好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』を読みました

アウステルリッツ(新装版)

アウステルリッツ(新装版)

本屋で見かけて、最初は表紙の少年の写真が妙に目に留まった。ぱらりとめくったら4ページ目の見開き上部に4枚の写真が載せられていて、そこで射抜かれてレジに持っていきました。はい、これは絶対好きなやつ。そして予想を上回る好ましさでした。めっちゃ良い。すべてのページが美しかった。

本書の著者であるゼーバルトは評価の高い作家とのことですが、恥ずかしながら全然知らなかった。『アウステルリッツ』は一応小説なのですが、散文の塊のようでもあり、なんとも不思議な作品。ゼーバルトは2001年に自動車事故で他界したらしく、本書が遺作にあたるとか。そう考えるとラストなどもなんだか考えてしまう。どこへいってしまったの。
私が買ったのは新装版なのですが、装丁がまた良いなぁと思ったら緒方修一さんでした。エクスリブリスの方だ。

さっき散文の塊と表現したのは割と率直な印象で、改行がほとんどない、というのがこの作品の大きな特徴のひとつなのです。282ページある中で、数えるほどしか改行がない。本当です。一文はそんなに短くないけれど、かといってびっくりするほど長くはない。でも読んでるときの息継ぎの隙を縫って一撃を打ち込んでくるので、リズミカルには読めない。そして、そこがとても良い。

(前略)私ははてしなく続く柱廊を、円蓋を、何層もの建物を支えている石のアーチを、どこまでも高く視線をみちびいていく石段や、木の階段や、梯子を、深い奈落に架けわたされた渡り板を、その上にひしめいている豆粒のようなおおぜいの人影を見ました。収容されている人たちだ、この牢獄から逃れる出口を探しているのだ、と思いました、とアウステルリッツは語った。痛む首をこらえながら高みを仰いでいればいるほど、私のいる内部の空間はしだいに拡がっていくかのようでした。(後略)(P.130-131)

アウステルリッツというのはこの作品で自身の半生をひたすらに語る男の名前です。小説の語り手は「私」だけれど、「私」は役柄としては聞き手であって、物語の語り手はアウステルリッツです。「私」はメッセンジャーでしかないのに、この作品では「アウステルリッツが語った」という楔が随所に打ち込まれていて、そのたびにハッとする。ブランコに乗ったとき、前後に行ったり来たりする感覚に似ている。息を吸おうとした瞬間にこの楔が撃ち込まれると、呼吸が乱れる。

アウステルリッツの語りは、もしかしたら能の幽玄世界に似ているのかもしれない。
アウステルリッツは幼少時代の記憶に欠落があり、忘れていた過去を思い出すために旅に出る。過去に過ごした土地を訪ね、一度見たはずの風景を再び目の当たりしたとき、急速に記憶が蘇ったりもする。でもそれは、伝聞から再構築した幻想との区別がつかない。
一方で、聞き手の「私」はアウステルリッツの口から流れ出る言葉から彼の過去を思い描くけど、それは実際の世界ではなくて、いくつものフィルタを通してアウステルリッツによって再構築された世界だ。本書の読者は「私」の書いた文章(ということになってる)を読み、「私」はアウステルリッツが口にした言葉を聞き、アウステルリッツはそれまで出会った人の言葉やそこで見た事物について語る。アウステルリッツが出会った人が語ることの中に、さらに他の人の語りを聞いたことなんかも混じっていたりすると、さらに層が深くなる。
アウステルリッツの語る世界は「いまここ」の話ではないという意味で現実世界とは確実に一線を画している。けど「ここ」の座標が語りの世界と一致したとき、スッと異空間にスライドしていく、その感じが幽玄世界に近いように感じました。世界が二重になるようなイメージ。時空の縛りを飛び越えて「いま」も「ここ」もない世界になる。

