好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

パティ・スミス『Mトレイン』(管啓次郎 訳)を読みました

Мトレイン

Мトレイン

パティ・スミスの名前は一応知っていましたが、この本は訳者の管啓次郎に惹かれて買いましたが、結果的にパティ・スミスのことも好きになった。
河出書房新社から出ているのですが、装丁がいつもさりげなく凝ってて好きな出版社です。今回も表紙の紙質といいデザインといい素晴らしい。装幀は佐々木暁さん。

MトレインのMはMindのM。過去に行っては現在に戻り、夢を見ては目覚めるエッセイ。彼女はお酒を飲まないらしく、全編通してしきりにコーヒーを飲んでいる。海の潮の匂いと、挽きたてのコーヒーの匂いをそばに置いて読めばよかったかな。
本を読み終わってから彼女の曲をいくつかYouTubeで初めて聞いてみました。少女性とハンサムさのバランスが、私の好きな感じでした。デビューアルバム買おうかな。

書かれているのは、彼女の夫フレッドを筆頭に、この世からいなくなってしまった人や物について。どれも素敵なんだけど、私のロマンをくすぐる筆頭はCDC、コンティネンタル・ドリフト・クラブだ。

一九八〇年代初めにデンマークの気象学者によって設立されたCDCは、地球科学コミュニティの或る独立部門として活動する、よく知られてはいない協会だった。会員は二十七名で、両半球各地に散らばっていて、大陸遷移(コンティネンタル・ドリフト)理論のパイオニアであるアルフレート・ヴェーゲナーに対する「想起の永続化」に務めることを誓っている。会則で要求されるのはむやみに人に話さないこと、二年に一度の大会への出席、実際的なフィールドワークをある程度の量こなすこと、そしてクラブのリーディングリストに対するしかるべき情熱。そして全員が、ブレーメンの外港ブレーマーハーフェンにあるアルフレート・ヴェーゲナー極地および海洋研究所の活動を、よく追うことが期待されている。(P.50)


協会のコンセプトからして実に良いのですが、ベルリンで開かれる大会で講演をした話も好き。しかし何より印象的なのは、過去の大会の思い出を語った場面です。
ある偶然から協会の一員となったパティ・スミスは、2007年、アイスランドレイキャビクで初めて大会に参加する。そこでこれまたある偶然からチェス試合の大会委員長の代理を務めることになり、チェスの世界チャンピオンであったボビー・フィッシャーと深夜に面会する機会を得る。ただしチェスの話はしないという約束で。
ボディガードと一緒にフード付きパーカを着て現れたボビー・フィッシャーは最初彼女を警戒して攻撃的な態度を取っていたけれど、途中でパーカのフードを脱いで彼女に訊ねる。

 ――バディ・ホリーの歌を何か知ってるかい、と彼は訊ねてきた。
 それから数時間、私たちはそこにすわったまま歌を歌った。あるときにはひとりずつ、しばしば一緒に、歌詞の半分くらいを思い出しながら。ある時点で、彼は「ビッグ・ガールズ・ドント・クライ」のコーラスをファルセットで歌おうとしたが、彼のボディガードが興奮した様子で駆け込んできた。
 ――異常はありませんか。
 ――ああ、とボビーはいった。
 ――妙な物音がしましたが。
 ――おれがうたってたんだ。
 ――歌ですか?
 ――そう、歌だ。(P.54)


他にも好きな場面はたくさん。ゼーバルトの『アウステルリッツ』が出てきたのは嬉しかった。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』はこの本の中で大きな役割を任されていて、それに関連してとある土地を買う話もお気に入りの一つだ。海辺の古いバンガローに魅了され、買い取る話。

 このあたりは、私が思い出せるよりずっと以前に生じた魔法により、私を完全に魅了していた。私は謎のねじまき鳥のことを考えた。あなたが私をここに導いたのかな、と私は鳥に声をかけた。海に近い、私は泳げないのに。鉄道に近い、私は運転できないから。ボードウォークは、ニュージャージー州南部で過ごした少女時代をこだまさせていた。あちらのボードウォーク――ワイルドウッド、アトランティックシティ、オーシャンシティ――は、もっと活気があるが、これほど美しくはないかもしれない。ここは完璧な場所だと思えた。ビルボードはないし、商業が侵食してくる兆しもほとんどない。そしてあの隠されたバンガロー! それはなんとすばやく私を魅惑したことだろう。そこを改修したところを想像した。考え、スパゲッティを作り、コーヒーを淹れるための場所、書くための場所。(P.170)


