好物日記

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グローバルエリート『テーマアンソロジー STATEMENT FOR GAZA』を読みました

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文学フリマ東京38で購入した、SF小説サークル「グローバルエリート」による『テーマアンソロジー STATEMENT FOR GAZA』がすごく良かったということを語りたいのですが、2024/6/24現在、この本を新たに購入することはできません。文学フリマで初版60部が頒布され完売し、その売上は製作費含め全額が国連パレスチナ難民救済事業機関UNRWA)に寄付されました。

このアンソロジーがすごく良かったということを語りたいのですが、自分の言葉の薄っぺらさにどうすればいいだろうかと思いながらこの記事を書いている。全156ページの文庫サイズのこの本が、その物質量よりも遥かに重い言葉を宿している。創作のすごさってこういうことなんだなというのを、改めて思い知らされた気分です。数日間、ずっと頭から離れなかった。60部しか刷られなかったのか……


沖縄に移住した維嶋津による「コールアンドレスポンス」は2024年2月~5月の名護市の日記のような文章に、ガザの状況を示す淡々とした短文が差し挟まれる。ミサイルのアラートが物珍しくて高揚する「自分」を誰が責められるだろうか。しかしそれを恥として自覚するかどうかは大きな分かれ目なのだろう。
能登の復興支援でチャリティーライブをしたアイドルが「帰りたくなくなる」と話したというエピソードが妙に心に残った。問題解決とか改革・改善とか、ポジティブな変化を進めていくときの妙な高揚感や幻の全能感は身に覚えがある。誰かの役に立つことは快感だ。それは自己満足かもしれないけど、やらない善よりやる偽善という言葉もあるし、無駄なことではない、と信じてやるしかない。過去の愚かさは過去のものとして反省しても、未来の行動を諦める理由にはならない。せめて少しでもましな行動を選んでいきたい。


外資系のテクノ企業で働く僕を主人公にした架旗透「君なりに頑張ってきた君が負けるということ」はかなりぐっと来た。私は国際会議に出るような仕事ではないけれど、この作品で書かれている「イスラエルパレスチナの代表が同じ会合に居合わせた場合」みたいなことは、誰にでも起こりうることだ。そのとき、私は果たして正しいと思える行動を選べるのか。情けない話だが、私はずっと、そういうことに極端に自信がない。
例えば。日頃から何かと部下のBさんをイジって笑いを取ろうとする上司Aさんがいて、AさんBさん両名が参加する飲み会の席でいつものようにAさんがBさんをからかうようなことを言った場合。Bさんは「やめてくださいよ~」などと笑いながら言っているけれど、実際は本気で嫌がっている場合。
念のため書いておくと、現実のイスラエルパレスチナがAさんBさんのような話だと言っているわけではないです。私が言いたいのは、毅然とした態度をとるべき状況に居合わせたときに、本当に毅然とした態度がとれる人がどれだけいるかということです。

あなたの言動に私は賛同しない、あなたの言動を許容する空間にコミットしないということを表明することは、何度考えてもすごく難しいことだ。第三者が全く異なる土地で批評のように「それはダメだね」などというならいくらでもいえる、けれど、その場にいてどこまで行動できるだろうか? 小説や漫画や映画の主人公はいとも簡単にやってのけるけど、多くの人にとってはきっとめちゃくちゃハードルが高い。それが正しい表明だったとしても、告発は不和の空気を伴うのでためらってしまうのだ。
そして、そんな人ほとんどいないんだからできなくたって仕方ないよ、と言いたいわけでもない。仕方ないわけない。正しいと思うことを頭ではわかってるのに、なんでいざというときには動けなくなるんだろうか。慣れの問題か? 恵まれた環境でぬくぬくと育ってきたから、そういう悪意に出会うとびっくりしてしまうというのはある。もっと反射神経鍛えないと。

