好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

高村友也『存在消滅 死の恐怖をめぐる哲学エッセイ』を読みました

半年以上ぶりにブログを更新します。
これまでの人生でもっとも仕事が忙しい一年を送っており、読書量が減ったり外出頻度が減ったりしましたがそろそろ復帰したいところ。
書店の巡回は定期的に行っており、この本も書店でたまたま見かけて買いました。こういう本を、多分ずっと探していた。

この本に書かれているのは「私がどれだけ死ぬことを怖いと思っているか」ということに尽きる。

 そうしていつも、私は同じところに戻ってきてしまう。永遠の無。多くの人はこの恐怖を前に、どうして平然としていられるのだろうか。(P.128)

どうなんでしょうか、私も昔からずっと不思議なんですけど、世の中の人達は自分という存在が遅かれ早かれ死ぬということをどう捉えているんですか? 信仰のある人については、まぁわからなくもないんですが、あの世とか来世とかまるで信じていなさそうな現代人は、自分というものが、意識というものがいずれ消えてしまうことについてどう折り合いをつけているのか、ずっと不思議でならない。いったいどうやって生きてるんだ?

いつか自分が死ぬという事実に取り憑かれてしまったのが著者の高村友也です。そして彼の文章を読んで「あーわかる……」と思ったのが私です。Twitterでこの本を読んだことをツイートしたときに何人かの方がいいねしてくださったのを見て、そういう人は一定数いるんだなということを知りました。事例のひとつとして、同じように死ぬのが怖いと思っている方のなにかに役立てればと思い、私のライフハックを本記事に少し書いておきます。特に死を気にせず生きられる方は、まぁこんなやつもいるんだな、くらいに思っていただければよいです。考えなくて済むならそれに越したことはないと思っているので、別に拡散したいわけではないですし。

人によっては地雷にもなる内容だと思うので、本記事の要点を書いて、詳しい内容は折りたたんでおきます。苦手だな、と思う方は無理なさらず。

・死ぬのが怖いと思ったときの私の対処法・・・純粋なライフハックです。私はこうして生き延びている。
・著者の考え方との違い・・・「死ぬのが怖い」は同じなのですが、そこからの考え方が割と違って面白いな、と思ったので、私の場合の考え方を書いておきます。
・生殖行為について・・・本ではまったく触れられてなかったんですけど、気になって仕方ないので書いておく。いつか死ぬ存在を能動的に生み出す気持ちが私にはまったくわからない、という訴えです。産む性かどうかで感覚違うのでしょうか。ちなみに理解はできないけど否定するつもりはないので、自分以外の人たちが子供を産むことを咎める意図はないです。

以下、本文。



・死ぬのが怖いと思ったときの私の対処法

 いやしかし、さしあたって生きてゆくためには「死の問題そのもの」ではなく「死の問題を考えてしまう」ことが問題である。そういう思考癖を持つようになった経緯を反省し、「生き方」を良くしようとすることが、つまり、あまり自分自身について考えないようにしたり、目の前にあるものを大切にしたり、それなりに毎日を忙しく過ごしたりすることが、唯一の生きる術なのかもしれない。(P.46)

著者はまじめなので「考えないだけでは根本的な解決にはならない」としていろいろ思索をするのですが(その経緯を書いた文章も非常に面白いのですが)、私は怠惰なので、いつか死ぬのだと直観して恐怖に溺れたときから早々に白旗を上げました。不死を叶えるとか肉体を捨てるとか信仰を持つとかいくつか検討してみたけど、それよりも明日を迎えるために暫定対処として正気を保つ必要があった。

人によるかと思いますが、私の場合、「いずれ死ぬのだ、私の存在が無になるのだ」という感覚(以下、発作と呼びます)が来るのは高確率でお風呂に入っているときです。肉体の存在を通常よりも強く意識するためかもしれない。なのでなるべく浴室では余計なこと考えなくて済むように、湯船の中で読む本を持ち込むことにしている(それでもミステリや戦争やSFなどは死を想起させるためタブーで、日常エッセイ系が安全だ)。それでもなにかの拍子にひょいっと「いつか身体の制御を失うんだな」「思考が消えるんだな」というのが頭をよぎって発作が起きる。そうなったらもう駄目なので、全力で意識をそこから逸らす必要がある。
「大きな声を上げる」「腕や脚を叩く」などが有効で、なにか歌を歌ったりするのもアリです。身体を使ったほうがいい。立ち上がったり、座ったり。違うことを考えた方がいい。冷蔵庫の中身を思い出して、明日の昼食と夕食の計画を立てる。買うべきものをリストアップする。それらを声に出して行う。大丈夫、まだ生きている。ソレから目を逸らせば、まだ思考を保っていられる。

ちなみに発作が起きた場合どういう感覚になるかというと、血の気がさぁっと引いて「とにかくめちゃくちゃ怖い」としか言いようがないです。学生時代に一度周りに人がいる教室で発作が来たことがあったけど、基本的に周りに人がいたり、誰かと会話していたりするときは起きない。一人でいるときも、四六時中悩まされているわけではないし、「あ、これは来るな」という気配を感じられるようになっているので、一瞬先に意識を逸らすということもできるようになりました。なので私の場合は、そこまで生活に支障があるわけではない。でもまぁ、根本的な対処ではないですよね。


・著者の考え方との違い

 人生が終わることそのものを諦めることができるだろうか。私にはできない。死ぬことだけは、どのような意味においても諦めがつかない。生に対する執着しかない。(P.115)

