好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

鹿島茂『19世紀パリ・イマジネール 馬車が買いたい!』を読みました

最後の渋谷大古本市で手に入れました。ずっと読みたかった本です!雑誌『ふらんす』に連載していたものをまとめたものとのことで、安心の白水社刊。フランスと言えば白水社。そしてフランスと言えば鹿島茂だ。

19世紀フランス、中でもパリの暮らしについて、当時のフランス文学の記述をもとに細かく解説してくれる本です。あとがきで著者自身が「注が主体であるような本」と書いていますが、まさにそんな感じ。フランスの心理小説は大好きなのですが、19世紀フランスの基本的な交通手段である馬車についてはあまりにも馴染みがなさすぎて、これまではなんとなくぼやーんとしたイメージだけで読み進めていたことをここに白状します。

 われわれ二十世紀の日本人が十九世紀のフランス小説を読んでいるとき、なにがわからないといって、馬車の記述ほどわかりにくいものはない。おそらく、日本の読者は「一頭立て軽装二輪馬車」とか「二頭立て箱型四輪馬車」などと訳者が苦心の訳語をつけても、説明訳の部分は飛ばし読みして、おそらくはただ「馬車」というおおざっぱな概念だけ了解しているはずである。現代の日本人にとってどんな馬車もただ「馬車」であり、「馬が引く車」以外のなにものでもない。(P.202)

そして鹿島茂にもそのことはバレバレでした。せっかく苦心して訳してくれているのに申し訳ない…。「馬車の正確な理解なくして十九世紀フランス文学の理解もありえない(P.202)」というのは確かにその通りだとも思うので、だからこそこういう本を書いてくれたことに感謝しきりです。非常にありがたい。

本書はまずパリへ行くための方法から始まるのですが、もうその時点で乗合馬車郵便馬車、貸し馬車など複数の種類の馬車が登場します。どの手段を選んでパリに行くかはもちろん、例えばその中で乗合馬車を選んだとしても、どの座席に座るかによってその人の階級と懐具合を伺い知ることができるとのこと。そうだったのかー!!

特に面白いと思ったのは、鉄道の座席構造が馬車をなぞっているということです。19世紀の乗合馬車には屋上席(アンぺリアル)が設けられていたのですが、初期の鉄道にもちゃんと同じように屋上席が設けられていたのだとか。

 このように、初期の列車は、あらゆる面で《乗合馬車(ディリジャンス)》の構造をその社会的差異性とともに受け継いだものだったが、フランスの鉄道は、コンパートメント方式や一、二、三等のクラス(一九五四年に一、二等に縮小)といった点で、最近T・G・V・やコラーユ型急行の登場するまでは、基本的に《馬のない乗合馬車》だった。これに対し、アメリカの鉄道の客車は、西部劇のインディアンの襲撃シーンを思い浮かべていただければ明らかなように、日本の新幹線と同じように、中央通路を挟んですべて前方を向いた二人がけの長椅子がずらりと並んでいる。(中略)実はこれは『鉄道旅行の歴史』でヴォルフガング・シヴェルブシュが見事に例証したように、鉄道登場以前にアメリカでもっとも重要な交通機関だった河蒸気の構造をそっくり写しかえたものだったのである。このように、テクノロジーの進歩によって新しい交通手段が登場する際には、意外にその前の時代の交通手段の構造を受け継ぐもののようだ。もし、大型旅客機がフランスで最初に実用化されていたら、あるいはこれもコンパートメント型になっていたかもしれない。(P.38)

ちょっと長いですがつい引用してしまった…こんな感じの面白い話がわんさか載っています。

ちなみに本書のメインは馬車なのですが、馬車以外のことも載っています。
例えば食事。田舎からパリにやってきた小説の主人公たちがどこで何を幾らで食べるかによって、彼らの気質や懐事情を察することができるとか。

感情教育』でも夢想家のフレデリック・モローはオテル・ガルニに住んでガルゴットで食事をしているのに対し、真面目派の秀才マルチノンはサン=ジャック街のパンシオン・ブルジョワーズに下宿している。一言でいえば、詩人肌の青年は《オテル・ガルニ+ガルゴット》、堅実派はパンシオン・ブルジョワーズという、いわば時代を超えた図式が成り立っているのである。(P.83)

こんなこと書かれたら、19世紀フランス文学をもう一度片っ端から読み直したくなりませんか…。まぁおそらくそういう仕込みはあるんだろうとは思ってましたけど、毎回いちいちそこまで調べずに見て見ぬふりをしてしまっていた。
現代日本の小説なら、スタバでキャラメルマキアート頼むとか、吉野家で牛丼食べるとかでキャラクタのイメージがつきます。実際、書く方もキャラクタによって行く店を変える(それによって彼らの嗜好や懐事情をそれとなく示す)ことは当然するのでしょうけど、時代と場所ががらりと変わるともうお手上げなんですよね。なのでこういう風に解説してくれる本の存在というのが、いかにありがたいか!!!

他にも当時のパリで流行っている場所(パレ・ロワイヤル、グラン・ブールヴァール、ルペルティエ街のオペラ座など)について書かれていたり、昼の馬車と夜の馬車の違いについて書かれていたり、「そうだったのかー!」と何度心の中で叫んだことか。非常にありがたいです…

今後馬車が出てくる小説を読むときには必ず脇に置いておきたいです。すごく面白かった。