さらに正しさは人を狂わせるので、正しさの表明をすることが一種の麻薬のようになってしまう危険性もあるのも怖い。正しさの表明が目的になると、ただの断罪イベントになってしまい、それは私の望むところではない。あなたの言動に賛同しないことの表明は、相手を侮辱することではなく、相手の言動をやめさせることが目的であるはずだ。なるべくスピーディに解決するためにはピンポイントに課題をつぶす必要があるはずだけど、爆撃は一向にやまないし。理性的に怒ることを、どうやって訓練したらよいだろうか。



アンソロジーで最も分量のある東京ニトロ「EMPIRE! EMPIRE!」の力強さには、正直数日ほとんど何も手につかずぼぅっとしてしまった。障害者支援施設で働くことになったタカハシカズキが生活支援対象の障害者や同僚たちとのふれあいから成長していく物語。なんていうとさわやか青春ものっぽいのですが、そこにあるのは理不尽満載の現実である。何も知らないタカハシカズキはどこにでもいる私であり貴方であり、知ろうとして一歩踏み出すタカハシカズキもどこにでもいる私であり貴方だ。あちら側もこちら側もない。誰もが、どちら側にもなりうる。

[ ... ] あそこは帝国だった、教師たちや父親の帝国だった、あの場を支配して選んで閉じ込めることができるような権力を持った連中、彼らが救われるための帝国だったんだ。(P.95)

[ ... ] もっと最悪なのはいつかじぶんもそういう帝国を持って誰かを踏み台にして救われようとする大人になることだとタカハシはおもう [... ] (P.95)

タイミングとか、きっかけとか、環境とか、そういうもので簡単に多くの人は正しくなったり間違ったりできてしまう。だからといって間違ったときに環境のせいにするのは違う、それは社会復帰にあたって考慮されるべきではあるけれど、免罪符にはならない。弱い人ほど他者を支配したがるものだ。それならきっと私もそうで、相手を支配下においてコントロールしたがる。自分を支配しようとする存在に抗うには何らかの方法で同じ土俵に立つ必要があり、それは物理的な拳の力だったり、社会的な権力だったりする。私は世間一般でいえばかなり恵まれた生活をしている人間である自覚があるので、いざというときのために手に入る権力は手に入れておこうと思っている。でも権力を手にするよりも、帝国において権力とともに正しくあり続けることのほうがはるかに難しいだろう。
私は道を踏み外したときに自分で自分の過ちに気づけるだろうか? 誰か間違えた私を後ろから撃ってくれるだろうか? 私は、私自身がいい気分になるための手段を手に入れたとき、それが他者を犠牲にするものだということに気づかないふりをしてしまわないだろうか? 私をいい気分にさせようとする誘惑を拒めるだろうか?
心のままに怒ることを、私は自分に期待しない。きっと私は感情からの怒りは抑えるだろうし、自分の怒りが正当なものかどうかの判断ができないから。だから、私はたぶん自分には別のアプローチが必要なのだ。つまり、自分の行動規範を心ではなく倫理に求め、怒るべきだから怒るようにすること。そうすれば性根がどうであれ、それなりに正しい振る舞いができるようになる、はず。それでも、私はいつも自分がいつ道を踏み外すかを恐れている。


巻末の高座創「無垢の行進」は漫画「沈黙の艦隊」の二次創作とのことだが、私は寡聞にして「沈黙の艦隊」を未履修なので物語の前提がまったくわかっておらずすみません。この作品の最後の一文を現実のものとするための方法の一つが、このアンソロジーの頒布なのだと思っています。自らの立場を表明することはとても大事だ。声が大きいものが影響力を増す構造ができてしまった世界で、怪しいものと思われず、陰謀論でもないと説明しつつ、でも聞いてもらえるように工夫するのは大変だ。一歩一歩進むしかないとわかってはいても、そんな悠長なことしていられない気持ちもあるよなあ。


非常によいアンソロジーでした。創作ってすごい。ろくに考えをまとめられもせずだらだらと書いてしまいましたが、私がこのアンソロジーを読んで受けた衝撃が少しでも伝われば幸いです。