一八〇五年十二月二日という日を、ヒラリーは何時間だろうが語りつづけることができました。しかしいかに語ろうと、それでもあまりに多くをはしょりすぎた、というのが彼の意見なのでした。なぜなら、よしんば考えもつかない体系的な方法によって語り得たとしても、とヒラリーは私たちにくり返し言うのです、はたしてその日一日のうちに何が起こったか、正確に、誰がどこでどのように果て、あるいはどのように命拾いしたか、たとえば宵闇が降りてきた時刻ひとつとっても、そのとき戦場がいかなるありさまだったか、負傷兵や瀕死の兵がいかばかり泣き叫び、いかばかり呻いていたか――それらをほんとうに描き出すためには、はてしない時間が必要だからである、と。つまるところ、われわれは自分たちの知り得ないことを、<戦局は二転三転した>といった笑止千万な一行なり、似たり寄ったりの毒にも薬にもならぬ表現なりにひと括りにしてしまうしか、なすすべをもっていない。細部まで眼を凝らしていたと言い張る者をふくめて、われわれはおしなべてとっくの昔に誰かが舞台に載せた大道具小道具を、何度も使い回しているにすぎないのだ。(P.69-70)

時間というものは、とグリニッジの観測室でアウステルリッツは語った、われわれの発明の中でも飛び抜けて人工的なものなのです。時間は、地軸を中心とした地球の自転に準拠しているけれども、だからといってたとえば樹の生長とか、石灰石の溶解する期間をもとにした計測法より恣意的でないとは、けっしていえません。(中略)ニュートンがもし、時間とはテムズの流れのようなものだとほんとうに考えていたなら、時間の源はどこにあり、最後にはどの海に注ぐのでしょうか。周知のとおりどんな河の両側にも岸辺がある。それなら時間の岸辺とはあるでしょうか。時間の波に攫われるものと、時間がけっして触れないものとの違いは? 光の時間と闇の時間を同じ円周上に示すとはどういうことなのか。あるところではとこしえにとどまり鳴りをしずめる時間が、別のところでは怒濤を打って押し寄せるのはなぜか。ひょっとすると、とアウステルリッツは語った、過去何百年、何千年にわたって、じつは時間には同時性がなかった、そうは言えないでしょうか?(P.97)

だめだ、好きなとこちょっとだけ抜粋しようとしただけで際限がなくなってしまう。
しかしこの本の良さというのは、文章だけではなく、随所に挟まれる写真にもあるのです。それはここではうまく説明できないので、ぜひ実物をご覧いただきたい。語り手であり聞き手である「私」がアウステルリッツと初めて出会うことになるアントワープの夜行獣館の、夜の捕食者である梟の大きな眼、そして理知的な初老の男の眼。これらの目元だけをアップにした4枚の写真が、すごいので…

そのほか夜行獣館の動物については、何匹かがはっとするほど大きな眼をし、射るような眼差しを投げていたことだけが記憶にとどまっている。その眼差しは限られた画家や哲学者たちの、ひたすら眼を凝らし、ひたすら考えることによって、周囲を取り巻く闇を透かし見ようとする眼差しと同じものであった。(P.4-5)

アウステルリッツ』、一通り最後まで読んだものの、ディティールの深さが底なしで、読み切った感がまったくないというのが正直なところです。何度でも読めるし、何度でも新しい発見があるんだろうな。
今回は語りの言葉の美しさに酔っ払って、時々歩調を狂わせる楔すら心地よかったけど、次に読むときは取り上げられているオブジェクトのつながりを星座のように辿りたい。多和田葉子さんの解説も素敵でした。あと鈴木仁子さんの訳も、言葉選びがとても丁寧で整っている印象でした。異なる言語で書かれた文章が、美しい日本語で読める幸せよ。

ゼーバルト作品については、2020年5月に『移民たち 4つの長い物語』の新装版が出るらしいので、買います。読みます。嘗めるように一語ずつ味わって、ゆっくり読みます。いまから楽しみだ。