好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』を読みました

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

長らく積んでいたナボコフの『ロリータ』をついに読みました。

ナボコフは文学講義をちょこちょこ読みましたが、小説はなんとなく敬遠していました。それは三島由紀夫を長らく読まなかったのと同じ理由で、「ナボコフドストエフスキーをけちょんけちょんに嫌っているから」です。私はドストエフスキー大好きなので、ナボコフは性に合わないんじゃないかと思っていた。
でもナボコフの文学講義を読むなら、ナボコフ自身の小説を読まないと、その文学講義を信頼していいのかどうかの判断がつかない。なので代表作『ロリータ』を、一応本棚に積んではあった。そしてこの度まとまった時間ができたので、ついに読むときが来たかな、という気分で思い切って手に取ったのでしたが…いやぁ、めちゃくちゃ良いですね。最高でした。

私が読んだのは若島正訳の新潮文庫新版ですが、訳もものすごく良かったのだと思う。美しい言葉をこれでもかと並べて、語るのは年端のいかない少女への偏執的なほどの劣情であるというこのアンバランスさと贅沢さ。

 ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。
 朝、四フィート一〇インチの背丈で靴下を片方だけはくとロー、ただのロー。スラックス姿ならローラ。学校ではドリー。署名欄の点線上だとドロレス。しかし、私の腕の中ではいつもロリータだった。(P.17)

この書き出し部分だけでもうやられたって感じです。こんなの最高に決まってるじゃないですか…。
本当はこの前に「序」というのがあって、この手記(の体裁をとっている)が書かれた経緯を解説しているのですが、それは古き良き小説の風習という感じがする。序が終わってから「私」、ハンバート・ハンバートの語りに入ると、途端に言葉が色彩豊かになって、すべてがロリータへ捧げる言葉になる。その極端さが良い。
彼が「ニンフェット」と呼ぶ、厳密に定義された一定年齢の特定の少女たちへの讃歌も、ロリータへの愛を歌うための前置きにすぎないんですよね。

そう、この語り手たるハンバートの設定にナボコフの凄さがあるように思います。パリ生まれの彼が隙あらば挟み込んでくるフランス語がとにかく鬱陶しくて、ハンバートという人物のうざったさを助長する。ロリータはよく我慢したな。シャーロットみたいにそこが素敵!という人もいるんでしょうけど、読んでるとフランス語が出てくるたびに「うわっ」と思う。…のですが、他の人はこのフランス語をどう感じるのか気になりました。めんどくさ!とか思ってるの、私だけでしょうか。

恋愛小説としてもすごくいいのですが、この小説を特に面白くしているのが、ハンバートが犯したらしい罪がなかなか明記されないことです。これによってミステリ感が加速している。私は最後にちゃんと名前を出してくれるまで、全然わからなかったです。

ちなみに小説を読み終わってからキューブリック監督の映画版『ロリータ』を観たのですが、映画では冒頭でハンバートの罪が描かれているんですね。だから何の罪で裁判にかけられているのかがすぐにわかってしまう。わかってしまうんだよなぁ…だから映画は私としてはいまいちでした。小説の、全然わからないところが楽しかったから。映画だと直接的すぎる。
キューブリックは結構好きなほうなのですが、ちょっと、素材が凄すぎましたね。小説を先に読んでしまうと物足りなく感じてしまう。小説が良すぎるんだな。

さて、小説の話に戻ります。
とにかく鬱陶しい(けど本人はそうと気づかない)ハンバートですが、ロリータと半永久的に一緒にいるために悪事を画策する場面は結構手に汗握りました。これか、これなのか?と思ったけれど、ここじゃなかったですね。「できなかった」というのが実にハンバートだし、ここはできないからこそ良い。
そして私が一番好きな場面は、ロリータとの最後の別れの場面。
ネタバレになるかもしれませんが、ここまで有名な小説にネタバレもなにもなかろう。でもあまり見たくない人は引用部分だけ読み飛ばしてください。
この一連の流れの場面がもうめっちゃ良くて!

 彼女は、言ったとおり、しゃべりつづけていた。言葉がようやく気楽に流れ出てきたのだ。これまで夢中になったことがあるのはあの人だけ。ディックは? ああ、ディックってすっごくいい人よ、一緒にいてとても幸せだし、でもそれとは別の話。で、私はもちろん問題外だったのか?(P.484)

「ロリータ」と私は言った。「こんなことを言っても無意味かもしれないが、それでも言わないわけにはいかないんだ。人生は短いからな。ここから、おまえがよく知っているあのぽんこつ車までは、二〇歩か二五歩くらいの距離だ。歩いてほんのわずかだろ。その二五歩を歩いてくれ。今。今すぐに。そのままの姿で来てほしい。そうすれば私たちはきっといつまでも幸せに暮らせるから」(P.496)

「おまえは本当に、本当に――まあ、もちろん明日でなくてもいいし、明後日でなくてもいいいんだが――その――いつか、いつでもいいから、私と一緒に暮らしてくれないか? もしおまえがその超微細な希望を与えてくれるんだったら、私は新品の神を創造して、絶叫をあげて彼に感謝するよ」(記憶は曖昧。)
「だめよ」と彼女はほほえみながら言った。「だめ」(P.500)

ロリータがここでひたすらNOとしか言わないところに(あらゆる希望を完膚なきまでに打ち砕くところに)彼女の慈悲がある。ハンバートが追いすがるのはハンバートだからだけど、ロリータはきっぱりさっぱりしていてとても良い。彼女はずっと、自分が選び取るべきものをしっかり自覚していましたよね。年端のいかない少女が中年男性に人生を狂わされる話というような印象がとても薄いのは、ロリータはただの人形ではなくて、意志をもって生きているからだ。人生を狂わされたのはハンバートの方で、まぁ彼としては本望かもしれない。彼にとってロリータは唯一無二だったけど、ロリータにとってはそうでもなかった(そして彼女の人生は続いていく)というところが、ナボコフの巨匠たる所以なのだろうなぁ。世の中ってそういうものですよね。シーソーはなかなか成立しない。多くの場合、どちらかが重く、どちらかは軽いどころか不在であることも多々ある。


全編通して実に美しい小説だったし、ところどころコミカルな部分もあって面白いし、ナボコフって凄いんだなというのがよくわかりました。敬遠していてごめん。『アーダ』も読むよ…そして今後、文学講義も信頼して読むことにします。とても良かった。