好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

「2022年の『ユリシーズ』」の読書会(第十一回:第十一挿話)に参加しました

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2021年4月25日にZoom上で開催された「2022年の『ユリシーズ』」の読書会、第十一回目に参加しました。

2019年に始まったこの読書会は『ユリシーズ』刊行100周年である2022年まで、3年かけて『ユリシーズ』を読んでいこうという壮大な企画で、ジェイムズ・ジョイスの研究者である南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんの3名が主催されているものです。なお読書会共通のテキストとして使用しているのは柳瀬訳です。
この記事では一参加者としての個人的な第十一挿話の感想について記載していますが、作品解説やあらすじ紹介のようなものはありません。内容が気になる方は上記URLにて公開される資料をご覧ください。


さて、第十一挿話は「セイレン」。オーモンド・ホテルでサイモン・デッダラスらが歌い、ブルームがリッチーと食事をしながら歌を聞き、その間にボイランが馬車を走らせる場面です。

あの、しかし、早めに正直に書いておきますけど、私は第十一挿話が嫌いです。もう全然楽しくなかった! だって全然わからないんだ! そして今もわからない! 文字を追うのが辛すぎる!

ということで、何故十一挿話がこんなに嫌いなのかを考えてみたわけですけども、理由はだいたいわかっています。語順がぐちゃぐちゃで読みにくいったらないのだ。

 甘いお茶をケネディ嬢は注いでミルクを入れてから両手の小指で耳栓をした。(P.439)

上の文章なんか、お手本のような悪文である。読みやすくするなら「ケネディ嬢は甘いお茶を注いでミルクを入れてから、両手の小指で耳栓をした」という語順になるはずなのだ。
ちなみに私は『ユリシーズ』を読むときに、英語の原文と柳瀬訳を対訳のような形で Word でタイプしている(写経)のですが、上記柳瀬訳は英語原文の語順に忠実で、英文も「Sweet tea」から始まっています。つまり、原文でも「お茶」から文章が始まる読みづらい文章なのです。しかしもう一つの有名な日本語版『ユリシーズ』である丸谷才一らの訳(以下、鼎訳)では「ミス・ケネディはおいしいお茶とミルクを入れてから…(単行本版2巻 P.21)」となっているので、読みやすいように語順を変えたようでした。
訳文は解釈の問題なので、どちらの訳が適切かという点についてはここでは触れないでおく。しかし少なくとも、柳瀬訳と原文の読みにくい語順は「わざと」だ。となると、ジョイスはなんでわざわざこんな語順にしたんだ?
きっと何かジョイスなりの理由があるんだろう。この語順でなければならない理由が。でも読者である私に一ミリも伝わってないんですけど。私の修行が足りないという可能性が濃厚ではあるけど、ジョイスは読者に何を求めてるんだ。

とはいえ、これはまだいい方です。ちゃんと読めば何が書いてあるかわかる文章だし。
問題は以下のような部分。

 やんわりとブルームは肝無しベイコンの向うに強張った表情の歪む律動を見た。腰痛だ。ブライト病のぎらぎら眼。プログラムの次なる曲は。支払い増え笛の曲折。丸薬、パン屑弾奏製、値一箱一ギニー。しばしの休止符。耳鳴りも。五人囃子が死んじゃった。おあつらえ向き。腎臓パイ。美しい花を美し。あまり儲っていない。で値頃最高。いかにもこの男らしい。パワーか。飲むものにはうるさいからな。グラスに傷があるだの、新鮮なヴァートリ水だのと。カウンターからマッチをくすねて倹約。そうして一ポンド金貨をちょびりちょびりと散財する。で、当てにされるときには一銭も出さない。酔っぱらうと馬車賃も踏み倒す。変り種。(P.462)

ブルームとリッチーが歌を聞きながら食事をする場面です。歌声を聞きながら、ブルームが対面に座るリッチーについて何か考えてるんだろうなとは思うけれど。思うけれど! 意味がわからない! 原文を見てもやっぱりわからない。鼎訳の註を見て細かい語彙の知識はついても、根本的な疑問は何も解決しない。「パン屑弾奏製(pounded bread)」って、何故そんな単語がここで出て来るんだ。テーブルの上にパン屑でも落ちていたのか。しかしなんでこんな単語になるの?

そんな感じでまるでわからない文章がごろごろ出て来るので、ずっとイライラして読んでました。第十一挿話なんか嫌いだ。

でも読書会であらすじを聞き、他の参加者の感想なども聞いて少し落ち着きました。『ユリシーズ』二周目以降なら、もうすこし分かり合えるかもしれない、などと淡い期待を抱いている。一周目では、これは無理だ。


読書会では、第十一挿話の冒頭部分について盛り上がったのが非常に面白かったです。
そう、冒頭部分! 柳瀬訳P.433~P.436の「開始!」までの部分です。この「冒頭部分」が第十一挿話に存在する意味は何なのか。それによってどんな効果があるのか。
冒頭部分を初めて読んだときはあまりの意味不明さに「わからーん!」と心の中でちゃぶ台を100回くらいひっくり返したくなったし、私が第十一挿話を嫌いな理由の一つでもある。前述の二つの抜粋部分など比べ物にならないくらいわけのわからん部分。散々惑わされてこれがセイレーンの歌声か……とも思った。だって「こなまこしゃくしゃくしゃくしゃ。(P.433)」なんて、初読でわかるわけがないのだ。でも第十一挿話を一通り読み終えると、挿話で書かれたあれこれをつまみ出して並べていることに気づく。気づきはするけど、意味はわからない。
読者が初読じゃ理解できないことをジョイス自身は当然わかっていて、狙ってやってるのだ。この冒頭部分をここに書こうとしたときの、そして仕上げた時のジョイスの顔が見てみたいものである。さぞ悪い顔をしていたことだろう。
第十一挿話のテーマは音楽、音、楽曲であって、この冒頭部分が第十一挿話の「序曲」にあたるというのは、まぁ理解はできる。序曲だから冒頭じゃなきゃいけないんだ、というのは理性的な説明だ。
だけどそれだけじゃなくて、最後に置いたらどうなる? とか、この部分が無かったら挿話全体としてどうなるだろうか? という話題がこの読書会ではごく自然に出てきて、それでzoomのコメント欄が盛り上がっていた。これがこの読書会の凄いところだと思います。読んでいて意味がわからなくても、読書会があるからとりあえず目を通すだけでもしておこう、という気になれる。一人で読み進めるだけだったら、私はきっと第十一挿話で脱落していたことでしょう。


なお第十二挿話「キュクロープス」の読書会は6月下旬。すでに写経(英文と柳瀬訳の対訳まとめ)を進めていますが、分量は長いものの、第十一挿話よりずっと読みやすくて面白いです。第十二挿話は、柳瀬訳で読む最後の挿話だ。次回の読書会も楽しみにしてます。