好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

「英詩研究会」に行ってきました

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ユリシーズ』の読書会でお会いした方に誘われて、研究者でも学生でもない一般人枠として英詩研究会に行ってきました。「普段詩を読まない人にこそ来てほしい!」という心強いお言葉を頂いたので、思い切って参加した次第です。アカデミックな方が多くてドキドキでしたが、とても楽しかったので、忘れないように記録しておく。
なお会で発表された内容について紹介するようなことはここではしておりません。書いているのは一参加者の感想に過ぎませんのであらかじめご了承ください。


私は文学部出身でもないし仕事はIT業だし、英詩というのは正直これまで読んだことがありませんでした。しかも私の第一外国語はフランス語だったので、基本的に英語は苦手です。
ただ母語ではない言語の、しかも小説ではなく「詩」を読むというのは、どのようなことなのかということに興味があったのです。

そもそも詩というものが、私にはわからない。

成り立ちとしては、おそらく最初は歌だったのでしょう。言葉というのは基本的に、文字より音が先に在るものだから。
吟ずるものであったのが文字の発展によって書かれるものになり、耳だけではなく目でも味わわれるものに進化した。そして印刷技術の進化によって大量に頒布することが可能になり、特定の誰か宛てではなく不特定多数に向けたものになったのかな、と考えています。
そこから詩が次第に散文に近づいて行った経緯が良くわからないのですが、印刷技術の発展とかと関係しているのでしょうか。純粋に言葉そのものを扱う詩というジャンルは心に余裕がないと味わうことができないから、産業革命あたりが関係している気がしますが、それは一旦置いておいて。

短歌や俳句や絶句など、韻律のルールがあるものは、詩としてまだ理解できます。でも韻律を取り払った現代詩というのは、いったい散文とどう違うんだ?改行の有無か?

まぁ、なんとなくそれっぽい解釈をすることはできます。散文には要旨がある。一方で詩は言葉の彫刻のようなもので、ピントの合わない不確かな「それ」を言葉によって描き出すものだとかなんだとか。
しかし小説だってそういうことはしています。それを「詩」と呼ぶ理由はなんなのか?詩でなくてはいけないのはなぜ?

…などという疑問を胸に研究会に参加しましたが、結論としては「わからん!」でした。
でもなんだか、わからなくてもいい気がしました。今はまだ。
実際読んでみると、詩は一語に込められた比重が小説の比ではないというか、小説は場面や台詞が単位になるのに対して、詩では一語それ自体が最小単位になるので、純度が高いというか。そこがすごく面白かったです。
あと詩というのものはダブルミーニングがスタンダードなんですね。一つの言葉に複数の意味を持たせることがごくごく普通に行われる。
複数の意味が込められたモチーフをつなぎ合わせてつくられた詩は、複数の見え方が同時に成立するものになります。多分作者は、意図して複数の読み方が可能になるように書いているんでしょう。だからこそ詩の解釈は、読み方を一通りに絞ってしまうと取りこぼしがあるんだろうなぁ。

もうひとつ面白いなと思ったのが、翻訳というのはどうあっても訳者のフィルターを通らざるを得ないというところです。詩では、特に。
ひとつのモチーフが複数の意味を持つときには、音や綴りはもちろん、文化的・歴史的背景が絡んでいることが往々にしてあります。その場合、ひとつの単語が表す意味やイメージは重層的なものなので、そのすべてを体現する日本語の単語がそもそも存在しなかったりする。たとえば an appleをりんごと訳すとき。まずりんごなのかリンゴなのか林檎なのか問題というのがあって、それぞれによって微妙にニュアンスが変わってきます。さらにan appleという単語が表すりんご以外のイメージを考える必要があります。まぁりんごくらい有名な単語なら、日本でも禁断の実を表すことがあると知られているし、知恵や罪の象徴というような重層的なイメージを、すべてではなくても理解しやすいのですが、なじみのないものや特定の歴史的事件が関わるものになると極端に難しくなる。日本語だって難しいのに、いわんや外国語をや。

翻訳で読むときには、翻訳者が元の言葉をどんな言葉で表すか吟味した末の結果しか得られないから、それは翻訳者のフィルターがかかってるんですよね。それは悪いことではないと思います。訳者の違いによる作品の雰囲気の違いは、違うことが自然なことだと思いますし。
だから同じ英詩を読書会形式で読むとき、そこで出される和訳は訳した人のフィルターがかかった訳なのであって、自分の解釈と違うからといってどちらかが間違っているとは限らないのだなとぼんやり考えていました。日本語ではなく英語で詩を読むことの醍醐味というのは、たぶんそういうところにあるのだろうな。

「詩とはなにか」の謎はまだ解けていないのですが、おかげさまで実りあるひとときを過ごすことができました。満腹です。また参加したいです。