好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

岸政彦・柴崎友香『大阪』を読みました

大阪

大阪


私が生まれたのは大阪市内のとある病院ですが、物心つくまえに引っ越してしまったので、大阪の記憶はない。私にとって大阪というのは、母親が生まれ育った街であり、両親が出会った街であり、滅多に会わない叔母が住む街ではあるけど、正直ぜんぜん馴染みのある街ではない。土地勘もない。でもまぁ、買っちゃいましたよね。岸政彦も柴崎友香も好きだから。

「はじめに」で岸政彦が書いているところによれば、岸政彦は1987年に大学進学のタイミングで大阪にやって来て、そのままずっと住み続けている人。そして柴崎友香は大阪で生まれ育って、2005年に大阪を出て行った人。二人が雑誌『文藝』にて「大阪」にまつわるエッセイを交互に書いていた連載をまとめたのが本書です。

結論から言うと、すごく良かったです。大阪という土地の魔力がどこまで働いているのかわからないけれど、書いているのが岸政彦と柴崎友香であるということの魔力はすごく大きいと思う。何を書くかというのは、つまり何を見ているかということに直結するものだ。そして、この二人が見つめているものが私はとても好きなのです。

 でもたぶん、大阪で生まれ育って、ここが地元だったら、私は東京あたりの、別の街に逃げていただろう。私は十八で名古屋から脱出して、大阪に来た。私は大阪に、「出て来た」のだ。もし大阪で生まれ育ったとしても、その地元はおそらく、女たちが殴れられ、泣かされ、働かされ、ただ我慢を強いられる街だったに違いないし、すこし「進んだ」考え方を持った子どもや、塾にも行かずにただ家にこもって本を読んでいるような子どもは、からかわれ、罵られ、仲間外れになるような街だったに違いない。(P.25-26、岸政彦「地元を想像する」)

 中学の後半からやっと、自転車で心斎橋に行ったり、電車やバスで梅田に出たりできるようになって、ようやく、わたしはこの街に居場所があると感じたし、それ以降は、夜に賑やかな路上を一人で歩いているときがいちばん心が安らぐようになった。
 今でもそうで、それは新宿でも渋谷でも、同じだ。旅行で訪れたニューヨークでもそう感じた。
 だから、わたしにとって「この街」がたまたま大阪だっただけで、他の場所で育っていたらそこが「この街」だったかもしれない、と思う。
 しかし、そうだとしても、わたしには「大阪」が「この街」だった。(P.43-44、柴崎友香「港へたどり着いた人たちの街で」)

二人が長く暮らした街である「大阪」、別にそれが「大阪」じゃない世界もあり得たかもしれないけど、この世界ではそれが「大阪」だったというのは不思議な感じだ。それが私にとっては自分の出生地でありながら何の記憶もない土地であるというのが余計に変な感じがするのだけれど、べつにそこに特別な意味はないのである。たまたまそうだったということが良いのだ。
郷土愛とか愛国心という言葉は好きではないし、私は私の地元(幼稚園から高校まで住んでた場所)にそこまで愛着もない。それでも私たちは肉体をあちこち移動させながら生きているので、暮らした街というのはそれなりに身体に馴染むものなんだと思う。治安のあまりよくない地区に親に内緒で遊びに行ったこととか、塾の帰りに寄り道をして遅くなって怒られたこととか、電車通学になってからはわざとターミナル駅で乗り換えて構内を無意味に歩き回ったこととか、大阪と全然関係のない自分の地元のことをぼこぼこ思い出した。そういう風に、自分のことをいろいろ思い出す本だった。

読んでいてしんどかったところもある。しんどかったというのは、不快だったというのではなくて、図星だからつらいという種類のもの。岸政彦パートの「あそこらへん、あれやろ」だ。在日コリアン被差別部落の人に対する差別の話。これがあってこそ、この本が良いものになっているという箇所のひとつなんだけど、しんどいものはしんどい。

 大阪に住んでいると、いろんなひとがいろんなことを言うのを聞く。
 二〇〇九年ごろに、大阪市内のある被差別部落に調査に入ることになって、ある夜、近くの大きな駅からタクシーにのってその地名を言ったら、そこはちょっとした盛り場にもなっていて、特段マイナーな地名でもなかったのだが、そして運転手もまだ三十代か四十代の若い感じのひとだったのだけれども、彼は小さな声で、「あそこは普通のひとが行くとことちゃいますよ」と言った。(P.117-118、岸政彦「あそこらへん、あれやろ」)

日頃は親切で温厚なひとが、唐突に声を潜める瞬間。残念ながら大阪に限った話ではない。それは差別しているという意識を伴わずに発せられる言葉であることがほとんどだと思う。統計データをもとにした悪意のない助言。あなたはこっち側のひとだと思うから言っておくけど、というニュアンスを行間に潜ませて。多分そういう黒いもやのような親切心が、学校の教室の一角に現れたりするのだろう。近づかない方がいいよ、と。そしてそういう経験が、世の中をうまく渡るための処世術として学ばれるのだ。道徳の時間とはまた別の、現実世界の生き方として。大人になるということが、そういうことであるかのように。
そして何より恐ろしいのが、こういう話を読んで「うわっ」と思う私自身が、ほかならぬ私自身が、きっと自分では気づいていないところで似たようなことを誰かに対してやっているんだろうな、ということだ。自分では差別だと思ってもいないような部分で誰かを踏みつけているようなことがきっとあって、それに自分は未だに気づいていないだろうというのは、恐怖だ。なるべく気を付けるようにはしているんだけど。


とはいえ一応生まれた土地ではあるので、一度くらい住んでみたいものだという気持ちはある。しかし大阪、景気悪いんですよね。うちの会社も関西支社があるので「異動したいです!」と言ってはいるけど、コロナ禍の影響もあって転勤のチャンスはしばらく無さそうです。
最近の景気の悪さについて柴崎友香が書いていたことが印象的だったので、少しだけ引用しておく。

