まれ、ウクライナキエフで育ち、モスクワで映画を学んで、今はベルリン在住。そして1964年生まれのソ連育ちでもある。

そもそもこの映画の存在を知ったのは、ドキュメンタリー3選の作品中のひとつ『アウステルリッツ』がきっかけでした。私の中で『アウステルリッツ』といえばゼーバルトなんですが、一般的にはナポレオンの「アウステルリッツの戦い」である。しかし今回に限っては、ゼーバルトの『アウステルリッツ』で良いらしい、というのを知って俄然興味が湧いた。そして公式サイトで3作品あわせた<群衆>としての予告編を観て、その独特な雰囲気にやられたのでした。
国葬』と『粛清裁判』はソ連スターリンの話、『アウステルリッツ』はホロコーストのダーク・ツーリズムの話です。最初は『アウステルリッツ』だけ観に行こうかと思っていたのですが、2回分のお値段で3枚綴り券を買えることを知って、つい綴り券を買ってしまった。しかし買ってよかった!! 『国葬』、観て良かったです。

国葬』は2019年公開で、3作品の中ではもっとも最近の作品にあたります。135分間、スターリン国葬の記録がナレーションも解説もなしに粛々と流れるという、一見なかなかストイックなドキュメンタリー映画。ロズニツァ監督は当然スターリンのリアルタイム世代ではないので、映像は当時のカメラマンが映したもので、音源も当時のものを使用しているのだとか。映像はモノクロメインだけどカラーもある。映される場所はモスクワ、ウクライナベラルーシリトアニアラトビアウラジオストクアゼルバイジャンなどなど。
1953年3月5日、スターリンの訃報を伝えるスピーカーの音声から映画は始まります。新聞の号外を買い求める人の列、世界各地から集まる共産主義側の国賓ソビエト各地で花輪を担いで続々と集まる人々、流される涙、代わる代わる語られる追悼演説、遺体が安置されたホールを訪れる人々。最後には廟に安置されたスターリンを送り出す礼砲、機関車の汽笛。そして全編通して映される群衆の顔。モノクロまじりの画面に映える赤。

135分、ストーリーなんて無いようなものですが、いろいろ考えてると全然退屈しないものです。スターリンは立派な口髭してるのに、モスクワの人たちはあまり髭を生やしていないものなんだな、とか。確かアゼルバイジャンの人たちは口髭率が高かった。お国柄か? ソビエトは広いので、吹雪のところもあれば晴れているところもあり、スラヴ系もいればモンゴロイド系もいる。着ている物(民族衣装ぽい)も違うけど、女性はほとんどがスカーフを頭に巻いていて暖かそうであった。

ソ連についてはほとんど知識がないのですが、共産主義だし確か無神論だったよな? 国葬ってどうやるの? と思って観ていたら、なんというか、実に唯物論的な国葬でした。「スターリンの心臓が鼓動を止めた」という表現が印象的で、なるほど、神に召されるわけじゃないからそうなるのか。唯一音楽はキリスト教ぽくて、知ってる曲だったけどタイトルが出てこない……。でも遺体が安置されたホールを訪れる人たちのなかで一人だけ十字を切っている女性がいたのが気になりました。実際はもっといるんだろうな。

そう、偶像崇拝です。観ながらずっと考えていた。
だいたい共産主義とか社会主義って、なんであんなに独裁者のブロマイドをばらまくの? 正教会由来のイコン的なものだろうか。胸元にスターリンの顔を印刷したバッチを付けた人なんかもいて、いや、それは、ちょっと、美観的にどうよ? 直接的すぎない? もっとこう、象徴的な何かで代用したりしないの? と非常に気になってしまった。鎌と槌のシンボルはレーニンソビエト連邦全体のものであってスターリンのものではないってことだろうか。でも当時のソビエトって実質スターリンのものじゃないの? 御影をみだりに配布しないこと、みたいな方向にはいかなかったんだなぁ。
でも宗教を否定するなら、民衆が縋ることのできる英雄として統治者が偶像化されるのは必須なのかもしれない。本当はそういうの無いほうがいいんだろうけど、そんなに強い人ばかりではないだろうし。神に縋りたくても縋れないなら、代わりの杖が必要だ。箔をつけるために豪華に飾り立てたりして。そうすれば統治しやすくなるという利点もあるし、というかそっちが本命だろうけども。
ソ連って、システム化を推し進めて効率よく合理的になろうとする一方で、ものすごく人間臭いことしてるように思う。人間の弱さを制御しきれなかった感じ。人類には早すぎる社会体制だったのか、というのはこれまでも何度か考えたことはあるけども。

追悼演説では「彼はもうこの世にいない、しかし彼の言葉は私たちの中に生き続ける」「彼の遺言を実行するのだ」「共産主義世界の建設を続けるのだ」というような内容が繰り返し繰り返し述べられていた。ひたすらスターリンを褒め讃え、悲しみを訴え、しかしこれからも進歩の歩みを止めないのだと。あの演説が韻を踏んでいたような気がしたのも、気になるポイントのひとつでした。ロシアは詩人の国だし、民衆を鼓舞するようなことを声高に言うときには語感を良くするのは自然なことだろう。「スターリナ」(「スターリン」の格変化形と思われる)という単語が演説で頻出していたんだけど、ア音で終わる言葉が多かったような気がする。ああでもロシア語わからないので気のせいかも……。そういえば演説は比較的一語一語しっかりはっきり発音されていたので、ヒアリングしやすかったかも。ロシア語がわかれば、ですが。

しかしこの映画の見どころはやっぱり葬儀に参列する人々の顔、顔、顔だった。柩で眠るスターリンを見て涙を流す人は結構いたけど、そもそもあんな長蛇の列に並んでわざわざ死に顔を見に来るくらいのファンだ、そういう人もいよう。一方、各地の会場に大きな花輪を運んでくるのは、多分同志としての行為のひとつだから、そこにどれだけ悼む気持ちがあるかは、うーん、多分グラデーションか。
なにより一番気になるのは、吹雪の中、スピーカー放送されるのを口も利かずじっと聞いている人たち。工場で、寒村で、何も言わずに放送を聞いている人たち。耐え忍ぶ時期をずっと続けてきていて、これからも続けるのであろう人たち。群衆。彼らは何も言わないけども、じっと何かを見つめている。寒空の下、空疎な言葉で煽り立てる放送をじっと聞いている。礼砲に動きを止めた作業現場で、脱いだ帽子を手に持って、ただ黙っている。何を考えているんだろうか。

国葬』、とても良かったです。次は『粛清裁判』を観に行く。