好物日記

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ブッツァーティ『タタール人の砂漠』(脇功 訳)を読みました

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

ずっと本棚に飾っていたブッツァーティの『タタール人の砂漠』を遂に読みました。いろんなところで良い評判を聞いていた小説でした。これが噂の!

内容をあまり知らずに読み始めたので、タイトルから砂漠を旅する物語だと思っていたのですが、全然違った。主人公の男は、砂漠には一歩たりとも足を踏み入れなかった……
カバーの折り返しには「二十世紀幻想文学の古典」と書かれているのですが、読んだ印象としては幻想文学って感じではなかったです。カフカ的というのはわかるけど、カフカ幻想文学じゃないよな。まぁ小説のジャンルというのはグラデーションであって、厳密な境界線があるわけではないけれど……。

この小説はごくごくおおざっぱに言うと、将校に任官した青年ジョヴァンニ・ドローゴが、初めての赴任地であるバスティアーニ砦で日々を過ごす話です。
バスティアーニ砦は北の国境に位置する砦で、隣国との間には大きな砂漠が広がっている。その砂漠を、砦の面々は「タタール人の砂漠」と呼んでいる。砂漠と、砦と、他には何もない。自慢できるのは料理だけ。
将校になったばかりのドローゴはごく一般的な若者なので、非番の日には町に出て女の子と遊んだりしたい。しかし赴任先の砦は町から遠く離れており、これといった娯楽もない。せっかく将校になったというのに、こんなはずではなかった! 別に志願してやって来た赴任地でもない。別の場所に配置換えしてもらおう。上官に挨拶をした際に配置換えを打診したドローゴは、しかし言いくるめられて四か月後の健康診断を待つことになる。


以下、小説の結末などに触れた文章となりますので隠しておきます。未読の方はご注意ください。


四か月後の健康診断で、軍医に偽の証明書を書いてもらったドローゴは、結局自ら進んで砦に残ることにした。そして彼が砦で過ごす予定だった四か月は、四年になり、最終的には一生になる。

ドローゴの上官の多くは、もう10年以上砦に居る者たちばかり。彼らは何故砦に残るのか。そしてドローゴは、四か月後のチャンスを何故自ら棒に振るような真似をしたのか。

 ドローゴはある希望に支えられて居残る決心をしたのだったが、ただそれだけではなかった、英雄的な考えからだけのことではなかったろう。今のところ彼は気高い行為をしたと思っているし、それが存外悪くもないものだと知って、心底驚いている。だが、幾月もたって、振り返ってみれば、彼を砦に結びつけているものがいかにみじめなものであるかを知ることだろう。
 たとえらっぱの響きや、軍歌を聞いたとしても、あるいは北から不穏な知らせが届いたとしても、ただそれだけなら、ドローゴはやはり砦を去っただろう。しかし、もう彼のなかには習慣のもたらす麻痺が、軍人としての虚栄が、日々身近に存在する城壁に対する親しみが根を下ろしていたのだった。単調な軍務のリズムに染まってしまうには、四か月もあれば充分だった。(P.107-108)

変化はストレスとなる。今いる場所から移動して新しい場所に腰を据えることになったなら、まずはその新天地を検分して危険がないかを確認し、自分にとって暮らしやすい場所となるように環境を整えなければならない。新しく出会う人と挨拶をして、また一から関係を築かなければならない。それは楽しい一面もあるけれど、本能的にはストレスとなる。
だから、一度居場所を獲得したら、そこに留まりたいと考えるのは自然なことだ。あらゆる危機を自分のホームグラウンドで迎え撃ちたいと考えるのも、動物として当然のことだ。人生のイベントに立ち向かうには足場を整える必要があって、それはできれば、ある程度慣れ親しんだ足場であることが望ましい。