「死ぬのが怖い」を文章化したこの本の記述から、著者が感じている恐怖と私が感じている恐怖は同じ種類のものだろうなとは思っているのですが、その事実からの考え方が結構違ったのが印象的でした。
著者は「とにかく死ぬのが怖いから死をなるべく先延ばしにしたい、死にたくない」なのですが、私は「とにかく死ぬのが怖いから死が怖くないようになりたい、怖くない状態で自分の意図したタイミングで死にたい」なのです。死ぬのが怖いから怖いので、怖くないなら怖くないじゃん、という理屈。死ななくて済むならそれが一番良さそうだけど、それはどうも無理そうだから、だったら怖くなくなるほうがまだ現実的だと思っている。
もっとも著者は「死ぬのが怖くなくなったらそれは自分ではない」と考えているとのことなので、割と早い段階で分岐しているのかも。

人生が終わることそのものは、私は、誠に遺憾ながら諦めている。それはどうやら避けられないようだ。たとえ寿命が1万年に延びたとしても、1万年後には消えるさだめなのであれば、それは避けられないのだ。
到底納得はしていないが、死ぬこと自体は理屈として受け入れよう。だがせめて、いつ死ぬかくらいは自分で決めさせてほしい。生まれた時も、生まれるかどうかも選べなかったんだから、思考する生物として生まれたからには、死ぬタイミングくらいは選ばせてほしい。だいたい生きているというだけでいつ死ぬかなんてわからないのだから、常に頭の後ろに拳銃突きつけられているようなものだ。頭の後ろの拳銃で死ぬ限り、そのタイミングは私のタイミングではないのだ。こんな理不尽ある? だったら自分で選ばせてくれよ、と思う。至極まっとうな主張だと思っている。

とはいえ死ぬのは怖い。なんと愚かな感情だろうか、死ぬのが怖くさえなければ私はいつだって自分の意志で決着をつけられるのに、恐怖などという原始的なもののせいでそれが叶わないのだ。長生きしたらいつ死んでもいいって思えるようになるだろうか。ビルの高層部から窓の外を見るたびに「今ここから飛び降りられるか?」と自問するのですが、それは怖いなって毎回思ってしまうのだ。どうせいつかは死ぬのなら、それがどうして今ではいけないのか? というのはこれまで何度も考えたことではあるのですが、「今はまだ怖いから」以上の答えはない。生きている限りいずれ来る死に怯えて暮らすなら、ちょっとした気の迷いでもいいからさっさと舞台から降りたほうが楽なのではないかとずっと考えているけど、とにかく死ぬのが怖い一心でまだ実現できないでいる。こんな欲は、はやく手放してしまいたいのですが。
しかしまぁ、どんなに辛いことがあってもどうせ最後は死ぬんだし、と思うと一周回ってどうでもよくなるという考え方もある。どうせあの世には持っていけないのに貯金なんか必要ですかね? 明日死ぬかもしれないのに? とはいえ、そういう考え方をしない人たちによって世界はうまく回っているのだ。せめて皆様のお邪魔にならないようにしたいとは思っているので、普段こういうことは口にしないことにしています。


・生殖行為について

本には書かれていなかったことですが、個人的に気になるので、死ぬのが怖い人たちにぜひ聞いてみたい。いつか死ぬ存在を能動的に生み出す行為について、どう思っているのか?

生まれることは呪いだ。生まれたものは、ひとつの例外もなく、いつか死を、終わりを迎えなくてはならない。
私は死ぬのが怖いので、いつか死ぬ存在をわざわざ産む気はさらさらないし、なんと罪深い行為かと思っている。むしろ死ぬ恐怖を知っているなら産もうなんて思わないのでは?
しかもヒトであれば、生まれてくる存在はきっと自意識を、私とは別個の<私>の視点をもって生まれてくるのでしょう。私の体内から私でない意識をもつ別の存在を産み出す行為を、私はおぞましいと思う。自分の体内からエイリアンがでてくるのと同じような種類のおぞましさだ。体外受精にしたとしても、その私ではない<私>の意識を持つ存在が、私に由来するというのが気持ち悪くてたまらない。なんというホラーか。その存在は、私とは異なる死を迎えるのだ。私が産まなければ防げる死だ。

そんなわけで私は性行為に及ぶ際には避妊には十分気をつけるけど、それでもやっぱり快楽がどうとかいう以前に「妊娠したらいつか死ぬ存在を生み出すことになってしまう」という恐怖が頭の片隅にずっとあって、気が気じゃない。だから手術して子宮取り除くとか、挿入なしの約束とかしないと楽しめないだろうと思っているけど、男性性で死の恐怖を知っている人はどんなふうに考えてどういう対処をしているんだろうかというのは興味ある。どうですか?

ちなみに自分は反出生主義なんだろうか?と思ってちらっと本を読んだりしたけど、なんだか彼らの理論とはちょっと相容れない感じだなぁと思っています。産みたくないのは私個人の意志であって、人類全体をどうこう言うつもりはないです。私が死んだ後の世界になんて、興味ないですし。



そんなわけで、できるだけ恐怖から目を逸らしながら最期の時を先延ばしにしつつ、とはいえいつか来るXデーのために正気を保てる範囲で準備をしつつ(しかし何すりゃいいの?)だましだまし生きていく所存です。この記事はなんの解決も提供しないけれど、似たようなことを考えている人が少しでも安心できれば幸いです。
なんとかして、社会の一員として正気を保っていきましょう。全力で目を逸らしていいのだ。勝ち目のない戦いに挑む必要はない。なるべく穏やかな負け方を模索しましょう。