好物日記

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映画『アウステルリッツ』を観てきました

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セルゲイ・ロズニツァ監督のドキュメンタリー映画三選<群衆>、最後に残していた『アウステルリッツ』をついに観てきました。
<群衆>のうち、『国葬』と『粛清裁判』はソ連スターリンに関するアーカイヴァル映画ですが、『アウステルリッツ』は監督自らが撮影した映像をもとにしたもの。ザクセンハウゼン強制収容所で観光客を撮ったモノクロの映像が、94分ひたすら流れます。2016年公開。<群衆>の中で、この『アウステルリッツ』が一番ストイックな作品に感じました。

時折ツアーガイドの説明やちょっとした台詞が入ることがあるけれど、インタビューやナレーションのような明確な説明は一切なし。そのため、観客席に座る我々は、映画鑑賞という行為を能動的に行う必要があります。スクリーン側からストーリーを与えてくれる映画とは違う姿勢にならざるを得ない。いろいろ考えながら観たので、結構疲れました。記憶を呼び覚まされたり、身振り一つを注視したり、連想していろんなこと考えたり。

カメラは定点で、パンフレットによれば約5分程度で次の場面に切り替わっていたらしい(観ている最中には、時間の感覚はよくわからなかった)。収容所のメインゲートの映像から始まって、収容された人々が暮らした部屋と思われる場所や監視塔が見下ろす中庭、処刑場、ガス室、死体焼却所などを観光客が見学する様子が写る。そしてしばらく経つと、次の場面に流れていく。
観光客らは写真を撮り、イヤホンガイドあるいはツアーガイドの説明を聞き、パンフレット片手にぞろぞろと歩く。カメラはそれを写すけれど、観光客らがカメラの方向、スクリーンのこっち側で映像を観ている我々の方を見るとき、彼らが何を見ているのかを知ることはできない。たぶんそこに、何かがあるんだろう。

処刑場で囚人の真似をして記念写真を撮ったり、死体焼却場でポーズを決めて写真だけ撮ってさっさと立去ったり、まぁそういうのは不謹慎だけど、不謹慎だな、というだけのように思う。私がこの映画を観ていて印象的だったのは、この作品での<群衆>である無名の観光客たちと、歴史を語り継ぐために見学施設として公開されている元・強制収容所という歴史的事実との距離感だ。
正直その遠さは、すごくよくわかる。太平洋戦争のときの史料館とかに行って、当時のあれこれを見て、ああ戦争というのは酷いものであった、というような感想を抱いたとして、そのときそれがあったことのリアルさって多分私は全然理解できていないのだ。この徒労感。
良くも悪くも、時間は全てを癒すのだろう。悪く言えば、すべては風化するのだ。傷跡が癒されるのは良いことではあるはずだよな、とも思うのだけれど、全部忘れるのはやっぱり良くない。でもそれなら、どの程度覚えていればいいのだろうか。どこまでなら、忘れても大丈夫だろうか。その線引きは誰かにできることではないだろうから、結局は結果論か。
過去の過ちが歴史的な事象になるのはいつから? すでにもう半世紀以上経っているんだよな。だんだん、どんどん、遠くなっていく。記憶を風化しないように努める活動を無意味だと言いたいわけではないけれど、流れていくのが時間でもあると思うし、なんとかして押しとどめようとしても、限界はあるだろう。だから意味ないって言いたいわけではない、というのはもう一度言っておく。そうではない、けれど、時間ってそういうものじゃないかとも思うのだ。そこに善悪はない。

アウステルリッツ』の映画の中で、建物の中をカメラやスマホを片手に彷徨い歩く観光客はまるで亡霊のようだった。少し遠くから建物の廊下を写した映像があるのですが、セルフィ―棒の先にスマホくっつけてあるく男性とか、ペットボトルの飲み物を飲み干す女性とか、少し遠くからゆらゆらと影のように動いていて、まるで。
加えてツアーに連れられて敷地内をぞろぞろと移動する様子をカメラ視点で見た時は、言い方が悪いけど、従順な家畜の群れを連想した。彼ら観光客は特に何も言わず、積極的に質問もせず、ただ時折シャッターを切って、おとなしく敷地内を引き回される。集団のツアーってだいたいあんな感じではあるけども。
その昔あの建物の中を歩き回ったであろう人々は、どんな風に歩いたのだろうか。今あの敷地の歩道を歩く彼らは、当時あの歩道を歩いた彼らではないけれども、そうではないことと、そうであったことに大きな差はないのだろう。たまたまその時代に居なかった、あるいはたまたまその時代に居た。大して変わらないように思う。どっちだって、ありえた話だ。

なおパンフレットによれば、音については意図的にいじっているとのこと。時折静寂を切り裂く着メロや、視界の外から聞こえる喧騒は、わざとだったのかな。ドイツ語が分かれば、周りのざわざわした言葉の断片も聞き取れるのだろうけど。でもあのざわざわ感も意図的らしいので、多分あまりしっかりとは話されていないのだろう。匿名の囁き。

映像に置いて、まったくもって何の解説もないところが、ゲイハルター監督の『いのちの食べかた』を思い出しました。でもゲイハルターよりも、ロズニツァのほうが、相手に委ねる部分が大きい感じ。
伝えたいことが、情報ではなく「それそのもの」であるとき、言葉は邪魔になるのかもしれない。そこに写っているもの、聞こえることがすべてだ。言葉は範囲を狭めてしまう。

ロズニツァ監督、とても良かったです。観て良かった。