好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ヨシフ・ブロツキー『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』(金関寿夫 訳)を読みました

ヴェネツィア 水の迷宮の夢

ヴェネツィア 水の迷宮の夢

結構前にブックオフで買ったものです。ちょくちょく見かけるので、ベストセラーになったんでしょうか。帯に「ノーベル賞受賞作家の小説、本邦初紹介!」と銘打ってあるので、そういう売り出し方だったようす。ノーベル賞作家というところよりも、ヴェネツィアに惹かれて買ったのですが。

小説なのか回想録なのか区別がつかないような本が好きなので、この本は非常に好みでした。というか、文章の雰囲気がめっちゃ好みでした。ブロツキー、初めて読みましたけど、詩人と聞いて納得。原文も美しいのだろうな。
ブロツキーは1940年にサンクト・ペテルブルグで生まれて、1972年にアメリカに亡命している。本書は英語で書かれ1992年に刊行されたものとのこと。母語ではない言葉で書く人。

ヴェネツィアには少し前に行ったことがあります。珍しく美術館に全然入らなかったのは、街を歩いたり教会に入ったりするだけで十分に満たされたから。ヴェネツィアという街そのものが美術館だとみんなが口をそろえて言うけれど、本当だった。

ブロツキーは毎年冬にヴェネツィアを訪れていたらしい。何度も過ごしたヴェネツィアの冬の美しさについてひたすらに書いているのだけど、強調されているポイントがある。網膜に写るもの、揺れる水に写るもの、古い鏡に写るもの、曲がりくねる路地と運河、何度も繰り返す冬。曖昧で、うつろいやすいもの。うつろいやすい水に浮ぶ島の上で、何世紀もの時を経てきた確固たる建築物。

もっとも――ただの先祖がえりではないにしても――波が砂のうえに残す模様と、ジュラ期の海獣魚竜を祖先にもつ人間という名の怪物〈モンスター〉が、その模様をじっと見詰めるということとの間には、たしかに何か進化論的な、自伝的なかかわりがあるように思われる。ヴェネツィアファサードの垂直方向にのびるレース模様は「時」、その別名は、「水」が、堅い地表〈テッラ・フェルマ〉に刻み付けた最高に美しい線である。それに直截的な依存関係ではないとしても、そのレースを陳列するものが方形になる性質があること、つまりこの町の建物の形と、形という概念を軽蔑している水の無秩序性〈アナキー〉との間には、明らかに何か対応があるように思える。それはまた空間が、他のどこよりも、ここではそれが時間にかなわないことをよく承知していて、時間が持っていない唯一のもので、精一杯対抗しようとしているみたいでもあるのだ――すなわち美によって。だから水はこの答を受け取るかのように、それをねじ曲げ、それを叩き付け、それをずたずたにする。だが結局は何も傷つけることなく、その大半をアドリア海に流しこむのだ。(P.47-48)

私も旅先を選ぶとき、大きな川のある街や海辺の街を選びがちな人です。川べりを散歩したり、海べりで波をぼーっと見ているのが好き。静止していないところがいいのだろうか。アナーキーという表現がいいなぁ。文章が実に美しくて好きだ。目を運ぶためだけの体になるとか、この町では人の数より天使の数の方が多いとか。

しかしブロツキーの、視覚に対する執着がすごい。

 ぼくたちの体の中で、それだけで独立しうる器官があるとすれば、一番それがやり易いのは「目」だと思う。それというのも、目の対象物というのがいつの場合も、「外」にあるからだ。目は鏡に向かう時以外、自分を見ることはない。眠りにつく時、最後に閉じるのが目だ。体が麻痺や突然死に襲われた時も、目は開いたままである。とくに必要のない時でも、またどんなことが起きても、目はいつも現実を記録し続ける。なぜだろう? 答えは、それは環境が敵意をもっているからだ。視覚というのは、いくらこちらがうまく合わせようと努力しても、常に敵意を抱いている「環境」と、うまく適応して行くための道具なのだ。きみが環境の中で生活する時間が長くなればなるほど、それに比例して、環境がきみに対して抱く敵意も増大する。といってぼくは、老年のことだけを言っているわけではない。要するに、目はいつも安全を求めているのだ。(P.110)

目は安全を求めている。だから慰めであり安全である美を好む。そしてヴェネツィアという街にいるかぎり、その視界に映るどんな風景も美に満ちている。

目という器官を通して認識する視界は、水晶体を通して網膜に写ったものだ。ヴェネツィアを象徴する運河の実体は大量の水で、水面は鏡のように街の風景を写す。ヴェネツィアの大運河(グランド・カナル)と、街の間を縫うように走る小さな運河の数々がヴェネツィアの目なのだとしたら、その街をそぞろ歩く人々は街に視られているのだろうか。ビッグ・ブラザー的なものではなくて、人の数より多い天使が見ているのかも。ヴェネツィアの街を歩く人が軒並み役者なのだとしたら、それは天上の存在への奉納なのかもしれない。

ブロツキーは本書の最後で総括のようなものを書いているけど、これがすべてではないと思う。運河と路地を張り巡らして、迷うことを誘ってくる街。夜が長い冬という季節にそんな街を幾度も訪れるというのはどういうことなのか。彼が冬ごとに、その網膜に写したものの断片を言葉にするというのはどういうことなのか。

すごく美しい文章でぐぐっと引き込まれましたが、読み切った感覚がどうにもない。何度でも読みたい本だった。断章で構成されているので、ぱっと開いたその場所から読み始めることもできる。しかしすべてはつながっている、運河のように。

散文詩のような本で、すごく好みでした。邦訳はあまり無いようですが、他のブロツキー作品も読んでみたい。