好物日記

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映画『粛清裁判』を観てきました

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セルゲイ・ロズニツァ監督のドキュメンタリー映画三作が、<群衆>と題して公開されています。そのうちの一つ、『粛清裁判』(2018)を観てきました。
先日『国葬』(2019)の感想をアップしましたが、同じくソビエト連邦スターリン時代の話です。ちょうど『国葬』と対になる話ともいえる。

既存のフィルムを繋ぎ合わせて一つのドキュメンタリー作品とした映画を、アーカイヴァル映画というらしい。『国葬』も『粛清裁判』も、このアーカイヴァル映画にあたります。そして今回もめちゃくちゃ良かったのでパンフレットを買ったのですが、情報量がたっぷりで実に満足でした。池田嘉郎さんによる社会背景を踏まえた解説がとてもありがたかったのと、池田さんと沼野充義さんの対談がとても面白かった。<群衆>の3作のうち2作以上観るなら、十分に元はとれるかと。特に私はソ連の歴史に疎いので、副読本として重宝しています。まだ『アウステルリッツ』が未鑑賞なので、全部は読めていませんが……。

パンフレットによれば、『粛清裁判』と『国葬』の製作の契機となったのは、2017年にモスクワの郊外で大量に発見された、スターリンに関するアーカイヴ映像。これが映画の素材となっており、この発見なくして2つの映画の作成はなされませんでした。しかしロズニツァは、素材を実に巧みに料理しますね。


『粛清裁判』は、1930年に行われた裁判の記録映像を使った映画です。「産業党裁判」と呼ばれる有名な裁判らしいのですが、正直全然知らなかった。被告人は大学教授や研究所の技師など8名(のちに1名加わり、最終的には9名となる)。罪状は、ソビエト連邦に対するクーデター計画を企てたこと。破壊工作によって国家の計画を滞らせ、海外出張にかこつけて西側諸国と連絡を取り、他国による武力介入を目論んだこと。国家に対する、同志に対する背信
裁判長によって罪状が読み上げられ、事実確認のために彼らが犯した犯罪行為が細かく語られ、被告人がそれぞれ弁明を行い、検事によって銃殺刑が要求され、最後に判決が言い渡される。裁判は何日も続くが、会場には毎日多くの群衆が詰めかけ、毎夜広場では被告人の銃殺を求めてシュプレヒコールが起きる。ボリシェヴィキ万歳、ウラー!

しかしですね、これはネタバレっていうか知ってた方が映画が面白くなるから言っちゃうんですけど、この「産業党裁判」というのは、スターリン総監督によるでっち上げパフォーマンスなのでした。被告らが所属していたという地下組織「産業党」など存在しなかったのだ。
予習なしで行った私は映画の最後で明かされたこの事実に唖然としてしまった。な、なんだってー!!

彼らは技術者であり、科学に関する高いレベルの知識を持っていたのは事実です。海外出張を度々していたのも事実。ただ、この裁判自体が綿密な打ち合わせによって同志たちに見せつけるための劇場だったということだ。スターリン、すごいな……そこまでする? そしてそういうことを、実現できちゃうんだ?

いや確かにね、あれ? とは思ったんですよ。被告人の皆が皆、裁判の冒頭であっさりと自分の罪を「認めます」とか言っちゃうし、弁明はするけど「私の罪は明らかであり、それ相応のことをしたと思っている」とか言って、ずいぶん物分かりいいし。一人くらい「私は何も悪くない! この国は間違っている!」とか言わないもんかね? と思っていたけど、そりゃあ言わないよなぁ。台本があるんだもんなぁ。下手な芝居なんかしたら本当に命の危機だ。

どうして被告人役を割り当てられたのが高学歴のインテリである技師たちなのかというのは、まぁわかる。彼らはもともと共産主義者でない人が多数であったらしいし、そういう意味で立場的に、脛に傷をもつ人たちだ。群衆の中でちょっと異質な存在であった技師たちが、裁かれる役にはちょうどいい。
実際に被告人役を演じている彼らは本当に技術者だったわけで、なんか、佇まいが学者なんですよね。フェドトフとか、いかにも学者然としていて、長い間研究生活されてたんだろうなと思う。それこそ帝政時代から、ずっと。そこが印象的でした。
そういえば被告の罪を責めるときに、クーデターが起きて資本家たちや帝政時代の貴族たちが戻ってきたら、彼らは優遇されるだろうと指摘されている場面があって、あっと思った。それは、確かに、そうだろうと思ったから。まったくうまい配役ですね。そして、当時の人たちにはまだ帝政時代の記憶が鮮明なんだな、とも感じました。

そう、たったの十数年程度だ。1917年にロシア革命が起こり、内戦ののち勝利した共産党により1922年にソビエト連邦が成立し、1924年レーニンが死ぬ。そののちの、1930年だ。あの法廷で役者として舞台に立った彼らはいずれもいい年齢なので、それまでにいろんなものを見てきている。そしてあの時、あの場所にいた。それぞれに割り当てられた仮面を被って。
カメラはあらゆるものを映す。舞台で行われるパフォーマンスと演者たち、そして被告人らを「本当の悪人」だと思っている群衆。銃を提げて法廷の片隅に控える兵隊。ひたすら書き物をする記録係。映像ってすごいな。残っちゃうんだな。

国葬』と比べると、『粛清裁判』では、個々の群衆の顔はよく見えない。ただ、その数に圧倒される。個々人では無力でも、集まることで生まれる力というのはあるだろう。同志と呼ばれる概念の、目に見えるかたちとしての群衆。それでも全土に散らばる同志たちの中の、ほんの一握りであるはずの人々。一ではなく多としての集団的存在。
彼ら個人が己を語ることはないけれど、彼らは<群衆>としてそこにいる。集まることで<群衆>となる。

「民衆」というのは20世紀のキーワードだったはずだ。しかしこのドキュメンタリー3選のタイトルは、「民衆」ではなく「群衆」なんだよな。このニュアンスの違い。彼らはスターリンのパフォーマンスをパフォーマンスと知らずに参加して踊らされている。異常だ、と思うのは我々が本当のことを知っているからだ。その時その場にいるときに自分が異常であることは、残念だけど、なかなか気づけないものだろう。詐欺を嗤う者が詐欺に泣くのだ。明日は我が身と心得よう。
しかし、たとえあの場にいて彼らを異常だと思ったとして、「個」に何ができる? とも思うのだ。法廷にいた彼らも、そう思いながら演じていたのだろうか。

アウステルリッツ』も近日中に観に行きます。