彼女のお金の遣い方が好きだ。
彼女はきっと、自分にとって何が大事なのかをしっかり掴んでいる。売れ筋ランキングなんて必要ないのだろうな。自分にとって価値あるものを、自分自身で判断できる人だと思う。大人って、こういう存在のことを言うんだろう。
私もそう在りたいとは思うものの、まだまだ修行が足りなくてふらふらしてしまう。世間や他人の評価に頼りっぱなしにならず、自分にとって価値あるものを手に入れるための嗅覚を育てたい。いざそれが目の前に現れた時には、ためらわず手を伸ばすことができる勇気も欲しい。

パティ・スミスは自分のカフェを開くという夢を持っていて、以前一度実現しかけたことがあるという話を書いていた。しかし結婚で街を離れるタイミングと重なったために、店の手付金も払っていたカフェの方を諦めたという。それをあっけらかんと、後悔ではなく愛すべき思い出として書いている。
場合によっては恨みが残る状況だと思う。何かのために何かを諦めるのって未練が残るし、ああすればよかった、あのときあっちを選んでいれば、というのは後悔のテンプレートの一つだ。特に結婚が絡むと尚更。
でも彼女は、きっと、何かを選ぶという事は何かを選ばないという事であるとわかっているんだろう。そりゃあ総取りが一番いいし、そうできるならそうすべきだけど、同時には叶えられないことはある。右に行くことを選んだら、同時に左に行くことはできない。
もしかしたら彼女だって、どこかで一度や二度、あるいは三度、後悔したことはあるかもしれない。でもたとえそうだったとしても、恨めしい雰囲気をまったく出さずにいられるなら、それはそれで十分ではないか。
きっと、何を選ぶかの基準がはっきりしているんだ。自分で物差しを持っている人だ。いいなぁ、素敵な人だな。

見知らぬ男から宝くじを買い取る場面もすごく好きだったので紹介させてほしい。舞台はスペインのとあるレストラン。

彼は使い古したオックスブラッド色の財布を開けて、たった一枚だけ持っている宝くじ、46172という番号のそれを私に見せた。それが当たりだという感じはしなかったが、私は結局、6ユーロで買ってあげた。宝くじ一枚にしてはずいぶん高い。それから彼は私の隣りにすわり、ビールと冷たいミートボールを注文し、私のユーロで代金を払った。私たちは黙ったまま一緒に食べた。それから彼は立ち上がり、私の顔をじっと見て、にっこりと笑い、「ブエナ・スエルテ(幸運を)」といった。私も微笑み返し、あなたにも幸運をといった。
 この宝くじはまるでムダかもしれないとは思ったが、どうでもよかった。私はよろこんでこの場面に巻き込まれていったのだ、B・トレイヴンの小説の脇役みたいに。幸運だろうがなかろうが、私は演じることを期待されていた役に乗ったわけだ。カルタヘナへの道路の休憩所でバスから下り、どうにも当たらなさそうな宝くじに投資することを持ちかけられる、いいカモ。私の見方では、運命が私にふれ、見知らぬよれよれの浮浪者のような男がミートボールとぬるいビールの食事にありついたというだけのことだった。彼はしあわせだったし、私は世界とひとつになった気がした――いい取引だ。
(中略)
 ――宝くじに払いすぎたと思いません? と朝食のとき訊ねられた。
 私はブラックコーヒーのお代わりをし、黒パンに手を伸ばし、それを小皿に入れたオリーブオイルに浸けた。
 ――心の平静のためには高すぎることなんてないのよ、と私は答えた。(P.188-189)


こういう話を読んで、パティ・スミスをめちゃくちゃ格好いいと思うのは青臭いのかもしれないけど、でもやっぱり格好いいじゃないですか。幸せに生きるにはその人の考え方次第というのを思い出す。私はこういうのが好きなのだ。いいなぁ、素敵な人だな。