好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ダリアン・リーダー『HANDS―手の精神史』(松本卓也・牧瀬英幹 訳)を読みました

書店で見つけて買いました。「私たちは手のしもべである。」という、帯のアオリにやられたのです。
想像が膨らむ目次は以下の通り。

1. 分裂する手 ―自律と自由のパラドックス
2. 自律する手 ―手と口の病的な関係
3. 掴む手、放す手 ―愛着と喪失
4. 社会化される手 ―手を暇にさせておくことの危険性
5. 鎮める手 ―感覚を取り除くための刺激
6. 暴れる手 ―暴力行為の効能
7. 言葉と手 ―手を使わせるテクノロジーの今昔

左右社の本で、なんだかすごくしっかりした紙を使っているのが印象的でした。
タイトル副題の「手の精神史」部分は原題にはなく、邦訳で付与したようです。実際のところ内容としてヒストリー要素はそこまで多くなく、数百年前の西洋世界の話に触れているくらいでした。

ただ、精神史という副題をつける理由もわかる。人類の歴史というのはすなわち、手がどのように使われてきたかということの変遷ではないか、というのがこの本のテーマだからだ。

 しかし、人間の歴史におけるこの新時代を、少々異なる角度からみればどうだろうか? 現代文明がもたらすものへの新たな期待や不満に焦点を当てるのではなく、今日の変化を、「人間が自分の手を使って行うことの変化」として捉えてみるとすれば? デジタル時代の到来によって、私たちの経験のありさまが変わってしまった例も多いかもしれない。しかし、この時代には、もっとも明白であるにもかかわらず無視されている特徴がある。それは、これまでに前例のないほどのさまざまな方法で、手を忙しくしておくことができるようになった、ということではないだろうか。(P.9)

平易で読みやすい文章ですが、読みながらいろいろと考えるので、ぱぱぱーっとページが進む本ではないです。でもとても楽しかった。

確かに我々の生活は生れた時から死ぬまでずっと手に支配されているように思う。五感の中では視覚に依存しているなというのは前から思っていたけど、肉体では、移動のための足を除けば、手に一番依存している。身の回りの道具の多くは、手で操作することを前提として作られている。

手は私たちに仕える。手は実務的な活動の道具であり、私たちが何かを行うための手段である。手は、私たちの願いを叶えるために、世界を操作することができる。私たちは、投票したり、賛成を示したり、団結を確認したりするために挙手を行うが、それは、手がその所有者である人間という能動性の主体(エージェント)を表すために用いられているからである。(P.13)

特に面白いなと思ったのが「手を忙しくさせておく必要性」の話です。西洋には「手を暇にさせておくと悪魔が取り憑く」という言い伝えがあること、扇子や手袋、嗅ぎ煙草などは手を忙しくさせる格好の口実であっただろうことなど。そして今は、スマホによって手を忙しくさせておくことが可能になったこと。
この辺りの話は4章で語られているのですが、とても面白かった。7章に出てきた、音声操作だけでは「操作してる実感」が得られない話も。
納得する部分もあるのですが、本当にそうなのかな?という気もする。我々の生活は手が自在に使えることが前提になっているから、手もち無沙汰だとなんだかそわそわする。その「そわそわする」は習慣的なものなのか、本能的なものなのか、どっちなんですかね。生れた時から手がない人は、別の部位を忙しくしておくと落ち着くことなどがあるんだろうか。ヒトという種は手を使うことが生命活動に直結しているんだろうか。あるいは二足歩行になった後、操作する器官として手を発達させてきたからなのか。後者だとしたら、二足歩行になったときのような、種としての劇的な変化が生じた場合には、そのとき手は今の地位から転落するかもしれない。まぁその劇的な変化後のヒトというのは、今のヒトと同種とは言えないだろうけれども。だからヒトとして考える場合は、手は特別な器官なんだってことで、いいのかな。

ヒトが本能的に手を使いたがる話については、3章に載っていました。

驚異に晒されたとき、、私たちは――たとえ、掴むことが生き残るという目的に直接的に結びつかないとしても――何かを掴もうとする傾向がある。つかまるための何かは人工物であっても、自然物であってもよい。ロープやいかだ、木の幹にぶら下がるシーンを含む小説や映画を考えてもよいだろう。ヘルマンの理論に従えば、いたるところに見られる「何かにぶら下がる」というこのシーンは、母親の身体からの早期の分離にフォーカスしたイメージということになるかもしれない。私たちは、そこから振り落されることを恐れ、そこに引き戻されることを切望しているというわけである。(P.59-60)

わけであるかどうかは別として(この後著者もそれだけが理由ではないだろうと述べている)、掴むという行為が象徴するあれこれを考えるのは面白い。そしてそれと対になる、放すという行為と組み合わせて考えると一層面白い。「掴む」「掴まれる」「放す」「放される」と広げることもできる。しかし本文にも出て来た話ではあるんですが、「掴まれる」は大半がホラーですね。そして「掴む」先の結果についても、「手に入れる」「すり抜けられる」「壊れる」などいくつものパターンがある。

意識の誕生と発達には肉体という器が必要で、身体にまつわる慣用句は身体感覚なしには生み出されないものだということは、最近ではもう共通認識になっていると思う。ヒトが何かをするときは大抵「手」を使ってするわけだけど、もしも「手」がなかったら(怪我などで使えない場合というのではなく、種として手という器官を経験していなかったとしたら)どうなるんだろうか。魚は手がない生き物だから、きっとなにか根本的に物の捉え方が違うんだろうな。

…などと色々考えながら、とても楽しく読みました。一日一章ずつ読んで一週間で読了しました。
10年くらいするとまた状況変わってそうなテーマではあるので、今読むのが多分一番面白いと思います。でも10年後に読み返してみるのも面白そう。