好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

柴崎友香『続きと始まり』を読みました

柴崎友香は、新刊が出たら買う作家のひとりだ。とはいえ好きになったのが少し遅かったので、少し前に出た本は持っていないものも多いのですが、読むたびに毎回とてもしっくりくるので、なるべく揃えるようにしている。今回も素晴らしかった。

『続きと始まり』は2020年3月から2022年2月まで、滋賀県と東京都で過ごす男女3人の生活の様子が描かれた小説だ。コロナウイルス小説のひとつだけれど、同時に震災小説でもある。ここでいう震災とは、東日本大震災だけではなく、阪神淡路大震災も含む。
石原優子(39歳)は滋賀県の卸会社のパート社員として働く二児の母。小坂圭太郎(33歳)は東京都の飲み屋のキッチン担当で働く一児の父。柳本れい(46歳)は東京都で写真家として働く女性、子供もパートナーもいない。
主人公三人が交流する小説ではなく、彼らの生活はそれぞれ独立している。それぞれの仕事や家族の不安を抱きながら、彼ら自身がこれまで過ごしてきた人生を思い出しながら個々の生活を送る。柴崎友香はこういう日常の描写がとてつもなくうまい。

人はストレスがたまると怒りっぽくなったり、責任や原因を他者に押し付けたくなったりするもので、コロナ全盛期はそういうことがたくさんあったよね、というのがしっかり書かれていていろいろ思い出しました。正直、今もまだそんな傾向は続いているけれど。
主人公3人はだれも正社員という立場ではなく、フリーランスだったりパートだったり飲食店の従業員だったり、雇用上立場が弱い人たちだ。私は自分がまぁコロナで潰れることはなさそうな会社の正社員なので雇用についての心配はしなくてすんだのですが、そうじゃない人もいたよねというのは、頭ではわかっているけどやっぱりしんどかったのだろうな。私には想像することしかできない。

グッとくるポイントがたくさんありすぎて全部は挙げられないのですが、特に気になったポイントをいくつか。

 そんなくだらないことで、これまでに生きてきた数十年の時間の中で、何度も何度も何度も、少しずつ自分の感情をすり減らしてきたのかと思うと、それこそ悔しかった。
 そして、そんなことにも気づけずに、ただ曖昧に笑ってごまかしてきた自分のことが、いちばん悔しかった。(P.195「二〇二一年四月 石原優子」)

ちょうど川野芽生の『かわいいピンクの竜になる』を並行して読んでいたこともあって、いつもよりも共鳴度が上がったのかもしれない。主人子の一人である優子は家族からも真面目ないい子と目されていて、実際その通りなのだけれど、かわいらしい見た目の女性に対する言動に疲弊していたということに気づく。上は本当に一部の抜粋だけど、前後1ページくらい、読み返すだけで泣きそうだ。男性は男性できっと大変なんだろうけど、私は自分が女なので、女性の大変さに共鳴しやすい。当時は自分がうまく対応できないから悪いんだって思っていたことも今ならあれはセクハラだったよねってことはあるし、いまだに思わぬタイミングで何か言われるとフリーズしてしまって、うまく返したりNOと言えなかった自分を責めたりする(そんなん言う方が悪いって頭ではわかっている)。そうやって、他者の言動をずっと引きずってしまうことがまた嫌で、そんなくだらないことに私の貴重な時間を使いたくなどないのに、嫌な思いほどずっと頭から離れなくてパフォーマンスが落ちるのだ。

[ ... ] そやし、わたしもその場でなんか言うたらよかったのに、なぜかへらへらと「そうなんやー」とかで終わらしてしまったから。そのときなんも言わんかった自分のことが、結局はいちばんしんどいんかも。(P.77「二〇二〇年七月 柳本れい」)

