好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

山尾悠子『山の人魚と虚ろの王』を読みました

山の人魚と虚ろの王

山の人魚と虚ろの王

  • 作者:山尾悠子
  • 発売日: 2021/02/27
  • メディア: 単行本

『飛ぶ孔雀』で初めて山尾悠子を知って恋に落ちる勢いで好きになり、今回の新刊も喜び勇んで買いました。函入りで美しい装丁はさすが国書刊行会、気合入ってる!
寝る前に少しずつ読んでいて、実は結構前に読み終わってはいました。ずっと心の中でもぐもぐしていたのですが、このままでは永遠に咀嚼が終らなさそうなので、この辺で一回出しておくことにする。総じて夢の中にいるみたいで実に良かった。とっても山尾悠子だった。

ストーリーについて一応触れておくと、語り手の「私」が歳の離れた若い妻との新婚旅行を思い出し語るというものです。新婚旅行の目玉はホテルに改装された豪奢な「夜の宮殿」、そこで亡き伯母が率いていた舞踏団が代表作「山の人魚と虚ろの王」の舞台公演を繰り広げている。そんな折、突如伯母の葬儀が新婚旅行の予定にねじ込まれて、二人は「私」の実家である「山の屋敷」に向かう。

「夜の宮殿」ではあちらこちらでお祭り騒ぎ。旅行中は度々妻の女代理人なる人物から電報や電話で指示が入り(急な葬儀への出席要請もそのひとつ)、「私」の死んだ母親と実家で再会したり、若い妻が降霊会で空中に浮き上がったりするというファンタスティックなエピソードが挿入される。語りの時間軸は行ったり来たりしてどこまでが本当の事だか最早分らない。記憶というものの曖昧さという特性がカーニバルっぽさを増長させているようです。

読んでいる間は夢の中みたいだと感じていた。でもこれ、舞台公演だったんじゃないかと、読み終わって落ち着いてから思いました。まぁ演劇もひとつの夢と言えなくもないけれど。

以下、特に説明もなくストーリーに触れています。
まだあまり自分の中でまとまってないので、わりとしっちゃかめっちゃかですが、一応隠しておきますので未読の方はご注意ください。


作中でも触れられている「二重性」というのが、多分一つのキーワードなのだろう。

「彼らは如何にしてじぶんじしんと出会ったか。それがタイトル。夜の森で、恋びと同士の男女がうりふたつの男女に出会うの。互いに驚きあって、片方の娘は両手を相手に差し出しながら、気絶しかけているのよね。これは露骨な分身テーマだけど、そもそも二重の反復というモチーフを好んだ画家だったのよ」(P.87)

しかしこんなわかりやすいヒントを投げて、これだけってことはあるまいよ。山尾悠子ですよ。


彼らの新婚旅行の旅程は、大まかにまとめると以下の通りです。

一日目:婚礼の後で列車に乗って移動(旅牛の通過に阻まれる)→駅舎ホテル泊、ナイフの決闘、別々の部屋で眠る
二日目:襟巻を買って列車に乗って移動→夜の宮殿泊、抽選会、降霊会、舞踏公演、ようやく初夜
三日目:P夫妻と共に列車に乗って移動、乗換駅近くのレストランで食事(何かが窓ガラスを打つ)、
    喪服を買って列車に乗って移動(旅牛の通過に阻まれる)→山の屋敷(「私」の実家)泊
四日目:亡き母と再会、機械室の事件、大火→夜通し走る列車で車中泊
五日目:新居に到着


二重性は至るところに見られる。伯母と母。「私」と若い妻と、P夫妻。列車発着場と中庭。しかし二重だけでは済まないくらいの多層構造になっているんじゃなかろうか。夜の宮殿と山の屋敷はスタッフも食事も使いまわしっぽいけど、駅舎と夜の宮殿も同じ骨組みで、デコレーション変えただけだろう。

例えば駅舎の描写。

(前略)それは前夜遅く、ほぼ深夜のことだったが、ようやく到着したホームの柱構造と柱構造とのあいだに挟み込まれるようにホテルのエントランスは存在し、我ながら性格的に目の欲がつよいと思う私にとってそれはなかなか面白い眺めと思われたものだ。巨大なドームとアーケードと転車台のある中央鉄道駅ならば一帯の鉄路の要であり、何度も訪れたことがあったが、駅舎構造のぜんたいに交じり込むようにホテルの客室層が隠れて存在するとはまったく知らないことだった。(P.11-12)