 ここ何年も、個人商店や路地的な場所の小さな店がなくなることについて、考えている。あるいは、公園や公共施設が「無駄」とされ、金を稼げる商業施設に取ってかわられていくことについて。それは東京でも大阪でも、どこでも起こっている。つまり、時代の変化、ということかもしれない。
(中略)
それでも、個人商店や商店街の細々とした店がすっかり失われることは仕方のないことではない、と渋谷の新しいビルのエスカレーターで移動しながら思った。
 ここではわたしたちはただお金を使う側にしかなれない。もしくは、大企業の労働者になるか。くっきりと、お金を使う側と、お金を儲ける側が分かれてしまって、そのあいだの流動性はどんどんなくなっていく。お金を使わなければ、居場所がなくなる街になっていくということ。(P.192-193、柴崎友香「大阪と大阪、東京とそれ以外」)


スカイツリーができた時、直結する建物に割と大規模な商業施設がオープンしたことに非常に興ざめしたことをここに告白します。理屈はわかるのだ。展望台を作るなら観光客も来るだろう。でもさぁ、ちょっと金の臭いが強すぎませんか。別に金儲けが罪悪だと言うわけじゃないけど、なんかちょっと、はしたないよな、と思ってしまうのでした。うーん、やっぱり私は金儲けを意地汚いと思ってるんだろうか……


何の記憶もない街ではあるけど、何の縁もない街というわけではないので、それなりに気になる街ではあるようだ、ということを、この本を読んで改めて感じました。読んでよかった。正確には、私の好きなこの二人の文章で大阪についての話が読めてよかった。
大阪万博は2025年の予定ですが、どうなるのでしょうね。そのころには世界も今より落ち着いているだろうし、見たことないようなものを出してきてほしいなぁ。

チャン・リュジン『仕事の喜びと哀しみ』(牧野美加 訳)を読みました

仕事の喜びと哀しみ (K-BOOK PASS 1)

仕事の喜びと哀しみ (K-BOOK PASS 1)

数年前から韓国の現代小説が書店で目立つようになっていたけれど、なんとなく機会を逃し続けてまだ一冊も読んでいなかった。現代韓国小説市場はフェミニズムとすごく強くリンクしている印象で、それが重要な問題であることに異議はないんだけど、私のスタイルとはちょっと違うやり方であるように感じていたので、これまで少し離れているようにしていたのです。それはフェミニズム文学というものが、プロレタリア文学に通じるものがあるからかもしれない。明確な目的のある作品集合体であるということ。
(ちなみに韓国人作家グカ・ハンの『砂漠が街に入り込んだ日』は読んだけど、あれはフランス語で書かれているので韓国小説としてはノーカン)
まぁとにかく、私はフェミニズム運動のための小説は苦手だ。しかし現代韓国小説は読んでみたい……と思っていたところで、先日Youtubeで放送された「みんなのつぶやき文学賞」の第1回結果発表会にて倉本さおりさんが紹介していたのが本書。紹介を聞いてこれは面白そう! と思ったので買ってきました。
ちなみに結果発表会は今もYoutubeにて視聴可能です。

youtu.be

全8篇の短編が収められているのですが、正直に言ってとてもよかった。軽やかで、爽やかで、ちょっと意地悪なところもあるけどキュートでスマートな感じ。著者のチャン・リュジンは私と同年代なのも親近感が湧くポイントだ。
今の韓国ってこんな感じなのかな、というのがすとーんと入ってきました。私は未だに韓国に行ったことがないので(そろそろ行こうと思っていたらコロナ禍になってしまった)想像するしかないのだけれど。

巻頭の『幸せになります』は、ちょっとズレた会社の同期に振り回される話。主人公の私は就職戦線を勝ち抜いてきたしっかり者の女性。同期のクジェとの結婚式を間近に控えたところで、世間知らずで子供っぽい、特に親しくもない(と私は思っている)同期女性ピンナオンニから、結婚式に呼んでよ! と無邪気な催促を受ける。
一般的な結婚式のやり方や招待の仕方などが日本と違うのも面白いんだけど、違わないのは「特に親しくない(という認識の)同性知人との間合いの測り方」の難しさである。私は世俗にまみれた人間なので、断然「私」に感情移入して読んでましたが、こういうピンナオンニみたいな他意のない困ったちゃんは見ててヒヤヒヤする……もっとうまくやりなよ、と思ってしまう。
大人社会で顰蹙を買うような種類の無邪気さは、小説世界では大抵「目に見えない正しさ」みたいな役回りで、世間擦れした主人公の目を覚まさせることになる。この短編でもそういうことにはなるんだけれど、そこに至るまでの有能な「私」の振り回されっぷりがコミカルでありながら妙にリアルで面白い。ネタバレになりそうなので詳しくは言いませんが、一万二〇〇〇ウォン分のプレゼントを買う場面がめちゃくちゃ好きでした。わーかーるー!! そしてこの場面で浮き彫りになるのが「私」の器の小ささでもあるところが、ほんと、チャン・リュジンいい性格だな。この容赦ない感じはすごく好きだ。


しかし韓国が競争社会だというのは噂に聞いていたけど、それが具体的にどういうことなのかというのは、この本を読んでようやくイメージできたように思う。表題作『仕事の喜びと哀しみ』は会社の不条理に振り回される給与所得者の話で、主人公はアプリ開発を手掛けるスタートアップ企業に勤める女性。今時っぽい雰囲気を纏いながら旧態依然から抜け切れてない部分の描き方が素晴らしいです。

