好物日記

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映画『DAU. ナターシャ』を観てきました

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2021年に初めて映画館で観た映画となりました。監督はロシアのイリヤ・フルジャノフスキー、舞台は1952年のソ連
ソ連時代の某研究施設での話なのですが、出演する人々が「ソ連時代を完全に再現したセットで2年間生活」するプロジェクトによって生まれた作品であるという話が興味を引いたので、映画館に足を運ぶことにしたのでした。

撮影は徹底的にこだわって行われ、キャストたちは当時のように再建された研究所で約2年間にわたり実際に生活し、カメラは至るところで彼らを撮影した。本作には本物のノーベル賞受賞者、元ネオナチリーダーや元KGB職員なども参加。町の中ではソ連時代のルーブルが通貨として使用され、出演者もスタッフも服装も当時のものを再現した衣装で生活。毎日当時の日付の新聞が届けられるという徹底ぶりで、出演者たちは演じる役柄になりきってしまい、実際に愛し合い、憎しみ合ったという。
(公式サイト イントロダクションより抜粋)

現代に生きる人々が、フィクション作品としての映画を、複製されたソ連時代の生活を実際に送りながら作り上げる。昨年観たロズニツァ監督の『粛清裁判』を思い出させました。『粛清裁判』は実際の裁判記録映像を編集しなおしたドキュメンタリーだったけど、裁判で争われている事件は存在しない架空の事件であって、ある意味でフィクションとドキュメンタリーの混合だった。この『DAU. ナターシャ』はフィクションなんだけど、ドキュメンタリーに近い手法で撮られているのかもしれない。


簡単にあらすじを紹介しておくと、こんな感じです。
主人公のナターシャは、舞台となっているソ連の某研究施設の食堂で働く女性。もう若くはないけれどまだ美しく、まだ若く且つ美しいオーリャと2人で食堂を切り盛りしている。食堂がひけるとナターシャとオーリャは食堂の酒と食材で酒盛りをし、愛について語ったり酔っ払って大喧嘩したりする。そんなある夜、オーリャの家で開かれたパーティに呼ばれたナターシャはフランスから来ている科学者と知り合い、その夜のうちに肉体関係を持つ。しかしその後、ナターシャは突然当局に呼ばれ、理不尽な訊問を受けることになる。


132分の映画ですが、8割くらいの時間は誰かがお酒を飲んでいた気がする。若いオーリャは笑い上戸で、酔うと大声出してきゃあきゃあ騒ぐタイプ。そしてフランス人科学者と知り合うきっかけになるオーリャの家でのパーティの場面ではみんながものすごく盛り上がって楽しそうにどんちゃん騒ぎをしている。
それでもその裏に、何か冷たくてどす黒いものが横たわっている気配がずっと消えないのだ。登場人物がひとりになると、すっと心の温度が下がるのを感じる。彼らの誰の心にも棲んでいて、ふとした時に顔を出す虚無。
だってずっとお酒飲んでるにもかかわらず、彼らは全然美味しそうにしていない。味なんかわからない、酔えればいいって感じ。太宰治の小説のあの台詞が頭をよぎって仕方なかった。

「ずいぶん、お酒を召し上りますのね。毎晩ですの?」
「そう、毎日。朝からだ」
「おいしいの? お酒が」
「まずいよ」
(太宰治『斜陽』新潮文庫改版 P.173より)


とはいえ私は彼らを可哀そうと思っているわけではない。だって、そんな対岸の火事みたいに彼らを見ているほどの余裕があるだろうか?
ソ連は失敗だったって、あんなの頭でっかちの机上の空論だったんだって、そら見たことかって調子で歴史は語る。しかし資本主義社会に生きる私たちの世界は、彼らを嗤うことができるほどに上等なものだろうか。完璧な社会なんてこれまでどこにもなかったはずだ。
そもそも生きること自体がどうしたって痛みを伴うものだ。人間という存在が、個々の肉体に個々の私が閉じ込められているという形をとっている以上、身体が壊れれば誰だって簡単に死んでしまう。生きとし生けるものはすべからく、最後の最後はただ等しく死ぬだけで、一時の幸せもただその時だけのものだろう。
どうして私ばっかりこんなに不幸なのって泣く夜は誰だってある、ソ連とかロシアとかアメリカとか日本とか関係なく、ある。50年前でも30年前でも、多分100年後でもある。一人きりの夜に突然悲しみや虚しさが臨界点を突破して、コップの水が溢れたみたいに泣き喚いたりすることはきっと誰にだって起きうることだ。(そんな経験一度もないって人は、ぜひこれからも幸せに生きてください)
映画の中でナターシャにもそういう時間が訪れるんだけど、もうそれを観ている時が一番つらかった。バイオレンスな取調べよりもずっとしんどかった。「ちゃんとするのよナターシャ、あなたは立派な大人の女なのよ」みたいなことを自分に言い聞かせているところが辛くて。そして文字通り、次の日には何事もなかったかのようにちゃんと仕事をしている彼女がとっても偉かった。あなたはとても格好いいよ、ナターシャ。

取調べの男(秘密警察か何か?)はフランス人科学者を嵌めるためにナターシャに嘘の告発を強制するんだけど、彼女のことをちょろい感じの女だと思っていた。実際ちょろいところはあるんだけど、彼女はこの社会で生きていて、明日からも生きていかなくちゃいけない立場なのだ。嘘の告発だってするだろうし、そこに何か理由をつけたくもなる。そういう状況って多分、何が正しいとか正しくないとかあまり関係なくなるんじゃないだろうか。これからも人生を続けるならそうなるだろうし、正義を貫く理由もないよな。
ナターシャの辛さが、彼女が生きる社会がソ連であることに由来している部分は確かにあるだろう。でもソ連だけの話ではなくて、日本とかアメリカとかでも、その時代その場所特有の事情が個人に特殊な行動を強制することは多々あるのだと思う。同じ事象として発生しなくても。そして、その時代その場所に生きていると、それが異常なことなんだってことすら気付けなかったりするものだ。


観終わってからもそんなことを考えて鬱々としていました。ハッピーになる映画ではない。けどこういうのは好き。
ほかにもナターシャとオーリャが喧嘩する場面もすごく良かったし、怪しげな実験の場面もいかにもソ連デザインって感じの実験器具で面白かった。あれもモデルがあるのだろうな。

DAUプロジェクトは第二弾もあるらしいので、ぜひ観たいです。日本でも公開してほしいし、フルジャノフスキー監督にはぜひ第三弾以降も作ってほしい。よろしくお願いします。