好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

『人文学のレッスン 文学・芸術・歴史』を読みました

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信頼の水声社から2022年2月に刊行されていた人文学の本です。武蔵大学人文学部の先生方が多く執筆されていて、大学の講義をちょこっとだけ聴講するような気分で一日一項目ずつ読んでいました。

「人文学」がカバーする範囲はめちゃくちゃ広いので、当然、この本一冊ですべてのジャンルを知ることができるわけではありません。じゃあ何があるの、という点については、上記の水声社のホームページから目次をご覧頂くのが早いでしょう。サブタイトルにある「文学」「芸術」「歴史」の3つのテーマごとに4人の著者が寄稿しています。芸術は舞台芸術が多めでした。幕の内弁当のようにいろんなものがちょっとずつ、のスタイルはとても楽しい。

ちなみに上記リンクから編者の小森さんによる「はじめに」の試し読みもできるので、興味のある方はまずは「はじめに」からいくのがよいかと。本の構成や狙いについて書かれているのですが、私が特に好きだったのは、社会科学と人文学の違いについて書かれた以下の部分です。

 こうした科学的所作の難点は、対象とした前提の存在そのものを疑いにくい点にあります。太陽が地球の周りを回っているのか、それとも地球が太陽の周りを回っているのか。これはすでに自然科学的な問いです。しかし、そもそも太陽がなかったらと考えるとしたら、別の道を歩み始めることになるでしょう。「もし太陽がなかったら」という発想そのものが、自然科学の通常の道程を超え出ています。(中略)
 したがって、こう言うことができるかもしれません。科学が尽きるところで人文学が始まる、と。自然や社会といった眼の前にある対象を、そのまま自明なものとして受け取らなくなるとき、人文学が始まる。自然の事物や社会制度をいわば斜めから眺め、前提となる対象の所与性自体に疑いを抱くとき、人文学が始まる。「我思う故に我在り」さえ懐疑的に捉え、人間存在の心理というより、その意味を考えるとき、本当の人文学が始まる、と。(P. 10)

だから私は人文学が好きなんだろう。欲張りなので、「あるもの」だけの話では満足できないのだ。「なかったら」の話もしたい! 「眼前の対象を自明のものとしない」ことの面白さ!

知らないことがたくさん書かれているので嬉しくなって貪るように読んでいたのですが、水声社ホームページでは個々の内容までは記載がないので、私の感想込みのそれぞれの簡単な内容を書いておきます。ものすごく簡略化した紹介なので要点掴みきれてないところがあると思いますが、すみません。

■1 言葉の形を読む――横光利一『蠅』の形式と文体(戸塚 学)
『蝿』には当時の新メディアである映画の表現(カメラ・アイ)が取り入れられているという話。
私はいつもフィーリングで本を読むので、「ここでこういう効果を生んでいる」と具体的かつ理論的に効果や面白さを説明できるのってすごいなぁと、こういう論考を読むといつも思います。研究者は読みのプロなんだろう。私もここがこうだから面白い、という風に論理的に説明できるようになりたいなぁ。

■2 日記と小説――ムージル「トンカ」にみる文学の射程(桂 元嗣)
小説『トンカ』の主人公のモデルらしき女性が著者ムージルの日記に出てくるが、実在したのかどうか定かでないという話。
つまり著者の日記が日記の形式を取った創作である可能性があるということで、なんてややこしいことを……。日記文学ともまた違う、草稿のような扱いだったのかな。日記とは分けておけばいいのに、自分でわからなくなったりしないのだろうか。後で日記を研究されるほどの文学者になるという気概があっての行為だったのか?
あと読書案内に出ていた『悪童日記』も未読だったので、読みたい。

■3 ジャポニスムへの情熱――ゴンクールの『日記』に記された美術革命(福田美雪)
西洋でジャポニスムが流行る前に日本美術に目をつけてブームを作り出したゴンクールの話。
明治の薩摩焼や鍋島焼が好きで展覧会も機会を見つけて行くのですが、当時の日本側の売り出し方も上手かったよなぁと思いながら読んでいました。しかし誰も評価していないものを最初に評価して売り出す勇気と自信はすごい。

■4 ラフカディオ・ハーンアメリカにおける受容――新聞記事でたどる「読み」の系譜(リンジー・モリソン)
ラフカディオ・ハーンは母国アメリカではあまり評価が高くないという話。
彼が愛した日本が日本の全てではないのは当たり前だけど、つい大きな看板があればそちらにばかり目が行きがちだし、見たいものにばかり目が行くものだ。誰だってそうだしいつだってそうだ。気をつけよう。

