好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

川野芽生『かわいいピンクの竜になる』を読みました

2024年初買いの本だった一冊。小説に比べるとエッセイはあまり買わないのですが、川野芽生のエッセイは「A is for Asexual」で読んだことがあり、「エッセイ集!? 読まねば!」と思って買ってきたのでした。読んでよかった。

私は世間(といわれるもの)で「普通」と称されることがうまくできないことを後ろめたく思っている人間で、とはいえそこまで生活に支障もないので普通の人間を擬態して生きている、という自意識をもっている。「なんだかなぁ」という小さな違和感は心を疲弊させるものの、その違和感をうまく説明できないことが多くて、ものぐさなのもあってまぁ自分が悪いんだろうと思っていることが、結構ある。それを川野芽生は言葉にしてくれる、あるいは言葉にしようとしてくれるのがとても嬉しい。短歌や小説という形でも彼女は全身全霊で叫んでいるのだけれど、エッセイという形態ではより明確に表現されている。そういう文学ジャンルだからな。「A is for Asexual」を初めて読んだ時も、川野芽生のエッセイの内省的なところや、「私はこう思っている」と明晰な文章にしてくれるところが気に入っている。たぶん、彼女の文章のそういうところに救われているひとたちは多いんじゃないだろうか。

ちなみにこのエッセイ集、初出の記載がないのだけれど全編書き下ろしなんだろうか? ロリィタにはまったきっかけやこれまで着たドレスやメイクや、女性性についてなどが11章にわけて書かれている。当然ながら書かれていることしかわからないわけだけど、川野芽生ってそういう人なのだな、という理解の一端になったのは嬉しいことでした。エッセイを読んで面白いと思うかどうかって、書き手に対してどれだけ興味があるかということがかなり大きなウェイトを占めると思うけど、私は彼女に興味を持っているので非常におもしろく読みました。これまでなんとなく漏れ聞いていたことを、本人自身の言葉で読めたというのも良かった。


せっかくなので好きポイントをいくつか挙げておきたい。やっぱり一番ぐっとくるのは、彼女が語る素敵なお洋服が象徴すると思われがちな、女性というジェンダーについて。

 けれど大学に入って問題が生じた。好きな格好をしていると――髪を伸ばして二つ結びにし、花模様のシフォンのセットアップを着たりしていると――「女の子らしい」と見なされてしまうのだ。(P.15)

(前略)「かわいい服を着ている」ことと「男性から性的対象として見られたいと思っている」ことの間には何の関係もないのに、男性から性的対象として見られたくない人がみなかわいい服を着ることを避けたら、結果的に「かわいい服を着ている」=「男性から性的対象として見られたい」が成立してしまう。(P.21)

 ロリィタファッションに憧れたのは、かわいく美しく、かつ「モテ」や「愛され」や「男ウケ」をきっぱりと拒絶していたからだ。(P.21)

私はロリィタは着ないけど(レースの服があまり好きではない)、ロリィタファッションをしている人(特にゴスロリ系)を見るのは好きで、たまに街で見かけると格好いいなぁと尊敬のまなざしを向けてしまう。一方で服装によってセックスアピールが成立する場合があるというのも理解はしていて、身に覚えもある。難しいのは、服を着るということの意味が、人と時によっていろんなパターンがありすぎることだろう。バリエーションがあるからこそ面白いんだけれど。服を着ないで人と会うなんてことは現代の地球ではありえないからな。
「好きな人のためにかわいい格好をする」というのはケースとしては実在していて、それはそれで恥じることではなく、相手からの好意を手に入れるという目的のために有効な方法のひとつである、と私は思っている。とはいえ「かわいい格好をしているから相手は自分のことが好きなのだ」は行き過ぎで、そうかもしれないけどそうじゃないかもしれないことを忘れてはいけない。「かわいい格好をしているけど相手のためではない」は成立する。これは「かわいい格好が相手のためではないからといって、相手を軽んじているわけではない」ので、その点もご理解いただきたいところ。ほかに優先度を上げるべきコンセプトが存在するだけだ。例えば会場に合わせるとか、イベントにあわせるとか。しかし「かわいい格好が実は自分のためだった」というケースも実際存在するので、そうかもしれないけどね。そうかもしれない、そうじゃないかもしれない、で心を迷わせるのが楽しいところだと思うので、そこは存分に惑って楽しんでいただきたいところですが、「かわいい格好をしている」ことだけを「自分のことが好き」の判断基準にするのはやめた方がよろしいかと思います。さすがにそれは判断材料が少なすぎるぞ。


川野芽生は恋愛対象として見られるのは苦痛であると表明していて、そのあたりのことは私自身の感情と照らし合わせて共感できる部分と「そうなのかー」と感じる部分があって、その差分を面白く感じました。ほかにも肉体に対する嫌悪のニュアンスの違いとか、髪を染めたり切ったりすることの考え方とか、重なる部分と重ならない部分があるのがおもしろい。川野芽生は「素敵なお洋服のためのトルソー」としての自分を楽しんでいるような印象を受けたけれど、私はそういう観点で自分の身体を扱うことをしないので、そういう考え方自体が新鮮でした。でもなんかメイクの章ではテンションが上がってしまって、新しいカラーマスカラをつい買ってしまったりした。アイシャドウは苦手だけど、カラーマスカラは最近バリエーションがぐっと増えているのでつい買ってしまう。スモーキーなピンクもいいけど、私はバーガンディ派です。


先にも書いた通り、エッセイというのは書き手に対する興味が第一の楽しみだと思うけれど、第二の楽しみは書かれた内容やテーマが読み手にとってどういうものかを内省することだと思っている。川野芽生はロリィタが好きだ。ではあなたはどんなファッションが好みですか? きっかけは? ファッションに興味がないとしたら、それはなぜ? 物語の登場人物になれるなら、川野芽生はエルフや妖精を選ぶだろう。私は断然魔女やドラゴンなど強くて空を飛ぶものが好き。ではあなたは? ほかの人が読んだ感想も聞きたいなぁ。
私がこのエッセイを読みながら思い出していたのは、私が子供のころに思い描いていたユートピアのことだった。私も「あちら側」への扉が開かないことに焦っているタイプの子どもで、だからこそ小野不由美の『魔性の子』で絶望を突き付けられたんだけれど、まぁそれは置いておいて。私のユートピアの最大の特徴は、時計がないことだった。なんでかというと、とにかく死ぬのがめちゃくちゃ怖かったので(これは今もだけれど)、時計がなければ時間もなく、終わりも来ないと思いたかったのだ。今思い返せばまったく粗だらけの理屈だけれど、そうだったそうだった、と懐かしく思い出しました。とはいえ私は未だに時計が嫌いで、家に掛け時計・置時計はひとつも置いておらず、スマホとPCで代用しているので、あんまり変わらないのかもしれない。

いろいろ考えながら読めるよいエッセイでした。装丁も素敵。カバー外したときのこだわり、こういうの好きです!