 デザイナーのジェニファーは韓国人だ。会社があるのはシリコンバレーではなく板橋(パンギョ)テクノバレーであるにもかかわらず、あえて英語の名前を使う理由は、代表がそう決めたからだ。迅速な意思決定が求められるスタートアップ企業の特性を考慮し、代表から社員まで全員が英語名だけで対等にやり取りするフラットな業務環境を作ろうという趣旨だそうだ。上下関係のある等級体系は非効率的だと。意図は悪くなかった。だが、代表や理事と話すときはみんな「先日、デービッドからご要請のありました……」あるいは「アンドリューがお話になった……」と相変わらず敬語を使っていた。だったらなんでわざわざ英語の名前を使うんだろ? 問題は代表のデービッドがそれをまんざらでもないと思っていることだった。(P.41)


本書全体で、パワハラかましてくる企業トップの話とか、同期の男性と給与が大幅に違う話とか、不合理さを告発する視点をさらりと組み込んでくるバランス感覚が非常に私好みでした。おそらく、そういう要素を排除して書いたとしたら、作品世界の風景が嘘になるのだろう。地球に重力があるように、現代韓国社会には女性にとってやりにくい習慣や風潮が残っていて、それを作品の背景として描くのは、例えば「落ち葉が風に舞っていた」というようなレベルの、ごく当たり前の描写なんだと思う。それを敢えて描かないのはむしろ不自然なレベルの。
『俺の福岡ガイド』の主人公や『真夜中の訪問者たち』の元恋人というような男性たちは、愛情という至極まっとうな感情を持って女性に優しく接しているけれど、本人たちが自覚していない部分で相手の女性を傷つけている。その描き方のさりげなさ、さりげないんだけどちゃんと読み取らせる筆致が、チャン・リュジンという作家の凄いところなんだと思う。なんとなく、キャサリンマンスフィールドを思い出した。

どれも良作ぞろいなんだけど、巻末の『タンペレ空港』が一番好きです。フィンランドタンペレ空港で、飛行機の乗り継ぎのために余った時間を、目がほとんど見えない老人と過ごしたことを思い返す話。若かりし日のキラキラしたものが、日々の労働によって、金のための労働によってだんだんと、しかし確実に失われてしまう様子の描き方が辛くて良い。そしてラストが! いいんですが! さすがにちょっとそれはここでは言えないですね。ネタバレすぎるので。お願い、読んでください。

ほんとうに、どの作品も完成度が高くて素晴らしかったです。これでデビュー作ってすごいな。今後新刊が出たらまた読みたい作家です。すごく良かった。

四方田犬彦『愚行の賦』を読みました

愚行の賦

愚行の賦

書店で見かけて我慢できずに買いました。四方田犬彦の新刊! この分厚さがいい!
四方田犬彦は文章が上手いというのは勿論その通りなんだけど、さらに、興味の引き出しをたくさん持っているらしいところが好きです。師弟関係とかよく知らないんですが、なんとなく澁澤龍彦とか種村季弘とかの系譜を感じる。
そして今回の、「愚行」という論考というテーマ! あらゆるタイミングで自らの愚かさを嘆く日々を送っている私としては、ちょっと素通りできませんでした。どれどれ、と思って書店で目次を見てにんまりしてしまった。

「愚行は人を苛立たせ、魅惑する」
「わが偽善の同類、兄弟よ」
「ぼくはあの馬鹿女のことをみんな書いてやる フローベール
「わたしは本当に白痴だったのです ドストエフスキー
「わたしはなぜかくも聡明なのか ニーチェ
「おまえが深く愛するものは残る その他は滓だ 愚行と後悔」
「馬鹿なことは得意ではない ヴァレリー
「稲妻にさとらぬ人 バルト」
「わたし独りが鈍く暗い 老子
「「愚」と云ふ貴い徳 谷崎潤一郎

このラインナップ、たまらないではないですか! 実際、すごく面白かったです。

そもそも愚行とは何か。批評家としてどのように愚行を語ればよいのか、というところから、筆者は真面目そうに語り出す。

 わたしは考える。世界の医学者がペストに、マラリアに、またエイズに対し撲滅を宣言したように、またアメリカ軍がISに対し徹底壊滅を宣言したように、人は愚行にむかって撲滅を宣言することなどできるのだろうか。人類の歴史を振り返ってみると、過去に愚行に対して果敢なる戦いを挑んだ者たちがいなかったわけではないと、世界の文学は教えてくれる。ラ・マンチャの騎士ドン・キホーテから、トリノの街角で虐待された馬のために涙を流したニーチェまでの、長い長い勇者たちの系譜。だが彼らの一人として、その戦いに勝利したことがなかった。皮肉なことに彼らの多くはその確信を狂気だと見なされ、改めて愚行をなす者として、社会から排除されることになった。地上から愚行を一掃することが可能だと認識した瞬間に、彼らは絶望的なまでに愚行に陥ってしまった。なぜなら愚行に戦いを挑むことが、すでにして愚行の典型であるからだ。(P.13)

2019年8月から2020年2月に『群像』に連載されたものをまとめたのが本書とのこと。東西の「愚」の語源を紐解き、ドゥルーズボードレールベケットや『ガリバー』に言及したのち、フローベールの『ボヴァリー夫人』を愚行という観点から語りはじめる。そこからドストエフスキーの『白痴』と続いていくのですが、これらがまた、とても私好みの面白さでした。
例えば『ボヴァリー夫人』について。

 この小説では、あらゆる人物が愚行を繰り返しているわけなのだが、作者は意地悪くもそれを三つの典型に分類し、それぞれを三人の登場人物に振り当てている。すなわち愚鈍を性として、状況の認識把握能力の完璧な欠如から来る愚行。過剰な空想癖が昂じて、生活の現実から転落してしまう愚行。そして科学振興と尽きせぬ知的好奇心により、問題の本質を取り逃がしてしまう愚行。フローベールはこの三つの愚行をそれぞれ、シャルル、エンマ、薬剤師オメエに振り当てている。(P,114-115)