とはいえ私が本当に気にしているのはこれまで自分が被った数々ではなく、相手に被らせてきた数々だったりする。私は傲慢な人間でありながら運が良くて、だいたいなんかいい感じに物事が進んでいくのにうまく乗っかって生きてきたので、苦労というような苦労をしておらず、他人の痛みには鈍感である。という自覚はある。自覚はあるので、気を付けるようにはしているけれど、やっぱり他人の気持ちがわからないので、にじみ出た傲慢さで他者を傷つけているんだろうな、とも思っている。自分でも気づかないまま、ぶっとい尻尾で相手をばしばしと殴っているだろうと思う。そしてそれをやりたくないな、と感じているのは、それが倫理的によろしくない行為だからというよりも、加害者になるのは嫌だという単純な私欲からなのだ。

 今でも、圭太郎が気にしているのは、自分が悪く思われたのではないか、ということだった。今の世の中の流れで、差別した側だと責められることが怖かった。(P.220「二〇二一年六月 小坂圭太郎」)

[ ... ] 何かを考えた気になって、正しくなりたかった。それで楽をしたかった。ツイッターで誰かの言葉をリツイートして自分も何かをしたつもりになるみたいに。(P.303「二〇二二年一月 小坂圭太郎」)

『続きと始まり』というタイトルは、ポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩集『終わりと始まり』のオマージュであって、『終わりと始まり』は作中にも登場し、一部が引用されている。我々の人生は生まれた時がスタートかもしれないけど、実はその前にヒトの形になるまでの時間も必要で、さらに言うと親となる人間が生まれてから子を成す身体になるまでの時間も必要で、さらに親の親が……と繰り返される因果がある。

 なんとなく世の中は少しずつよくなっていくのだと思っていた。
 より正確に言えば、自分がなにもしなくても、なにも言わなくても、よくなっていくと思っていた。誰かがちゃんとやってくれると思っていた。世の中はだんだんよくなってきてるとこもあるよねと言うときに、苦しんできた人や変えようとしてきた人のことをそれほど切実に考えてはいなかった。
 いつかのあのニュースやできごとが今のこのことにつながっていて、いつかのあのできごとはもっと前の別のことにつながっていたと、自分が実際に経験してやっとわかりはじめた。(P.323-324「二〇二二年二月 柳本れい」)

私も最近ようやくわかり始めたところだ。炎上した案件は誰かが尻ぬぐいをするのだし、世の中の便利なサービスは誰かがそれを作ったのだし、「そういうのって良くないよね」の空気は誰かがそういう風土を作ろうと尽力したのだ。本当に、私は、最近ようやくわかり始めた。
私は自分の善悪ジャッジ能力を信じていないけど、「ほらこれが絶対的正義だよ」と成分表も添付せずに差し出されるものをおとなしく口にするほど落ちぶれてはいないつもりだ。正直、何が正しいかを判断するのは難しい。すぐに答えが出ないものの方が多いし。多数の人たちが白い目で見ている陰謀論者だって、世の中の大きな誤りを正すために自分たちが声を上げなくてはならないと信じて行動しているのだろう(商売でやってる人も結構いるだろうけど)。いったい自分が正しいなんて、どうして言えるのだろうか?
そんなわけで「あなたは間違っています」と発言するのは、正直私にはハードルが高すぎる。今の限界は「私はこう思う」と表明することまでです。自分の判断が正しいと確信を持てることもいくつかあるけど、そういうことこそ繊細に扱うべきであって、相手を糾弾することを目的にしてはいけないと思う。自分が傷ついたからといって、他者を傷つけていい理由にはならない。けど、それでは遅すぎるという向きもわからなくはない。え、やっぱ一度人類滅んだ方がいい? 続きではなく始まりからやる?

私もいい年になってきたので、最近は自分が影響を与えられる範囲もそれなりにできてきた。単純に言えば、昇進すれば社内における私の影響力は大きくなることがわかった。権力は力なり! そう考えると、昇進するのも悪くないかな。誤った影響をまき散らすのが怖いだけだ。
どうやらまだまだ世界は続きそうなので、最期のときに「まぁ私にできることはやったかな」くらいの感想を持って去りたいと思っております。というのを、読みながらつらつらと考えていました。10年後、20年後はどうなっていることやら。