■5 もしも私が女なら――シェイクスピア劇と舞台芸術の異性装(北村紗衣)
シェイクスピア生存時は男性だけが舞台に立つ時代だったため配役の制限があったことを踏まえて、現代でシェイクスピア劇を演じる場合の配役についての話。
松岡和子訳のちくま文庫シェイクスピア全集をちまちま読んでるのですが、男性だけで演じるのだということをすっかり忘れて読んでいた。そういえばそうなんですよね。現代では敢えて女性だけでシェイクスピア劇を演じる演出もあるそうで、観てみたくなりました。

■6 女性史美術館へようこそ――展示という語りと語り直し(小森真樹)
美術の場におけるジェンダーバイアスについての現状と取組みの話。
テート・ブリテンの多重化されたキャプションを用意する試みがすごく面白くて、ぜひ体験してみたい。権威ある美術館のキャプションはどうしても「これが正統な見解」になりがちだけど、鑑賞はもっと自由であるはずだと思うので。こういうの好きそうな、六本木あたりの美術館でやりませんか。もうあるのかな。

■7 日本のアマチュア演劇の多様な世界(片山幹生)
紙芝居を複数の演者で演じる団体、ヤクザ芝居を奉納する共同体、演劇祭のある学習塾の話。
演劇はあまり縁がなくてほとんど見たことがないのですが、きっと「観る」より「演る」が楽しいのだろう。受信だけでなく、自分で何かを発信するのってそれ自体が快い行為だもんな。しかし学習塾での演劇祭は驚きだった。

■8 舞台の上のシンデレラ――ロッシーニ、パヴェージ、イズアール(嶋内博愛)
シンデレラ譚をもとにした舞台作品の比較から、当時の社会的背景を考察する話。
多少のバリエーションはあれどシンデレラは典型的な玉の輿譚だと思っていたけど、貴族であることが前提となっていて、完全な「身分違い」ではないという指摘が、正直それまで全然気づいておらず「確かにー!」と心のなかで叫んでいました。となると、身分違いがラブストーリーの要素として受容されるのっていつ頃からなんだ?というのが気になるところ。論文ありそうだな……

■9 その変化をもたらす知はだれのものか――中世の「日本図」と文字資料をあわせ読む(高橋一樹)
国土図の変遷から、それぞれの時代に「国土」がどのように捉えられていたかを考察する話。
古今東西の世界地図や地域の古地図を観るのは好きですが、古い国土図はあまり観る機会がなかった気がします。寺に伝わる日本地図は多分当時の最先端だ。距離の正確さもさることながら、やっぱり世界の捉え方や心の距離が反映されるように思われる。密教の宝具の形をした地図が面白かったです。『義経記』もちゃんと読みたい。

■10 人類の至宝!?――中国ムスリムの「ハン・キターブ」(黒岩 高)
中国ムスリムが中国でムスリムとして生きて続けていくために漢文で書いたイスラーム経典にまつわる話。
非常に好きなジャンルでして……もう少し詳しく知りたいところ。儒学の根本は宗教じゃなく倫理だから、他の宗教とあまり喧嘩しないのだろうか。イスラーム歴については柞刈湯葉の『改暦』にも登場していたのを思い出しながら読んでいました。

■11 子どもたちが記憶する第一次世界大戦――北フランスの占領とその後(舘 葉月)
1920年にフランス北部の小・中・高で出された宿題「戦争について覚えていることを率直に書きなさい」に関する話。
子供の目で見た戦争の記録という面と、しかし宿題なんだから本心ではない部分もあろうという面と、双方を考慮した上での史料価値が書かれていてすごく面白かったです。先生が喜ぶことを書くだろう、しかしそこまで嘘ばかりでもないだろう。書くことそのものがセラピーになり得たかもしれないけれど。

■12 歴史と記憶違い――フロイトの場合(小森謙一郎)
フロイトロマン・ロランに宛てた手紙の中に記憶違いが含まれているのではないかという話。
そもそも手紙の内容が高尚で、手紙の引用が「スペインのムーア人の有名な悲歌『ああ、わがアラーマ』をご存知ですね。」から始まってるんですが、ご存知ないです……。まだ私にはちょっと難しかった。研究者ってこんな手紙を相手にしてるんだな。この手紙を理解するには引用の歌も理解しないといけないし、それを踏まえて手紙が書かれた時期と、当時のフロイトの置かれていた状況などを考慮に入れる必要がある。研究者ってすごいな……。


「おわりに」で編者の北村さんが書いているように「プレイリスト」を聞かせてもらった気分です。各論考の末尾に書かれた参考文献と読書案内が私の読みたい本リストを更に長くしてくれました。
あと本の最後の「質問箱」でよく槍玉に挙げられる質問「人文学は役に立ちますか?」に対して小森さんが力強く「もちろんです」と返しているのがとても嬉しかったです。後に続く回答も素敵でした。豊かな人生のために、学問を! 人文に限らず、すべての学問は人生を楽しむためのものだと思っている。もっといろんなことを知って驚いて考えて遊びたい。