四か月を砦で過ごして、上官や同僚の気心も知れて、新しい仕事にも慣れてきて、どうしてわざわざ転任する必要がある? 住めば都とはよく言ったもので、町が遠くても結構なんとかなるものだし、自分がいるのは国境警備隊だし、いつかあの砂漠から敵兵が攻めてきたときには華々しい活躍を遂げることができるじゃないか。ドローゴがそう考えたとしても不思議ではない。
しかしここには大きな落とし穴がある。彼が四か月かけて踏み固めたその足場、その足場を作るのは本当にその場所でよかったのか、ということだ。赴任当初は、もっといい足場を探しに行くつもりだったんじゃないの?
もちろんドローゴはそのつもりだった、でも別にそれは今じゃなくてもいいじゃないか、と、彼は思っていた。

 なにか崇高にして大いなる出来事への予感が――それともそれは単なる希望にすぎなかったのだろうか?――彼をこの砦に引き止めたのだったが、しかし、それもただ砦を出るのを先き送りしただけのことかも知れず、結局のところはなんの支障ももたらさないだろう。彼にはこの先き時間は充分にある。人生における善きことのすべてが彼を待っているように思えるのだった。なにを心配することがあろう。女性というあの愛すべくも不可思議な生き物も、彼には確かな幸せをもたらすもの、人生におけるごく普通の定めによってはっきり約束されたもののように思えたのだった。
 先きはまだなんと長いことか! ただの一年でさえ彼にはとても長いものに思えるし、すばらしい年月はやっと始まったばかりなのだ。それは果てしなく続き、その行き着く先きを見きわめることはできなかった。それは飽き飽きするには大きすぎる、いまだ手つかずの宝なのだった。(P.113)

ちなみに私、今の会社は中途で入ったんですよね。大学生のときに就活が嫌になって途中でやめて、数年ぶらぶらと非正規で働いた後に今の会社に正社員として入りました。そんなに大きな会社でもないし、何年か働いたらまた転職しようって思っていたんですが、気付いたらもうずっといる……
え、ちょっと待って、これまで何度か転職を考えたりもして、でも毎回納得して今の会社に居続けているわけだけど、そうしているつもりだけど、本当にそれは適切な判断だっただろうか? 楽をしようとしていないか? 来る当てのないビッグイベントを夢見て時間を浪費していないって、言えるだろうか?

バスティアーニ砦は、いろんな人のいろんなことに当てはまる。今勤めている会社だったり、自分の所属する交友グループだったり。
そして単調であっても、軍務があれば、毎日何かしら「している」錯覚を覚えるものだ。でも、それってほんとうに「している」といえることなんだろうか。何もしていないに等しい「している」だってあるのだ。「している」つもりで先送りにしているだけであることの、いかに多いことか。
でも単調な日々こそが社会を支えているというのも真実であって、それが悪いわけではない。ブッツァーティも、それを悪だと言いたいわけではないと思う。波乱万丈な人生も、何事もない日々も、等しく時間は流れていくものであって、人生って結局はそういうものだよね、というのを書いているだけなのだろう。
ただ、何かのタイミングで「そのとき」が来たなら、思い切って飛び込む勇気を持っていたいと私は思う。アングスティーナが見事にそれを掴み取ったように。


ドローゴが砦に来たのは、配属の辞令を受けたからであって、志願したわけではない。砦に着いて四か月後の健康診断で軍医に書類を破るように言うけど、それは現状維持のためだった。そんなドローゴが最後の最後に能動的な選択をしたその内容が自殺であるというのは、なかなかに痛烈な皮肉だと思う。しかもそれだって、慣れ親しんだ砦から離れて闘病生活を送るという新たな人生の始まりを自ら拒否したようなものであって、純粋に能動的な決断とは言い難い。ドローゴは最後までドローゴであったということだ。
……と、私は思ったのですが、巻末の訳者解説では「死こそは誰にでも必ず訪れる未知のもの、決定的な、宿命的なものであり、死のみが生というものの不条理から人を解放してくれる(P.345)」と書かれていて、私の解釈とはどうも違うようでした。うーむ。

しかし国境への侵攻のタイミングについては、ドローゴにはどうすることもできないことであり、気の毒としか言いようがない。人生には、自分で何とかできる部分と、自分では何ともできない部分があるというのもまた、真実。

これは、スルメ本なのでしょうね。還暦近くなって読んだらまた感想が違うのかもしれない。大事に持っておこう。