好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』を読みました

恐るべき子供たち (角川文庫)

恐るべき子供たち (角川文庫)

ちょっとした機会があってカドフェスの本を買うことになり、新刊として並んでいたこの本を選びました。角川ってメディアミックスが売りだし、普段私が読む系統とちょっと違うなぁと思っていたのですが、これは読みたいなと思った。東郷青児の翻訳と聞いて、どんな文章なのか気になったからです。

コクトーのことは正直よく知りません。カバー裏にある著者経歴を見ると、1889年生まれらしい。東郷青児は1897年生まれなので、ほぼ同年代ですね。東郷青児がフランスから帰国したのが1928年、そして『恐るべき子供たち』がコクトーによって書かれたのが1929年です。リアルタイムじゃん!!というかコクトーはこれを40歳で書いたってことで……そうなのか。そうなのかー。

舞台は20世紀パリ。親を亡くしたエリザベートとポールという姉弟が、互いに競い合うように享楽的な生活を送る話で、ストーリー全体にわたる退廃的な雰囲気がかなり好みでした。金銭的な心配はなく、この姉弟に心酔する少年ジェラールと少女アガートが彼らの精神を満足させ、そして物分かりのいい老女中が暮らしのこまごましたことを支えてくれる。
大人というものが一切排除された彼らの家は聖域だ。そこは彼らの人生を輝かせるための舞台でもある。部屋の宝箱にはその聖域でしか価値を持たないがらくたが詰め込まれ、彼らの会話には余所では通じない独特の作法がある。純度が高すぎて無傷では過ごせない子供時代って感じだ。

 伯父が旅行をしたり、工場視察に行ったりすると、いつもジェラールはモンマルトルの家に泊っていた。彼はクッションを積み重ねた上に寝かされて、古いマントをかぶせられた。正面には寝台が劇場のように彼を見下ろしていた。この劇場の照明は、間もなく劇の始まることを知らせる序幕のきっかけだ。灯はポールの寝台の上にあった。彼はそれを赤い安木綿の布で暗く包んでいた。(P.66)

東郷青児もあとがきで「画家の私から見ると、この詩小説はほとんど色彩を感じない。(p.190)」と書いている通り、この作品は全体的にモノトーンな感じです。雪に覆われた中庭や薄暗い部屋で話は進む。ベッドライトも布で包まれて弱められる。ヴィヴィッドなものは姉と弟の激しい感情の応酬くらいだ。

しかし常に例外は存在する。それがダルジュロという少年です。
ダルジュロは学校のガキ大将で、ポールは昔から彼に憧れていた。この小説の冒頭でポールはダルジュロが投げた雪玉を胸に受けたのをきっかけに病気になって退学するのですが、このダルジュロがね!キーパーソンですね! 彼はこの姉弟に跪かない。彼は彼らの観客にならない。

最初はダルジュロとダルジュロに心酔するポール、そしてポールを愛するジェラールという三人の男の子の三角関係的小説なのかなと思っていました。でもダルジュロは雪玉をぶつけるという使命を終えるとさっさと退場したように見えたし、ジェラールもポールからエリザベートに心を移したように見えたので、あ、そういう話じゃないのね、と思ったわけですが……そんな簡単に退場しなかったですね、ダルジュロ。ポールがアガートに心惹かれたのも、彼女にダルジュロの面影をみたからだ。そして最後の最後でダルジュロが手土産持って再登場したときはそう来たか!と思いました。ダルジュロの放った白い弾丸が、もうあの時からポールを撃ち抜いていたんだな。

 富は一つの才能であり、貧もまた同じく才能である。金持ちになった貧乏人はぜいたくに飾りたてた貧乏を作りあげることであろう。彼らはどんな富によっても、その生活を変更できないほど富んでいたのだ。(P.81)

言葉遣いがちょっと古めかしくって、だからこそ雰囲気あって好きでした。全200頁もない話だけど、私が読み込めていないあれこれがまだまだ行間に潜んでいる気がします。
そして私の中のコクトーのイメージはこの作品によって形作られました。綺麗な言葉を使うひとだな。結構波乱万丈な人生送った東郷青児がこの作品を訳したというのもぴったり合ったのかもしれません。たぶん少年少女の不安定さを心の隅に持ち続けている人なんだと思う、コクトー東郷青児も。生きづらそうではあるけども。

久しぶりに角川文庫の新刊を買いましたが、良かったです。