好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

工作舎 編『最後に殘るのは本』を読みました

工作舎50周年記念出版、本にまつわるエッセイ集です。帯には「67人の書物随想録」「ようこそ、書物の迷宮へ」と書かれていて、その帯の紙質といいフォントといい、本体の装幀の美しさといい、もうニヤニヤが止まらず素通りなんてできなかった。なんて美しいの。

収められたエッセイは、1986年4月から2000年1月まで、工作舎から出版される本に挟み込まれていたリーフレット土星紀』に、「標本箱」と題して載せられていたものです。

 ともかく株式会社となって『遊』の発売・発行は、工作舎名義となり、名実ともに出版社として船出した、と言いたいところだが、その零細を支えていたのは「別の仕事」だった。つまり一般企業や他の出版社から編集やデザインの業務を受託していたのである。実は出版と「別の仕事」の二足のわらじは、現在に至るまで履き続けている。(P.2-3「はじめに 土星と標本」)

私は古本屋で工作舎の本を見つけたときはなるべく買うようにしてるのですが、土星紀が挟まっているかどうかは運次第です。なので、なるべく買うようにしていると言いつつどうしようか迷ったりしたときには、土星紀が挟まっているかどうかを確認する。挟まっていると、買う確率が高くなる。なぜなら、これは、ただの新刊案内リーフレットではないんですよ!
本書の巻末にも土星紀の縮小版が掲載されているんですが、色もデザインも毎回全然違って、そのこだわり具合が尋常ではないのがわかる。実物を見ると、紙質からして違うのが一目瞭然です。しかしデザイン受託もしていたのであれば、商品見本の意味もあるだろうから、力も入るというものだろう。それでも相当なこだわりぶりだけど。

本書の巻末には、「あとがきに代えて」として、「標本箱」のデザインを担当していた祖父江慎工作舎編集長の米澤敬の対談『「土星」の歩き方』が収められていて、楽屋話的なこれがまた面白かった。祖父江さんが写植のこだわりや昔の徹夜話などのマニアックな話で盛り上がりそうになるたびに、米澤さんが「そういう話は別の機会にしよう」と止めるので笑ってしまった。別の機会、待ってますね。

ちなみに私が書籍のフォントやデザインに興味をもったのは講談社から出ていた雑誌『ファウスト』がきっかけだったことも一緒に思い出した。今はもう実物が手元にないので記憶を頼りに書きますが、確か祖父江慎のインタビューが載っていたんじゃなかったか。あの雑誌は商業誌らしかぬワンマンぶりで、今ではあんなやり方は通用しなさそうだけど、なんだかすごく尖っていて、私は当時多感な10代だったのでその存在にすごく衝撃と影響を受けたものでした。でもあの『ファウスト』の、小説ごとにフォントを変えるっていうやり方は、祖父江さんに端を発しているんだろうな。『ファウスト』やっぱり買い直さなくちゃな。思い出すだけで懐かしい。

デザインの話ばかりしていますが、総勢67名によるエッセイも名品揃いでとても楽しいです。毎日ゆっくりじっくり読めば2か月持つぜと思っていたのに、ついついページをめくってしまって2日で読み終えてしまった。しかしこういう随筆アンソロジーというのは気が向いたときに気が向いたページをぱらりと捲って読むというのが王道的楽しみ方なわけで、たかだか一周したくらいで「終わってしまった…」と悲しむものでもない。何も終わってないのだ。むしろ2周目からが本番といえよう。

しかし1986年からか…実はわたしが生れた月に発行された土星紀の「標本箱」の文章がここには含まれていて(しかも好みの文章で)、なんだか感慨深かったです。私が言葉も細胞だったときに、すでに言葉を操り文字を遺す存在として、彼らが生きていたんだなぁというのが、なんかへんなかんじ。知ってはいたけど体感するのはまた別の感慨がある。
どこを開いても味わい深いのですが、『土星紀』のフォントとデザインで見たいなという気持ちもある。古本で集めても、多分『土星紀』全部は揃わないだろうし(この間買った工作舎の古本には挟まっていなかった。もっとも『土星紀』セットとして売られている可能性は当然あるけど、それはそれでなんか違うのだ)。とはいえ個々のリーフレットに載せられていたエッセイが一堂に会しているという感動と便利さもある。第一この『最後に殘るのは本』という新しいハードウェアとして生まれ変わった書籍自体のデザインも素敵で、これはこれで持っておきたいことに異論はない。
などと考えながら読んでいたら、収められたエッセイのひとつに答えがありました。

「本の歴史において、グーテンベルクの印刷術発明に比肩する革命は、コデックスの登場にあった」(K.ヴァイツマン)
「コデックス Codex」とは「冊子」のこと。一枚一枚のフォリオを束ねてページ仕立てにしたこの書物の形態が、紀元一世紀末頃、従来の「巻物」形態にとってかわったとき、西欧の書物は大きく飛翔した。以来今日まで、西暦の年数と同じ齢を重ねてきた。古代末期におけるコデックスの登場は、それから一三〇〇年後の印刷術や現代のコンピュータ革命にも増して、知識人を興奮させた。(P.151 鶴岡真弓「コデックスのコード」)

つまりフォリオだった『土星紀』が、コデックスである『最後に殘るのは本』になったのだ。それはきっと幸せな進化だ。でも挿絵が消えてしまったのは悲しい。
そしてやっぱりフォリオとしても味わいたいので、『土星紀』はこれからも古本屋でコツコツ集めることでしょう。

工作舎さん、50周年おめでとうございます。これからもよろしくお願いします。