好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ローラン・ビネ『言語の七番目の機能』(高橋啓 訳)を読みました

この本の刊行予定が噂された半年ほど前からずっと待っていました。ローラン・ビネの新刊です。嬉しい! ありがとうございます!
前作『HHhH』を読んでからすっかりお気に入り作家となったローラン・ビネ。今回も期待を裏切らない面白さ、どころか期待をはるかに上回る面白さでした。2020年のマイベストだ。
カバー写真は仏語版で使われているのと同じものですが、カバーを外すとオレンジ一色の装丁になっていて、おしゃれで好き。と思ったら柳川貴代さん装丁だった。道理でシックなはずだ。

前作は歴史小説だったけれど、今回はサスペンスです。1980年2月25日にロラン・バルトが自動車事故に遭遇し、その後命を落とすという「史実」をもとに、ただの事故に見えたそれは実は大いなる陰謀によって仕組まれたことだったのだ! という最高のフィクション作品に昇華させました。
実在の人物(主にフランス思想界の重鎮たち、および政治家)が小説の登場人物としてわんさか出てくるのが面白いところ。バルト、フーコードゥルーズソレルスエーコミッテランなどなどなど。訳者あとがきにビネのインタビューの抜粋が書かれていて、名誉棄損で訴えられることなんて心配しなかった、だってバルトが殺されるなんて信じる根拠はまったくないからね、とけろりと語っています。まぁそうだろうさ。
小説の中では以下のように書いています。

 ロラン・バルトの不安げな態度を説明するために今挙げた理由はすべて〈史実〉として証明されているものばかりだが、僕が語りたいのは、本当は何が起こったのかということだ。(P.9)

そして「本当に起きたこと」という大風呂敷をビネは広げるわけですが……
探偵と助手、秘密結社、謎の集会、カーチェイス、怪しい男たち、怪しい女たち、闘技場での試合……ぜんぶぶち込みましたって感じの最高のエンタメ小説でした。いいなぁ、これぞ小説だ! まだ存命のソレルスクリステヴァにぜひ感想を聞きたいなぁ。彼らならきっと笑い飛ばすんだろうな。

なお主人公の探偵役とその助手役はビネの創作したキャラクターです。大学で記号学を教えている若い講師シモン・エルゾグ(でも専門は現代文学)と、パリの中年警視ジャック・バイヤール(助手役)。いいバディだった! 記号学シャーロック・ホームズ的探偵とここまで親和性が高いとは思いませんでしたが、よく考えたらそりゃそうだという気もする。
バルトもフーコーも知らないバイヤールは、記号学をキーワードに調査を進めるにあたって、その道に詳しいシモンに目を付けて捜査に駆り出す。二人が初めて会った場面で、記号学って何の役に立つんだ? と問うたバイヤールに対してシモンが記号学の実用性を証明するためにホームズぶりを発揮する場面を、ちょっとだけご覧ください。

「あなたはアルジェリア戦争を経験し、二度結婚し、別れた二番目の奥さんとのあいだにニ十歳未満の娘さんがいるけれども、関係がぎくしゃくしている。前回の大統領選では予備選と本線のどちらもジスカール・デスタンに投票し、来年の選挙でもそうしようとしている。職務遂行中に、おそらくはあなたのミスが原因で、相棒を亡くしており、そのことであなたは自分を責めているか、あるいはそのことに対して気まずい思いを抱いている。でも、上層部はあなたに責任はなかったと考えている。それから、あなたは最新作のジェームズ・ボンドを映画館に行って観ているが、どちらかというとテレビでメグレを観るか、リノ・ヴァンチュラの映画を観るほうが好きだ」(P.43)

これが記号学である!

別にフランスの近代思想家の著作を読んでいる必要はありません。名前を知らなくても大丈夫です。純粋なエンタメとして十分楽しめます。でも読んだことは無いけど興味がある、あるいは好きで読んでいる、という人には垂涎ものの小説だと思う(ちなみに私は読んだことは無いけど興味がある派)。
特に、あの、秘密結社集会に参加するシーンとかね、たまんないですよね……! カーチェイス場面も最高でした。映画化はいつですか。

以下、ネタバレを含むので隠しておきます。未読の方はご注意ください。


というわけで、ネタバレを含むメモです。

結局あの日本人二人は何だったんだ? というのが最大の疑問。日本びいきのバルトに免じてのスペシャルゲストか。いい役をくれてありがとう。ブルガリア人は悪役みたいになっちゃったけど……
そういえばデリダがあそこで死ぬとは不意打ちでした。彼もっと長生きしたじゃん。まぁフィクションだからあり得るんだけど、そういうところで史実通りにしないとは思っていなくて、油断していた。

あとお気に入り場面はいくつもあって、たとえば可哀そうなハメッドが死んでしまうカーチェイスの場面。そして忘れちゃいけない〈ロゴス・クラブ〉の興奮。バロックVSクラシックは燃えた。あとスマートでクレバーなスリマーヌは一番好きなキャラクターかも。
疑わしいポイント(指のない男、追ってくる車など)の出し方は読者に親切で分かりやすく、いつ答えが出るかなと楽しみでした。うまいやり方だ。

そしてビネといえばメタ小説。
『HHhH』のときにはやたら存在感の濃い「僕」が出張っていたのが好きでした。今回も「僕」がカフェの位置にコメントしたりしていたので、そういう作風で進めるんだなと思って読み進めていったのですが、だんだん「僕」の影が薄くなって「シモン」にその座を譲るようになっていった。だから本書ではそういうのは薄めでいくのかなと思っていたのですが、最後はちゃんとメタ小説だったのにはニヤニヤしてしまった。待っていました、これだよ!

 シモンは後ずさりしながら考える。もし自分が本当に小説の登場人物だとしたら(この状況、仮面の男たち、やたらに目立つものを持っていることなどからよけいにこの仮定は信憑性を帯びるわけだが、陳腐な紋切り型を恐れない小説もあるのだろうか、とシモンは思う)、いったいどんな危険を冒そうとしているのだろう? 小説は夢ではない。小説のなかで死ぬことだってあるのだ。とはいえ、ふつうなら、主人公が殺されてしまうことはない。ただし、時と場合によって、物語の終わりで死ぬことはあるとしても。
 でも、これが物語の終わりじゃないって、どうしてわかる? 自分が今、人生のどのページにいるかなんて、どうしてわかる? 人生の最後のページまで来たことをどうして知ることができる?
 で、もし仮に、自分が主人公ではないとしたら? どんな人でも、自分がこの人生の主人公だと信じているのではないだろうか?
 シモンはコンセプチュアルな観点に立って、小説的存在論の角度から生死の問題を正しく判定できるだけの情報を持っているとは思えなかったので、まだ時間があるうちに、つまり仮面の男が歩み寄ってきて空瓶で殴りかかってくる前に、より現実的な方策を考えることにした。(P.375)

ビネのこういうとこが好き。これだけ抜粋するとただのメタ小説じゃんって感じになっちゃうのが残念なのですが、ここに至るまでの経緯と、そしてここからエンドロールに向っていく伏線にもなっているのが上手いんだよなぁ。細かい言葉選びも『言語の七番目の機能』ならではの言葉だし、丁寧に組み立てられた美しい小説だ。だいたい『言語の七番目の機能』ってタイトルからして、うっとりしますよね。

あぁ、面白かった。ビネが昨年刊行したという "Civilisations" はインカ帝国がヨーロッパを支配する歴史改変SFだという噂なので、こちらも楽しみにしています。