好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

松本清張『昭和史発掘 11』を読みました

父親のお下がりの文春文庫の古い版で読んでいる『昭和史発掘』11巻を読み終わりました。ISBNがついていなくて、新版は収録内容が違うので、リンクは無しで。

10巻でついに決行されてしまった二・二六事件、11巻では蹶起部隊の撤退の様子が描かれます。

二・二六事件 五
・占拠と戒厳令
・奉勅命令
・崩壊


蹶起サイドの年長組として北一輝がいるんですが、彼は辛亥革命で一度クーデターをその目で見たことがある人なんですよね。そして彼は、自分が足を突っ込んだこの蹶起が負け戦であることを、比較的早い段階で悟っていたらしい。

 北が青年将校皇道派の将軍連との間に連絡がなかったことを知って「しまった」と思ったのは、決行が青年将校の独走と知ったからである。革命は上下の全体的な計画のもとに行わなければ成功しないことを、彼は中国革命(辛亥革命)で見てきている。今度の場合、一般民衆の蜂起は考えられないのだ。中国の革命は、地方軍閥の一部の反政府運動が農民の参加によって革命運動にまで発展した。だが、青年将校昭和維新運動には民衆の直接参加がない。その主張には、相沢公判闘争を通じての宣伝で共感する者はあっても、その運動が民衆蜂起を誘発するだけの熟した条件はなかった。(P.56)

しかし無関係で済ませるには足を突っ込みすぎていた。北一輝、最後は法華経とか読んじゃってご神託とかしちゃってとっても山師っぽくて非常に興味深いので、そのうち伝記とか読みたいです。奇人なんだけど、その奇人ぶりを全うできる器があるというところが。

その後の日本史を知っている私にとっては最初から彼らの行動は負け戦だってわかっていたわけですが、当然当時の彼らは事象の最中にいるわけで、勝ちに行くつもりでいたのだ。蹶起部隊の中心人物たちはまぁ確かに読みが甘かったけど自分たちでやる気になって計画した結果なのだからまぁ仕方がない。それよりも、上官に言われて雪の中行軍をして、何をするのかよく知らないまま銃を構えた新年兵たちが私は気の毒でならなかったです。罪に問われるとか問われないとかじゃなくて、何も説明されないまま形の上だけでも反乱部隊に数えられてしまったことが、もう……。遺書とか出て来るんですよ。もう……


蹶起部隊が賊軍となったのは、この事件に対して天皇が徹底的に不快感を示したことが決定的な要因であるわけですが、そのご不興を知って蹶起部隊に同情的だった人々が次々と離れていくのがリアルだった。そうだよなぁ。そんなもんだよなぁ。でもつらい。
若い将校たちが農民が苦しい生活を強いられている現状を正として認めず立ち上がるのは立派だったと思うんだけど、天皇の神聖性を保持したまま世直ししようとした時点で、理論的に立ちいかなくなるものだったんだろうか。天皇が側近の悪い奴らに目を曇らされた状態でいるのを「晴らして差し上げる」という名目で立ち上ったのに、天皇自身が現状を進んで善しとしている状況って、しんどいよなぁ。まぁ11巻ではまだ彼らはそこまではっきりと天皇の意志を知らないのですが、もともと味方だと思っていた上官や皇族から見放される結果にはなっていて、もう、この時点で敗北へのカウントダウンが始まっていたんだな。


反乱部隊も皇軍、鎮圧部隊も皇軍。なんとしても相討ちだけは避けなければという緊張の数日間が続きます。蹶起部隊には上官命令で出動した多数の新兵たちがいて、彼らの命を無下に散らすのは、蹶起部隊の上官からしても、政府側の役人からしても忍びない。
そこで一般の兵に向けた呼びかけを書いたビラを撒くという対策が取られたらしいのですが、これが非常に印象的でした。

「……正しいことをして居ると信じていたのに、それが間違って居たと知ったならば、徒らに今迄の行懸りや義理上から何時までも反抗的態度を取って、天皇陛下に叛き奉り、逆賊としての汚名を永久に受けるような事があってはならない。
 今からでも決して遅くないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ、そうしたら今までの罪も許されるのである。
 お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを心から祈って居るのである。速かに現在の位置を捨てて帰って来い」(P.229)

この呼びかけの内容や意義が正しいものかどうかというのは、多分もうこんな状況では問題ではないだろう。なんだかわからないうちに逆賊の汚名を着せられて、ああ田舎の家族はなんと思うだろうなんて思っている兵にこの呼びかけをすることの効果は凄かっただろうと思う。こんなんぐらっとくるだろう、「帰って来い」なんて言われたらさぁ。

こういう状況に限らず現代においても、自分が立つ位置というのを自分で選べる余地は少ないものだと思っている。自由に何にでもなれるって呼びかけは世間に溢れているけど、別に私は自分で選んで日本人なわけではないし、生れ育った土地だって自分では選べないし、しかしその選べない環境で身に着けた価値観が個の選択に大きな影響を与えるんだとしたら、自由意志なんて微々たるものだ。自由意志が必ずしも良いものというわけでもないので、そういった状況が良いか悪いかというのはまた別の話だとも思うけれども、なんだか空しくなってくることがないわけでもないです。流されて生きていくのを楽しむのも一興なのかな。

上官命令で出動した兵士たちは一応刑務所に入ったり営倉入りしたりという罰は受けたらしいのですが、そこで憲兵が言ったという言葉が凄い。

お前たちが悪いのではない、ただ上官が大義名分を誤っただけである。これからもあることだ、上官の命令は決して疑ってはならない、わが国の軍隊の強いのはここにある、お前たちには何ら罪はないから安心せよ、といった。(P.305)

まぁわが国に限らず、それが軍隊なのだろう。しかしすごい言葉だ。そういうことだったわけだ。ふぅん……

そして次の巻では、大義名分を誤った上官たちのその後の処置が描かれるはず。どんどん辛くなっていくけど読みます。