では『白痴』はどうか。

 この長編小説が発表されて以来この方、ムイシキンという名は単なるロシア小説の主人公を離れ、ハムレットドン・キホーテと同様、無垢にして愚かな人間の典型と見なされるにいたった。彼はもはや文学史のなかで、普遍的人間像として記憶されている。仏教文化圏に生を享けたわたしには、そうした構図は自然と胎蔵界曼荼羅を連想させる。絶対の愚を体現する公爵を中心に、大小さまざまな愚者がそれぞれに固有の場所をもち、グロテスクにして奇怪な星座布置を築き上げているのだ。人間は理性の光に導かれて幸福への道を歩むのだというイデオロギーが支配的なものとして機能していた19世紀ヨーロッパにおいて、ドストエフスキーがそれに対抗し、狂人と白痴が跳梁し、愚行という愚行がパノラマのように展示されている長編小説を執筆したことは記憶されるべきことである。(P.155)

ヨーロッパの文学者や思想家がメインですが、最後には谷崎潤一郎を出してきてくれたのは嬉しかった。そうですよねぇ、愚行といったら谷崎でしょう!


私は多感な10代だった頃、無謬の人生というのにそれはもう憧れて、ほんの小さな間違いですべてが終ったような気持になったりしていたものでした。これまでに自分がやってきたありとあらゆる愚かな振る舞いを思い出しては凹み、できることなら産まれた時から人生やり直して、一つも間違えない存在になりたかった。今となってはそこまで神経質なことは考えなくなったけど(大人になると面の皮が厚くなると聞いていたけど、本当だった)、それでも愚行を恐れる気持ちはまだ残っていると思う。完璧さへの憧れみたいなもの。何一つうまくできないからこそ、何でも上手にこなしたいって願うんだろう。ないものねだりの一つだ。
しかしなぁ、この本で紹介されているあらゆる先達や創作上の人物がそうであったように、愚かな振る舞いを極度に恐れることそれ自体が、他人から見れば愚かな振る舞いに見えてしまうものなんですよね。「それは愚行である」というのは結局は主観によるものだ。だから誰かから愚かだと笑われたときに「だから?」と笑い返すことができる人こそが最強なんだと思う。愚かな自分を受け入れるくらいの心の遊び部分があるといいなぁ。できることなら愚かであることを讃えるくらいの境地に行きたいものだ。大人になっていろいろと寛容になったので、昔に比べれば我ながらかなり丸くなったとは思うけど、まだそこまでは達してないな。というか簡単にそんな境地に至れるのなら誰も苦労はしないものだ。

例えば人間の寿命が無限になれば、無駄という概念がほぼなくなるはずなので、そのときはじめて愚行というものが撲滅されうるのかもしれない。しかし世界が有限である以上、我々の人生は選択の連続であり、その選択において大多数から見て無意味と思われる選択をすると容赦なく愚行の烙印を押され続けることになるだろう。
とはいえ「愚行」って、もしかして、ものすごく贅沢な嗜好品なのでは? しなくていいことをするって、最高じゃないですか。私は真面目なタイプの人間だけど、いつかどこかでこれまでの人生全部棒に振りたいっていう欲望をこっそりと持っている。馬鹿なことを、と言われるようなことを「敢えてする」ことは最高級の快楽なのではないか。それは悪魔の誘惑なのかもしれないけど、絶対最高に気持ちがいいと思うのだ。だから私は谷崎が好きなんだろうな。

そんなことをつらつら考えながら読んでいました。とっても楽しい読書でした。

山尾悠子『山の人魚と虚ろの王』を読みました

山の人魚と虚ろの王

山の人魚と虚ろの王

  • 作者:山尾悠子
  • 発売日: 2021/02/27
  • メディア: 単行本

『飛ぶ孔雀』で初めて山尾悠子を知って恋に落ちる勢いで好きになり、今回の新刊も喜び勇んで買いました。函入りで美しい装丁はさすが国書刊行会、気合入ってる!
寝る前に少しずつ読んでいて、実は結構前に読み終わってはいました。ずっと心の中でもぐもぐしていたのですが、このままでは永遠に咀嚼が終らなさそうなので、この辺で一回出しておくことにする。総じて夢の中にいるみたいで実に良かった。とっても山尾悠子だった。

ストーリーについて一応触れておくと、語り手の「私」が歳の離れた若い妻との新婚旅行を思い出し語るというものです。新婚旅行の目玉はホテルに改装された豪奢な「夜の宮殿」、そこで亡き伯母が率いていた舞踏団が代表作「山の人魚と虚ろの王」の舞台公演を繰り広げている。そんな折、突如伯母の葬儀が新婚旅行の予定にねじ込まれて、二人は「私」の実家である「山の屋敷」に向かう。

「夜の宮殿」ではあちらこちらでお祭り騒ぎ。旅行中は度々妻の女代理人なる人物から電報や電話で指示が入り(急な葬儀への出席要請もそのひとつ)、「私」の死んだ母親と実家で再会したり、若い妻が降霊会で空中に浮き上がったりするというファンタスティックなエピソードが挿入される。語りの時間軸は行ったり来たりしてどこまでが本当の事だか最早分らない。記憶というものの曖昧さという特性がカーニバルっぽさを増長させているようです。

読んでいる間は夢の中みたいだと感じていた。でもこれ、舞台公演だったんじゃないかと、読み終わって落ち着いてから思いました。まぁ演劇もひとつの夢と言えなくもないけれど。

