好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

岸政彦『マンゴーと手榴弾 ―生活史の理論―』を読みました

凄い本を読んでしまった。
実は一度図書館で借りて読みかけたのですが、「まえがき」があまりに面白かったので、これはもっと時間のある時にゆっくり読むべき本だと思い中断し、本屋で買いなおしたという経緯があります。いろんなことが一段落したので満を持して読んだら、やっぱり凄い本だった。

『マンゴーと手榴弾』は、社会学の調査方法について書かれたものです。
社会学というと匿名情報の集大成である統計をメインに扱うイメージがあったのですが、最近では名前を持つ個人のケースを深堀りする方法もメジャーになっているのだとか。社会学では前者を「量的調査」、後者を「質的調査」と呼ぶそうです。
岸政彦は後者の質的調査を主に行うタイプの社会学者で、名前を持つ個人に会いに行ってどんな生活を送ってきたか語られるのを聞き取るという方法を取っています。その人が体験した出来事と過ごしてきた時代を摺合せ、その歴史的事象について理解を深めるというのが彼の研究方法です。
そういう調査方法を取るときに問題になるのが、語りの信憑性と、普遍化の是非です。ひとりの個人がその半生を語るときにどうしても生じる「記憶違い」や「思い出の美化」など、事実と異なる点をどのように扱うかという問題。

この「間違いを含んだ語り」をどう考えるべきだろうか。おそらくこれまでの生活史の方法論では、これらの食い違いはそれ自体が「複数のストーリーの豊饒さ」であり「現実の多様性」であると解釈されていた。それは本当に起きた出来事からは一旦切り離され、世界の複数の語り方として理解されていた。(P.19)

生活史は事実である。それは、いくらかの間違いや誇張や、場合によっては意図的な嘘を含みながら、それでもやはり、そこで語られていることの大半は、事実である。それは実際に起きた出来事なのだ。(P.20)

この意味で、質的調査で描かれるディテールは、「リアリティの複数性」を謳いあげるためではなく、私たちの記憶や経験や語りが世界とつながっていること、それが実際に起きた何かを伝えるためのものであること、そして何よりも、それを実際に経験した人びとがいて、そしてその人びとが語り手としていま目の前に存在し、ゆっくりと人生の物語を語っているのだという、いくつにも折り重なった「事実」を、最後の受取り手である読み手に手渡すためのものである。したがって、語りにおけるディテールとは、実在への回路なのだ。(p.21)

社会学の調査はどのようになされるべきか」という問題に関する著者の論文やエッセイをまとめた本なので、内容を理解しながら読み進めるのは結構時間がかかります。時間をかけて読む本です。

全部で8つの章に分かれていますが、中でも「鉤括弧を外すこと――ポスト構造主義社会学の方法」が一番難しく、一番面白かったです。例えば被差別部落の女性が「ムラの外に出たことがないので差別されたことはありません」と語ったことをどうとらえるか。また沖縄から本土へ出稼ぎに出た後Uターンした人々が沖縄に戻った理由として、「差別に遭った」ではなく「故郷への愛着」を語ったことをどうとらえるか。差別されたことを認識することすらできないかわいそうな立場ととらえるのか。差別はなかったという事実としてとらえるのか。あるいは語った個人のケースにおいてのみ差別はなかったととらえるのか。いずれのパターンにおいても、犠牲になるものがあるけれど、研究者は調査によって得た結果をどのように解釈すべきか。
個人の経験として語られたことを「どのように語ったのか」のみに着目する場合、鉤括弧は外せません。しかし「何を語ったのか」に着目する場合、鉤括弧を外すことができます。語られたものについて鉤括弧の有無を認識するのは、聞き取りを行った社会学者が調査結果を何らかの文章にしたあと、「読み手」がその鉤括弧の箇所を読むときです。鉤括弧の有無が、聞き取った内容に対する学者のスタンスを明確にする。

「聞き取り調査」を生活史の調査方法として有効なものであるとして扱うなら、その括弧は外されるべきだというのが岸の主張です。聞き取り調査によって得た情報は個人特有のものではなく、同じ世界を共有する私たちが同じものを見ていることを前提とした情報である以上、生活史調査の重要な要素になりうる。そのことをいろんな事例を挙げながら論じているのがこの本です。

生活史調査は、人びとの人生の中に実際に存在する、生きづらさ、しんどさ、孤独、幸せ、悲しさ、喜び、怒り、不安、希望を聞き取る調査である。それは、調査の現場で聞き取られた語りを通じて、その人びとはどのような歴史的状況のなかで、どのような社会構造のなかで生きてきたのかを考える。統計データや文書資料などの力も借りながら、特定の歴史的・社会的条件――私の言い方でいえば「歴史と構造」――のなかで生きている人びとの人生について考える方法である。(P.3)

歴史は無名の人々の人生の積み重ねです。統計で全体的な傾向を推測することはできるけれど、実際にその数字を形作るのは個々人の人生でしょう。それなら統計が個々のケースの積み重ねである以上、聞き取り調査による結果が統計調査による結果とかけ離れたものになることはないはず。
数が大きくなると感覚が麻痺する。母数が大きくなると個が見えなくなる。聞き取り調査の対象となった個人を、個が所属する母集団を代表する主語にしてしまうのはいくらなんでも過剰で乱暴だ。しかし統計調査によって得られていた結果に個のケースを足して再計算するなら、より正確な結果を得ることができるのではないか。

理解したい、という欲求は愛の一種だと思う。しかし「正しく理解したい」という積極的な態度を持ち続けることは、正直結構しんどいです。意図しない結果が計算要素に入ってくることもあるし。でも正しく理解したいという気持ちを捨てて、手近にあるわかりやすい結果だけを貪っていると、小さなズレもいずれは大きなひずみになってしまうと思う。

実際のところ、この本に書かれている主張がすべて正しいかどうかはそんなに大事なことではないと思うのです。この方法でいいのか、もっといい方法があるんじゃないか、と問い続け議論し続けることこそが大事なんだと思う。そしてこの本は、その議論の材料を提供してくれている。
そして正しい理解を得るためには研究を学者任せにしておくだけでは不十分で、彼らが書いた研究結果を受け取る我々自身が、その結果が導かれる過程に興味を持ち続けることも大事なのでしょう。
読み手のひとりとして、問い続けるタフさをできる限り持ち続けていたいと思います。