好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』(雨沢泰 訳)を読みました

白の闇 新装版

白の闇 新装版

「はじめての海外文学スペシャル2020」で紹介されていて気になってました。ようやく読みましたが、読み始めてから読み終わるまで結構時間がかかって、しんどかったです……でもしばらく置いてたとかではなく、コンスタンスに読み続けてはいました。ページを捲ってしまう不思議。でもあまりスイスイ読めるわけではない、読みたくないわけではないしんどさ。

この小説は、突然「ミルク色の海に落ちたように」視界が真っ白になって何も見えなくなるという謎の伝染病が人々を襲う話です。とある男が車の運転席で信号待ちをしていた時に突如失明するところから物語は始まります。そしてその男に接触したあらゆる人が次々と視覚を失っていく。その中でたった一人「医者の妻」だけが視力を持ち続け、すべてを見続ける。
著者はポルトガルの人だけれど、舞台となっている国の名前も街の名前も提示されない。さらに登場する人々の誰一人として、名前を持たない。どこでもない、誰でもないということは、どこでもあり誰でもあるということだ。

ちなみにこの小説はSFではありません。「目が見えなくなる」は科学的な病としては描かれていないし、「医者の妻」だけが感染を免れた理由も最後までわからない。その辺の事情は、この小説での主題ではない。帯に哲学的寓話と書かれているのは、そういうことだ。

最初に失明した男(名前がないので、小説の中でもずっとこの名前で呼ばれている)は視力を失って運転ができなくなってしまったので、彼を家まで送ってあげる若い男が出てきます。彼は失明した男の代りに彼の車を運転し、心細いだろうからと家族が帰ってくるまで一緒にいてあげようと申し出るけれど、強盗を働く気では? と疑いを持った男に断られる。代わりと言っては何だけど、若い男は失明した男を送り届けた車を盗む。このあたりがいかにもありそうな気持の動きです。サラマーゴは至る所で、こういう細かい描写がとても上手かった。周りをよく見ている人なんだろうな。

 失明した男を助けようと申し出た男は、あとで車を盗んだとはいえ、助けたときは悪事を働くなどこれっぽっちも考えておらず、むしろその反対で、ただ心に湧いた寛容と奉仕の精神にしたがっただけだった。このふたつは、ごぞんじのように人間のいちばんの美点というべき性質であり、貧しい者の弱みにつけこんでこのビジネスの元締めから搾取されている彼のような、稼業の先行きになんの希望もないケチな車泥棒よりも、年季の入った犯罪者にはるかに多くみられると言えた。つまり困った者に救いの手を差しのべて利用しているわけで、ようするにあとでなにかを盗んでやろうという下心で失明した男を助けるのも、足もとがおぼつかず呂律のまわらない片眼の老人を遺産ほしさに世話するのも、それほど違いはないのである。(中略)わたしたちとしては、かりに失明した男がこの偽サマリア人のふたつ目の申し出を受け入れていたら、最後の瞬間に寛容の精神がきっと打ち勝っていただろうと思うのである。そう、妻が戻ってくるまでいっしょにいてやろうかと言ったあの言葉だ。とはいえ、こうして与えられた信頼から生じた道徳的責任感が、犯罪の誘惑をおさえこみ、どんなに堕落した心のなかにもかならず見つかる輝かしく気高い感情に勝利させるかどうか、それはわからない。ありふれた注釈を終えるにあたって、いまも教訓たりえている古いことわざにならっておくと、失明した男は十字を切ろうとして鼻っ柱を追ったのだった。(P.24-25)

しかしこの小説の語り手は誰なのか。えらく饒舌で、世の中とは……などと語りはじめたりする。普通に考えたら作者なのかな。すべてを知り、実況と解説を兼務しているようなこの語りが、この小説をより寓話っぽくしているのでしょう。

そして何よりもぞっとするのが、視界を失った人々が人間性というべきものをどんどん失って、野性的・原始的になっていくところ。人類は長い進化の過程で、視覚に重きを置いて行動するよう自らをデザインしてきた動物だと思うので、文明社会も視覚に大きく依存しているのは頷ける。もちろん目が悪い人も見えない人もいるわけだけど、視覚を助ける人や器具が彼らに寄り添うことが常に期待されていて、視覚のない人だけの社会というのははなから想定されていない。だからこの小説世界のようにすべての人が視力を失ってしまえば、今の世の中は当然立ちいかなくなってしまうだろう。全自動になるほど技術が発達しているわけではなく、しかし蛇口をひねれば水が出て、スイッチを入れれば電気がつくのが当たり前な程度に便利な社会。ライフラインはメンテを怠ればあっけなく崩壊する。
文明世界から切り離されて原始的な生活を送らざるを得ないシチュエーションというのはいろんな作品で見たことがあるけれど、この小説が特徴的なのは、彼らは目が見えないということだ。目が見えていれば、いろんな創意工夫で協力しあって逞しく生きていくこともできそうだけど、何かしようとしたときに視界が塞がれているという恐怖感は、ちょっと想像しただけでも「うわっ」て感じ。きっと私なら、そこから一歩も動けないだろう。そして動けない、行動できないというのは、もう滅びの道へ一直線だ。

そんな中でたった一人見続けることができる「医者の妻」は、やっぱり異質な存在だ。語り手だけでは語りつくせないこの物語世界を観察する役目を負わされた人物であることは分かるけども。多分この世界で「見える」ということは、文明社会の存在であり続けるということなんだろう。人間として、健康で文化的な最低限度の生活の回復を目指すことができる存在。失われたものを取り戻す努力をする余裕をまだ維持できる存在?
なんか人間至上主義っぽくてあまり好きではないけれど、なんとなくわかる。これまで見える世界で生きてきた人が見えない世界に突然放り出されて、助けてくれる人もいなくて、歩いて何かにぶつかれば痛いし、きっとそんな自分が情けなくって悲しくて仕方ない気持ちになるだろう。そうしてだんだんと、ただ命を繋ぐだけの生き物になる。現代社会の人間から離れた存在になっていく。引き戻してくれる誰かは必要なのかもしれない。たった一人でも。言葉を交わさなくても、同じ世界にそういう存在がいるということが必要なのかもしれない。

この小説を映画化した「ブラインドネス」はぜひ観たいです。あとドゥニ・ヴィルヌーヴがサラマーゴの『複製された男』という作品を映画化しているらしいので、それも観たいし読みたい。
ちなみに巻末の訳者あとがきで、本書の続編にあたる『見えることについての考察』という作品があることが書かれているのですが、2021年現在も邦訳は出ていないようです。読みたいのでぜひ……ぜひ邦訳をお願いします!