以下、特に説明もなくストーリーに触れています。
まだあまり自分の中でまとまってないので、わりとしっちゃかめっちゃかですが、一応隠しておきますので未読の方はご注意ください。

続きを読む

パティ・スミス『Mトレイン』(管啓次郎 訳)を読みました

Мトレイン

Мトレイン

パティ・スミスの名前は一応知っていましたが、この本は訳者の管啓次郎に惹かれて買いましたが、結果的にパティ・スミスのことも好きになった。
河出書房新社から出ているのですが、装丁がいつもさりげなく凝ってて好きな出版社です。今回も表紙の紙質といいデザインといい素晴らしい。装幀は佐々木暁さん。

MトレインのMはMindのM。過去に行っては現在に戻り、夢を見ては目覚めるエッセイ。彼女はお酒を飲まないらしく、全編通してしきりにコーヒーを飲んでいる。海の潮の匂いと、挽きたてのコーヒーの匂いをそばに置いて読めばよかったかな。
本を読み終わってから彼女の曲をいくつかYouTubeで初めて聞いてみました。少女性とハンサムさのバランスが、私の好きな感じでした。デビューアルバム買おうかな。

書かれているのは、彼女の夫フレッドを筆頭に、この世からいなくなってしまった人や物について。どれも素敵なんだけど、私のロマンをくすぐる筆頭はCDC、コンティネンタル・ドリフト・クラブだ。

一九八〇年代初めにデンマークの気象学者によって設立されたCDCは、地球科学コミュニティの或る独立部門として活動する、よく知られてはいない協会だった。会員は二十七名で、両半球各地に散らばっていて、大陸遷移(コンティネンタル・ドリフト)理論のパイオニアであるアルフレート・ヴェーゲナーに対する「想起の永続化」に務めることを誓っている。会則で要求されるのはむやみに人に話さないこと、二年に一度の大会への出席、実際的なフィールドワークをある程度の量こなすこと、そしてクラブのリーディングリストに対するしかるべき情熱。そして全員が、ブレーメンの外港ブレーマーハーフェンにあるアルフレート・ヴェーゲナー極地および海洋研究所の活動を、よく追うことが期待されている。(P.50)


協会のコンセプトからして実に良いのですが、ベルリンで開かれる大会で講演をした話も好き。しかし何より印象的なのは、過去の大会の思い出を語った場面です。
ある偶然から協会の一員となったパティ・スミスは、2007年、アイスランドレイキャビクで初めて大会に参加する。そこでこれまたある偶然からチェス試合の大会委員長の代理を務めることになり、チェスの世界チャンピオンであったボビー・フィッシャーと深夜に面会する機会を得る。ただしチェスの話はしないという約束で。
ボディガードと一緒にフード付きパーカを着て現れたボビー・フィッシャーは最初彼女を警戒して攻撃的な態度を取っていたけれど、途中でパーカのフードを脱いで彼女に訊ねる。

 ――バディ・ホリーの歌を何か知ってるかい、と彼は訊ねてきた。
 それから数時間、私たちはそこにすわったまま歌を歌った。あるときにはひとりずつ、しばしば一緒に、歌詞の半分くらいを思い出しながら。ある時点で、彼は「ビッグ・ガールズ・ドント・クライ」のコーラスをファルセットで歌おうとしたが、彼のボディガードが興奮した様子で駆け込んできた。
 ――異常はありませんか。
 ――ああ、とボビーはいった。
 ――妙な物音がしましたが。
 ――おれがうたってたんだ。
 ――歌ですか?
 ――そう、歌だ。(P.54)


他にも好きな場面はたくさん。ゼーバルトの『アウステルリッツ』が出てきたのは嬉しかった。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』はこの本の中で大きな役割を任されていて、それに関連してとある土地を買う話もお気に入りの一つだ。海辺の古いバンガローに魅了され、買い取る話。

 このあたりは、私が思い出せるよりずっと以前に生じた魔法により、私を完全に魅了していた。私は謎のねじまき鳥のことを考えた。あなたが私をここに導いたのかな、と私は鳥に声をかけた。海に近い、私は泳げないのに。鉄道に近い、私は運転できないから。ボードウォークは、ニュージャージー州南部で過ごした少女時代をこだまさせていた。あちらのボードウォーク――ワイルドウッド、アトランティックシティ、オーシャンシティ――は、もっと活気があるが、これほど美しくはないかもしれない。ここは完璧な場所だと思えた。ビルボードはないし、商業が侵食してくる兆しもほとんどない。そしてあの隠されたバンガロー! それはなんとすばやく私を魅惑したことだろう。そこを改修したところを想像した。考え、スパゲッティを作り、コーヒーを淹れるための場所、書くための場所。(P.170)


彼女のお金の遣い方が好きだ。
彼女はきっと、自分にとって何が大事なのかをしっかり掴んでいる。売れ筋ランキングなんて必要ないのだろうな。自分にとって価値あるものを、自分自身で判断できる人だと思う。大人って、こういう存在のことを言うんだろう。
私もそう在りたいとは思うものの、まだまだ修行が足りなくてふらふらしてしまう。世間や他人の評価に頼りっぱなしにならず、自分にとって価値あるものを手に入れるための嗅覚を育てたい。いざそれが目の前に現れた時には、ためらわず手を伸ばすことができる勇気も欲しい。