そして以下が、夜の宮殿の描写。

 妻が言ったとき視界いっぱいに輝く夜の宮殿が、事務局からの屋根つき連絡通路の先という切り取られた眺めではあったが全館すでに照明に満ち満ちて、ぎらつく明るさを夜の全方位に向けて放射する玉ねぎドームつき巨大建造物の複雑な外観と内部の一部が、存在そのものがわれわれの真正面に出現したのだった――夢のように、夢のなかの出来ごとのように。内部の一部というのはいかにも夏の離宮といった設えで壁のない吹き抜け構造が多いため、外部からでも多くの列柱越しにかなりの内奥部までよく見通せることを言うのだが、名高いシャンデリア群を始めとする内部照明の多さ明るさから奥の奥までどこまでも微細詳細にピントが合って眺められるような、これぞ目の欲望の源。(P.44)

もうこの夢の広がる描写でニヤニヤしてしまう。「目の欲望の源」って!
駅と宮殿というのは扉や階段がたくさんあって、どちらも迷宮に通じる雰囲気が個人的に好きなモチーフです。山尾悠子の描写の丁寧さが好きだ。

まぁそれは置いておいて、演目舞台としての駅舎と宮殿はどちらも柱構造が強調されているところ、いずれもドームを備えているところなど、物理的な共通点が多い。なので新婚夫婦が舞台幕の手前で列車に乗って移動している間に、幕の後ろで裏方によって駅から宮殿へと模様替えされたようなイメージを持つ。もとは同じモノなんだけど、色や模様を塗り替えて駅から宮殿に変身させたような。
なので「私」と妻の新婚旅行の行き先は、実は伯母の舞台公演だったんじゃないかと思う。それもただの舞台じゃなくて、「山の人魚と虚ろの王」という強力な磁場をもつ舞台世界。昔から何度も繰り返し上演されたという看板演目。良くも悪くも魔力が宿ってそう。

降霊会で妻が浮き上がるのは、舞台世界に引き寄せられているのだろうか。浮き上がるといえば『百年の孤独』のレメディオスが頭から離れないけど、ここでは多分関係ない。シャンデリアのあたりの高度の空間は「私」の母(旅行鞄)やら伯母(舞踏靴を履いた足)やらの世界、でも浮き上がった妻はパンを鞄に詰め込んで怒られたときと同じ様子をしている=嫌がってる?
ちょくちょく連絡を入れて新婚旅行に水を差す女代理人は、おそらく伯母、山の人魚だろうと思う。長年の企みがついにこの新婚旅行で実を結ぶような口ぶりだったけど、それはつまり演目世界を相続させるということだろう(「――その思想を継承し、さらに子へと伝えていけるのはあの娘のみ」)。妻もそれをわかってたようだったけど、彼女自身は本当にそれを望んでいるのか? これまで伯母の演目を完成させるための役者の一人のような立ち位置だったけど、本当は嫌だったんじゃないの? だから機械室であんなことになったんじゃないの? そしてこの舞台空間から抜け出すには、世界に火を放つしかなかったとか?

揺れるシャンデリアは時計の振り子を思わせる。でも動いているようで動いていない、ままごとのような時間だ。永遠に繰り返すだけ。列車に乗って遠くへ行ったようでも、ぐるっと回って同じところに戻って来るだけ。終わらない宴のような。
しかし伯母の企みは、たぶん結局は成就している。彼らの子供はきっと虚ろの王になる。夫たる「私」が列車事故に遭っていようと、子供さえ生まれてしまえばあまり関係もないようだ。元来「王」に役者は不要であり、シャンデリアを、時間を揺らしてくれれば、子供を作って相続という手続きを進めてくれればそれでいいいんだろう。だから多分もう、「私」の役目は終わってる。

柱が連なる図というのが至る所に出てきて遠近感を狂わせるけど、時折あわせて登場する目のモチーフというのは何なんだろう。演目には観客が必要ということ? でもあれ、伯母の目だよな? 彼らの子供も変な目してるってあるけど、あれが何なのかよくわからないままだ。あと旅牛の通過が何なのかもよくわからなかった。
ああー、もうちょっと丁寧にじっくりしっかりメモ取りながら本気で読みたい。拾えなかったところがまだまだあるだろうし、解釈ちがいも混じってそうだ。

しかしこの描写の美しさ、夜の宮殿内の白黒市松格子の床のヴィヴィッドさとか、山の屋敷で寝室に向かう靴音がかつーん、かつーんと聞こえてきそうなところとか、素晴らしかったです。山尾悠子の文章は文字だけで酔っ払う。
夜想』の特集も買ってあるので、大事に読みます。とても楽しみ。