好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

松本清張『昭和史発掘 5』を読みました

文春文庫の古い版で読んでいる『昭和史発掘』5巻を読み終えました。
ISBNなし、amazonの新版は収録内容が違うのでリンクは無しです。

旧版5巻の内容は以下の通り。

・スパイ"M"の謀略
小林多喜二の死

これまでずっと三本立てだったのですが、ここで初の二本立て。「スパイM」の話が2本分くらいの長さがありました。そしてとっても面白かった。

『昭和史発掘 2』に収録されていた「三・一五共産党検挙」では、昭和初期の共産党が壊滅的な打撃を受けるさまが描かれていました。
5巻の「スパイM」はその続きにあたるもので、中心的メンバを失った共産党がそれでもなんとかして党を再建しようとし、しかし特高に阻止されるという話です。当時の特高の強いこと!しかし特高優位の情勢にはとあるスパイが一役買っていたという……ううむ、事実は小説より何とやらというやつですね。

しかもこの「スパイM」、なんと銀行強盗の話から始まる。まるで映画だ。時は昭和7年10月6日、場所は東京・大森です。

 十月七日付の朝刊記事はその事件のことを次のように出している。
 ――六日午後四時ごろ、大森銀座といわれる交通の激しい大森区入新井町川崎第百銀行大森支店玄関に自動車で乗りつけた三名の怪漢があった。裏口へまわった彼らのうち、第一の男は両手にピストルを二挺、第二、第三の男は片手に一挺ずつのピストルをもって行内に押入った。彼らは、閉店直後整理中の行員にピストルを二発発射し、全員を応接間の片隅に押込み、出納係員が験算のため机の上に積んでいた紙幣の百円束、十円束をワシづかみに強奪して持参の鞄につめた。そのあと、現場にピストルのケース二個を残して、恐怖する行員をにらみつけながら立去った。
 犯人二人は待たせてあった自動車で逃走したが、一人は悠々と歩いて逃げた。この間わずかに七、八分で、犯人が逃走に使った自動車は、目撃者によると、フォードの幌型で、番号は「532x」とまではわかったが、第四位の数字は不明だった。(P.8)

よくできた話だな!という感じですがそれもそのはず、この銀行強盗は仕組まれたシナリオ、特高共産党を一網打尽にするために張った罠だったのでした。
ではどうして共産党員はこんな犯罪に手を染めてしまったのか。この罠を張るために共産党にもぐり込んでいたスパイとはどんな奴だったのか。
…というようなことが、たっぷりページを割いて書かれています。松本清張、きっとノリノリで書いていたんだろうなぁと思います。力が入っている。

4巻の「五・一五事件」の時も思いましたが、計画を立てて実行するって、やっぱり難しいものなんですね。組織活動、特に人目を忍んで実行しなければならない活動は難しい。若い人はどうしたって経験値が少ないから、なおさらだ。
五・一五事件」のときも場当たり的な行動などが目立った(軍人ですら!)けど、主要メンバが摘発されて若手ばかりが残った共産党も、それまでの活動に比べると結構穴があるのを感じる。大変だったのだろうな。特高の高笑いが行間から聞こえてくるようだ。

ちなみにここでは日本の共産党に壊滅的な打撃を与えるために大活躍したスパイMに対して、ロシアで活躍したスパイ・マリノフスキーについても言及されています。今回初めて知りましたが、彼もなかなかの活躍だったようですね。レーニンの信頼も篤く、スターリンさえも売ったという…。この辺の話も面白かった。


つづく「小林多喜二の死」はプロレタリア文学の話です。
昭和史発掘はどれも暗い話が続くので読んでて辛いところがあるのですが、このパートは特につらかった。プロレタリア文学は大学の頃にいくつか読みましたが、描写がきっついんですよね…めちゃくちゃ痛そうなんだ。

 私は、ここで小林多喜二の文学論を書くつもりはない。また、かつての拙稿「潤一郎と春夫」(第三巻所収)でしたような方法を用いようとも思わない。ここでは昭和史の進行途上に小林多喜二という特異な作家を浮ばせて当時の雰囲気を描こうとするだけである。(P.191)

松本清張は昭和初期をリアルタイムで生きていたので、取り上げるトピックにはきっと彼自身の印象や意図が強く反映されている。

 芥川が自殺したとき私は十七歳だった。この稿の「芥川龍之介の死」のところで書いたが、彼の自殺記事が大きく出た新聞をもってきたのは、私が間借をしている家の若い主婦であった。階下から急いで上った彼女はその「文壇の雄芥川龍之介氏自殺」という大見出しのところを折って息をはずませながら私に突きつけたのを今でもありありとおぼえている。そのころ私は芥川の作品の熱心な愛好者だったし、その主婦もそうだった。このときのショックは大きかった。
 小林多喜二の死は新聞で知ったことよりも、暗い部屋で、ある年上の友人からひそひそと語られたのだった。(P,193)

時代を経ると評価の高い作品が淘汰されて残るので、今の我々が手に取りやすいプロレタリア文学も、プロレタリア文学の中でも特に完成度の高いものが主となります。時代によってふるいにかけられるのは読者からすれば悪いことではないのだけど、小林多喜二以前のプロレタリア文学は「存在してはいたけど完成度は低かった」というのを今回初めて知って、あ、そうだったんだ、という感じです。
しかし私の中でプロレタリアと共産主義無政府主義がごっちゃになっていて、どう違うのかイマイチわからない。発刊している雑誌とかで細分化できるのだろうけれど…ややこしいところではあります。

小林多喜二の生涯と出世の経緯を知って、彼が文学史においていかに重大な人物なのかというのはよくわかりました。でもやっぱり、彼の作品をもう一度読み返すのはきついな…

次は6巻です。