パティ・スミスは自分のカフェを開くという夢を持っていて、以前一度実現しかけたことがあるという話を書いていた。しかし結婚で街を離れるタイミングと重なったために、店の手付金も払っていたカフェの方を諦めたという。それをあっけらかんと、後悔ではなく愛すべき思い出として書いている。
場合によっては恨みが残る状況だと思う。何かのために何かを諦めるのって未練が残るし、ああすればよかった、あのときあっちを選んでいれば、というのは後悔のテンプレートの一つだ。特に結婚が絡むと尚更。
でも彼女は、きっと、何かを選ぶという事は何かを選ばないという事であるとわかっているんだろう。そりゃあ総取りが一番いいし、そうできるならそうすべきだけど、同時には叶えられないことはある。右に行くことを選んだら、同時に左に行くことはできない。
もしかしたら彼女だって、どこかで一度や二度、あるいは三度、後悔したことはあるかもしれない。でもたとえそうだったとしても、恨めしい雰囲気をまったく出さずにいられるなら、それはそれで十分ではないか。
きっと、何を選ぶかの基準がはっきりしているんだ。自分で物差しを持っている人だ。いいなぁ、素敵な人だな。

見知らぬ男から宝くじを買い取る場面もすごく好きだったので紹介させてほしい。舞台はスペインのとあるレストラン。

彼は使い古したオックスブラッド色の財布を開けて、たった一枚だけ持っている宝くじ、46172という番号のそれを私に見せた。それが当たりだという感じはしなかったが、私は結局、6ユーロで買ってあげた。宝くじ一枚にしてはずいぶん高い。それから彼は私の隣りにすわり、ビールと冷たいミートボールを注文し、私のユーロで代金を払った。私たちは黙ったまま一緒に食べた。それから彼は立ち上がり、私の顔をじっと見て、にっこりと笑い、「ブエナ・スエルテ(幸運を)」といった。私も微笑み返し、あなたにも幸運をといった。
 この宝くじはまるでムダかもしれないとは思ったが、どうでもよかった。私はよろこんでこの場面に巻き込まれていったのだ、B・トレイヴンの小説の脇役みたいに。幸運だろうがなかろうが、私は演じることを期待されていた役に乗ったわけだ。カルタヘナへの道路の休憩所でバスから下り、どうにも当たらなさそうな宝くじに投資することを持ちかけられる、いいカモ。私の見方では、運命が私にふれ、見知らぬよれよれの浮浪者のような男がミートボールとぬるいビールの食事にありついたというだけのことだった。彼はしあわせだったし、私は世界とひとつになった気がした――いい取引だ。
(中略)
 ――宝くじに払いすぎたと思いません? と朝食のとき訊ねられた。
 私はブラックコーヒーのお代わりをし、黒パンに手を伸ばし、それを小皿に入れたオリーブオイルに浸けた。
 ――心の平静のためには高すぎることなんてないのよ、と私は答えた。(P.188-189)


こういう話を読んで、パティ・スミスをめちゃくちゃ格好いいと思うのは青臭いのかもしれないけど、でもやっぱり格好いいじゃないですか。幸せに生きるにはその人の考え方次第というのを思い出す。私はこういうのが好きなのだ。いいなぁ、素敵な人だな。

松本清張『昭和史発掘 13』を読みました

ノンフィクションシリーズ『昭和史発掘』、全13巻の最終巻を読み終わりました!
父親のお下がりの古い版で、主にお風呂の中でちょっとずつ読み進めていました。ブログ記事を確認したら、1巻の感想は2020年3月15日にアップしているので、ちょうど一年お付き合いしたことになりますね。うーん、感無量。
なおISBNがついていないので、リンクは無しです。

読み始めたころは64年まである昭和を一体どうやって描くのかと思いましたが、二・二六事件で完結でした。年号としては昭和12年まで。
最終巻の目次は以下の通りです。

二・二六事件 七
・判決
・終章

12巻では蹶起将校と一般兵士たちの裁判について書かれていました。
13巻の「判決」は、蹶起将校たちの処刑の様子と、北一輝西田税という思想上のリーダーである(ということにされた)二人に対する判決の経緯、そして蹶起将校たちを味方のような台詞で鼓舞しておきながら見事無罪を勝ち取った真崎甚三郎の判決までの経緯などが書かれています。

13巻の冒頭は、二・二六事件に大きな影響を与えた相沢三郎中佐の公判結果から。相沢は武力行使によって怒りを示し、公判にて自説を開陳する機会を得て同情を集めたけど、最終的には死刑となる。
というか13巻はもう死刑のオンパレードでした。そうなるとどうしても注目してしまうのは、彼らがどのように死んでいったかです。正直、死に方を気にするのって、その人の人生を最期の瞬間に集約させるようで嫌だなって思っている。そこに注目してしまう自分に気が引ける。フィクションならいいのだ。最期の場面というのは、その登場人物の人となりや本質を表現するための演出であることが多々あるので。ただ、ノンフィクションでもそういう読み方をしようとしてしまう自分が嫌になる。

松本清張は職人だから過剰にロマンチックな演出はしない。しかし事実として記載して、おそらく彼自身も特筆すべき点として気にしていたのが、死にゆく彼らの天皇に対する態度です。

相沢中佐が処刑されたのは7月3日未明。相沢も蹶起将校たちも、同じ留置所に勾留されていた。そのため相沢が刑場への途中で大声で天皇陛下万歳を三唱した声が、まだ寝ていた将校たちを起こしたという。

そしてその2日後の7月5日に蹶起将校たちに判決が下る。民間人含め、計17名に対して死刑の判決。その執行は、わずか一週間後の7月12日。
しかし17名のうち、村中幸次と磯部浅一の2名は刑の執行を延期されています。これは、北一輝西田税の裁判の証人としての仕事が残っているため。
処刑の様子は村中と磯部の遺書にも記載があり、さらに執行に関わった大尉と看守の記録も残っている。
以下は村中の遺書からの抜粋。

