好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

フリオ・リャマサーレス『無声映画のシーン(木村榮一 訳)を読みました

無声映画のシーン

無声映画のシーン

ブックオフで見かけて、好きそうな雰囲気だったので買いました。
何が好きそうだと思ったかというと、この作品のコンセプトです。母親が大事に持っていた30枚の写真を見ながら、12歳までを過ごした故郷の思い出を綴るというスタイル。そして、その写真が本編には一枚も掲げられていないこと。さらに、著者はこの作品を小説と呼んでいること。

 問うべきは死後に人生があるかどうかではなく、死ぬ前に人生があるかどうかである。
 いつかどこかで、この一文を目にした記憶があるのだが(あるいは、夢の中だったかもしれない。結局同じことだが)、母が死ぬまで大切にしまっていたこれらの写真を眺めているときに、ふたたびその言葉がよみがえってきた。この三十枚の写真には、ぼくの人生の最初の十二年間が集約されている。オリェーロスというのは、世界の片隅で誰からも忘れ去られて、山間に身を潜めている鉱山町で、そこでぼくは人生最初の十二年間を過ごした。父はあの町で学校の教師をしていた。ぼくはそこで人生についていろいろなことを学び、生と死は時に同じものであるということを知った。(P.12)

本書の導入、「信用証書が通用する間」の冒頭部分です。もうこの文章からしてたまらなく私好み。続いてオリェーロスという町が鉱山町となるまでの簡単な歴史が語られ、どうやらこの町はスペインにあるらしいことがわかる。そして映画館のポスターに見入る少年の描写から、本編が始まる。

本編といっても、写真ごとに細かく章立てされているので、一つの写真(章)について割かれるのは10ページにも満たない。でもフーガのように、その一つ前の写真から連想されたことが次の章に繋がって……ということがしばしばあるので、やっぱり全部まとめてはじめて、ひとつの小説なのだ。
でもよく考えたらそれは当然だった。この本で語られているのは著者リャマサーレスの思い出なのだから。バラバラのように見えても、最後にはすべてが今の彼に収束する。

小説なのかエッセイ(回想録)なのか、というのは考える必要のない問いだ。ということが、著者自身によって随所で語られる。

 一つひとつの思い出の中には――一枚一枚の写真と同じように――つねに陰になった部分があり、そこにぼくたち自身の人生の一部が隠されている。そういう人生の断片の中には、鮮明に覚えているか、今もそれを生きていると言ってもおかしくないほど重要だったり意味深かったりするものもある。そのような黒い断片は、映写機のせいで切断したり焼け焦げたフィルムのコマと同じで、あまりにも混乱していて、流れを追うことができない。そして何度も繰り返し見ているうちに、結局は話の糸筋が見えなくなってしまうのだ。(P.66-67)

自分の姿が撮られた写真を見てもその時のことが全然思い出せないこともあるし(それはそうだ)、写真と全然関係のない時のことをはっきりと思い出すこともある。映像として覚えていなくても、そのときに聞いた声の調子がやたら頭に残っていることもある。記憶は不完全だ。だから、写真を見て思い出を語る時、そこでは過分に想像による肉付けが行われる。パッチワークのように記憶を繋いで、匂いとか、声とか、そういう材料を駆使してエピソードを生む。それはいつのまにか小説になる。

だからこその『無声映画のシーン』というタイトルだ。30枚の写真の羅列、そこから思い出すことと、思い出せないこと。隙間を繋いで12年間を再構成する。
ジョイスが『ユリシーズ』で彼のダブリンを再構成したのとは全然違うやり方だ。リャマサーレスは、彼の文章の中の「オリェーロス」と、現実の「オリェーロス」の違いを誰よりもよくわかっている。記憶が美化されることも、人間の脳が世界をそのまま認識できないことも知っている。現実と記憶と、そして写真と、どれも本当だと受け入れている。いいなぁ、好きだな。

 あのような色、少なくともぼくたちが見ているような色は、おそらく現実には存在しないのだろう。ものの形は、時間の作用を受けて姿を変える以外、いつまでも変わることはない。それにひきかえ、色彩は光を受けたり、色を見る目が宿っている魂の状態に応じてさまざまに変化する。たえず動いている、つまり絶え間なく変化する映画は、それゆえに色彩をとどめることができず、たえず新しく作り出していく(だからこそ本当の色彩になるのだ)。一方、変わることのない光を眼差しになろうとする写真は、つねに人を欺く。写真は思い出と同じように、持続する時間の中に存在する過去の世界ではなく、その瞬間瞬間の、それゆえにさまざまな顔を見せることもありうる世界をよみがえらせる。(P.143)

最初は写真を使って記憶に分け入るところにゼーバルトを思い出していた。しかしゼーバルトは意図してフィクションに寄せていたけど、リャマサーレスは、多少名前を変えたりしている以外には、そこまで意図してフィクションに寄せていることはしていないようだ(たぶん)。でもやっぱりこの本を小説と呼んでいる。
実際、どこまで本当なのかを読者はジャッジすることができない。写真自体、そもそも存在しないかもしれない。

訳者の木村榮一があとがきで、この本を読むことで自身の子供時代のことをいろいろと思い出したと書いていた。私もそうだった。
特に、10代の頃、覚えていられることがあまりにも少ないことに愕然としたときに必死で記憶を補充しようとしたことを思い出した。小学校の理科室の机が何色だったかということさえ忘れていて、友達と議論したけど意見の一致が得られなかったこととか。理科室の机の色は今も全然覚えてないくせに、理科室の窓から見えた電線の様子は今もなぜか覚えていて、でもあれは図工室だったかもしれない。
どうでもいいような一瞬の光景がずっと記憶に残っているということもある。かと思えばそんなに気にしてないつもりだった一言がずっと消えないこともある。記憶はフラットじゃないみたいなことを、テッド・チャンも書いていたな。そうなんだよなぁ。人体の不思議だ。


リャマサーレスは1955年生まれなので、語られる時代は1960年代のスペイン。フランコについてはよく知らないけど、10歳かそこらの少年にも忍び寄る不穏な気配は感じられました。
しかし美しい文章を書く人だ。訳もいいんだろうな。何度でも読み返せる本でした。すごく良かった。