「十二日朝、十五士の獄舎よりの国歌を斉唱するを聞く、次いで、万歳を連呼するを耳にす、午前七時より、二、三時間軽機関銃、小銃の空包音に交りて、拳銃の実包音を聞く、即ち死刑の執行なることを手にとる如く感ぜらる、磯部氏遠くより余を呼んで『やられてゐますよ』と呼ぶ、余東北方に面して坐し黙然合掌、噫、感無量、鉄腸も寸断せらるるの思なり、各獄舎より『万歳』『万歳』と呼ぶ声砌りと聞ゆ、入所中の多くの同志が、刑場に臨まんとする同志を送る悲痛なる万歳なり、磯部氏又呼ぶ『私はやられたら直ぐ血みどろの姿で陛下の許へ参りますよ』と、余も『僕も一緒に行く』と呼ぶ、嗚呼今や一人の忠諫死諫の士なし、余は死して維新の招来成就に精進邁進せん。(後略)」(P.74)

万歳を唱えたのは相沢の影響だろうけど、提案したのは香田という大尉。
私にはこの万歳の本当の意味は分らない。というか、もはや誰にもわからない。彼らはもういない。後から誰かがしたり顔で解説したって、それは事実ではなく、単純にフィクション的な演出になってしまう。
演出になってしまうって、分っているけど、気になってしまう。
彼らとしては間違った社会の状況を突きつけて天皇の目を覚まさせるという大義名分のもとに事件を起こしたはずなのに、その天皇からの恩赦はなく、自分たちが叛乱軍として裁かれて死をもって償えと言われる。そこで、万歳三唱するって、だってそれって。
相沢中佐はね、彼はちょっとタイプが違う人っぽいので、本気で言ってたかもしれないと思う。でもこの15人は、違うでしょ。まぁそういう人もいたかもしれないけど、これから起きることに対して自分を鼓舞するためというか、犬死ではなく理由のある最期なんだと自分に言い聞かせるためというか、そういういろんな理由があっての万歳三唱だと思う。ほんと、しんどい。

そして死刑が延期された磯部の遺書に度々現れる「直諫」に籠った怨念にノックアウトされる。

「八月十四日
 相沢中佐、対馬天皇陛下万歳と云ひて銃殺された、
 安藤はチチブの宮の万歳を祈つて死んだ
 余は日夜、陛下に忠諫を申し上げてゐる、八百万の神々を叱つてゐるのだ、この意気のまま死することにする
 天皇陛下 何と云ふ御失政で御座りますか、何故奸臣を遠ざけて、忠烈無雙の士を御召し下さりませぬか
 八百万の神々、何をボンヤリして御座るのだ、何故御いたましい陛下を御守り下さらぬのだ
 これが余の最初から最後迄の言葉だ
 日本国中の者どもが、一人のこらず陛下にいつはりの忠をするとも、余一人は真の忠道を守る、真の忠道とは正義直諫をすることだ(後略)」(P.115-116)

そして松本清張は磯部の怨念を度々引用しながら、冷静に指摘している。磯部は天皇制と天皇個人を混同していると。

 ――磯部は、天皇個人と天皇体制とを混同して考えている。古代天皇の個人的な幻想のみがあって、天皇絶対の神権は政治体制にひきつがれ、「近代」天皇はその機関でしかないことが分らない。天皇の存立は、鞏固なピラミッド型の権力体制に支えられ、利用されているからで、体制の破壊は天皇の転落、滅亡を意味することを磯部らは知らない。(P.110)

天皇機関説の経緯も、『昭和史発掘』で書かれていたなというのを読者である私は懐かしく思い出す。すべて繋がっている。

磯部と村中は、北と西田は本事件には無関係であると証言をして必死に彼らを助けようとするけれど、政治的判断によって死刑となってしまう。
実際のところ、北も西田も事件の蚊帳の外だった。将校たちの思想には影響を与えたかもしれないけれど、決行についてはほぼノータッチだったという。

北と西田の死刑判決は、8月14日に下された。そして5日後の8月19日に、磯部、村中、北、西田の刑が執行される。
結局彼ら4人は誰も、執行前に天皇万歳を唱えなかった。

 田中の前掲書は、北、西田の最後を次のように伝える。
「その翌日、この日は北と西田との処刑の日である。代々木の練兵場の片隅にあるバラックの仮刑場にかたのごとき順序で立ったとき、西田は天皇陛下万歳を三唱しようといった。北はしずかに制して、それにはおよぶまい、私はやめると言い、そのまま銃声とともに万事は終ったといわれる」(P.161)

西田と北の差異が…とか考えてしまう自分が嫌なんだってば。しかし興味深くはある。西田はなんでまたわざわざ万歳三唱しようとしたんだ。善人として人生を終えるためだろうか。南無阿弥陀仏とかアーメンみたいな精神効用があるんだろうか。現代人にはわからない感覚なのかもしれない。1909年生まれの松本清張にとっては、もう少し近い感覚なのだろうか。


こうしてついに全13巻を読み終えてしまいました。当然全部頭に入ったわけではないけれど、読む前よりは流れを把握できるようになったとは思います。このあとさらに世界はこんがらがってくるわけですけども。
読み切れてよかった。充実した読書でした。松本清張ってやっぱりジャーナリストだなと思う。

映画『DAU. ナターシャ』を観てきました

www.transformer.co.jp

2021年に初めて映画館で観た映画となりました。監督はロシアのイリヤ・フルジャノフスキー、舞台は1952年のソ連
ソ連時代の某研究施設での話なのですが、出演する人々が「ソ連時代を完全に再現したセットで2年間生活」するプロジェクトによって生まれた作品であるという話が興味を引いたので、映画館に足を運ぶことにしたのでした。

撮影は徹底的にこだわって行われ、キャストたちは当時のように再建された研究所で約2年間にわたり実際に生活し、カメラは至るところで彼らを撮影した。本作には本物のノーベル賞受賞者、元ネオナチリーダーや元KGB職員なども参加。町の中ではソ連時代のルーブルが通貨として使用され、出演者もスタッフも服装も当時のものを再現した衣装で生活。毎日当時の日付の新聞が届けられるという徹底ぶりで、出演者たちは演じる役柄になりきってしまい、実際に愛し合い、憎しみ合ったという。
(公式サイト イントロダクションより抜粋)

現代に生きる人々が、フィクション作品としての映画を、複製されたソ連時代の生活を実際に送りながら作り上げる。昨年観たロズニツァ監督の『粛清裁判』を思い出させました。『粛清裁判』は実際の裁判記録映像を編集しなおしたドキュメンタリーだったけど、裁判で争われている事件は存在しない架空の事件であって、ある意味でフィクションとドキュメンタリーの混合だった。この『DAU. ナターシャ』はフィクションなんだけど、ドキュメンタリーに近い手法で撮られているのかもしれない。


簡単にあらすじを紹介しておくと、こんな感じです。
主人公のナターシャは、舞台となっているソ連の某研究施設の食堂で働く女性。もう若くはないけれどまだ美しく、まだ若く且つ美しいオーリャと2人で食堂を切り盛りしている。食堂がひけるとナターシャとオーリャは食堂の酒と食材で酒盛りをし、愛について語ったり酔っ払って大喧嘩したりする。そんなある夜、オーリャの家で開かれたパーティに呼ばれたナターシャはフランスから来ている科学者と知り合い、その夜のうちに肉体関係を持つ。しかしその後、ナターシャは突然当局に呼ばれ、理不尽な訊問を受けることになる。


132分の映画ですが、8割くらいの時間は誰かがお酒を飲んでいた気がする。若いオーリャは笑い上戸で、酔うと大声出してきゃあきゃあ騒ぐタイプ。そしてフランス人科学者と知り合うきっかけになるオーリャの家でのパーティの場面ではみんながものすごく盛り上がって楽しそうにどんちゃん騒ぎをしている。
それでもその裏に、何か冷たくてどす黒いものが横たわっている気配がずっと消えないのだ。登場人物がひとりになると、すっと心の温度が下がるのを感じる。彼らの誰の心にも棲んでいて、ふとした時に顔を出す虚無。
だってずっとお酒飲んでるにもかかわらず、彼らは全然美味しそうにしていない。味なんかわからない、酔えればいいって感じ。太宰治の小説のあの台詞が頭をよぎって仕方なかった。

「ずいぶん、お酒を召し上りますのね。毎晩ですの?」
「そう、毎日。朝からだ」
「おいしいの? お酒が」
「まずいよ」
(太宰治『斜陽』新潮文庫改版 P.173より)


とはいえ私は彼らを可哀そうと思っているわけではない。だって、そんな対岸の火事みたいに彼らを見ているほどの余裕があるだろうか?
ソ連は失敗だったって、あんなの頭でっかちの机上の空論だったんだって、そら見たことかって調子で歴史は語る。しかし資本主義社会に生きる私たちの世界は、彼らを嗤うことができるほどに上等なものだろうか。完璧な社会なんてこれまでどこにもなかったはずだ。
そもそも生きること自体がどうしたって痛みを伴うものだ。人間という存在が、個々の肉体に個々の私が閉じ込められているという形をとっている以上、身体が壊れれば誰だって簡単に死んでしまう。生きとし生けるものはすべからく、最後の最後はただ等しく死ぬだけで、一時の幸せもただその時だけのものだろう。
どうして私ばっかりこんなに不幸なのって泣く夜は誰だってある、ソ連とかロシアとかアメリカとか日本とか関係なく、ある。50年前でも30年前でも、多分100年後でもある。一人きりの夜に突然悲しみや虚しさが臨界点を突破して、コップの水が溢れたみたいに泣き喚いたりすることはきっと誰にだって起きうることだ。(そんな経験一度もないって人は、ぜひこれからも幸せに生きてください)
映画の中でナターシャにもそういう時間が訪れるんだけど、もうそれを観ている時が一番つらかった。バイオレンスな取調べよりもずっとしんどかった。「ちゃんとするのよナターシャ、あなたは立派な大人の女なのよ」みたいなことを自分に言い聞かせているところが辛くて。そして文字通り、次の日には何事もなかったかのようにちゃんと仕事をしている彼女がとっても偉かった。あなたはとても格好いいよ、ナターシャ。

取調べの男(秘密警察か何か?)はフランス人科学者を嵌めるためにナターシャに嘘の告発を強制するんだけど、彼女のことをちょろい感じの女だと思っていた。実際ちょろいところはあるんだけど、彼女はこの社会で生きていて、明日からも生きていかなくちゃいけない立場なのだ。嘘の告発だってするだろうし、そこに何か理由をつけたくもなる。そういう状況って多分、何が正しいとか正しくないとかあまり関係なくなるんじゃないだろうか。これからも人生を続けるならそうなるだろうし、正義を貫く理由もないよな。
ナターシャの辛さが、彼女が生きる社会がソ連であることに由来している部分は確かにあるだろう。でもソ連だけの話ではなくて、日本とかアメリカとかでも、その時代その場所特有の事情が個人に特殊な行動を強制することは多々あるのだと思う。同じ事象として発生しなくても。そして、その時代その場所に生きていると、それが異常なことなんだってことすら気付けなかったりするものだ。


観終わってからもそんなことを考えて鬱々としていました。ハッピーになる映画ではない。けどこういうのは好き。
ほかにもナターシャとオーリャが喧嘩する場面もすごく良かったし、怪しげな実験の場面もいかにもソ連デザインって感じの実験器具で面白かった。あれもモデルがあるのだろうな。

DAUプロジェクトは第二弾もあるらしいので、ぜひ観たいです。日本でも公開してほしいし、フルジャノフスキー監督にはぜひ第三弾以降も作ってほしい。よろしくお願いします。