好物日記

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木村陽子『安部公房とはだれか』を読みました

安部公房とはだれか

安部公房とはだれか

読書会で『砂の女』をやるにあたっての参考資料として読んだのですが、非常に面白い安部公房論でした。とてもすばらしい。
著者が早稲田大学で研究した成果を本にまとめたものとのことです。

安部公房とはだれか?それは『砂の女』の作者である、というところから始まって、彼が映画や脚本、ラジオまでオールラウンドに活躍するマルチな男であったことを丁寧に説明しています。同一のアイデアを複数のメディアで展開することを「リテラリー・アダプテーション」というそうなのですが、木村陽子は安部公房がその先駆者であったと指摘。それも、ただの「映画化」「ノベライズ化」とは違って、ひとつのテーマを複数の表現方法で展開しているというのがとても面白いですね。小説が売れたから映画化、舞台が上手くいったから本を出す、とかではなくて、最初から複数のメディアでの展開を想定している。そして時折、違うメディアで表現するときには違うタイトルになったりする。しかし物語の核は同じなのです。

本書で論じられる安部公房像が端的に述べられているのは、以下の部分でしょう。

人一倍の夢想家であり野心家でもあった安部は、若いころから一貫して他人がまだやったことのない先駆的なことをやってみたいと宿望し、それを実行に移すということを不断に繰り返す人生を送った。多くの作家がデビュー時には鮮烈なインパクトを読者に与えながら、次第に自らの持ち味を確立して、それを好ましく思う読者との間に親密な馴れ合いを築いていくのが世の常であるのに対して、安部はちがった。彼はそうした定番化のなかに安住、自閉することを好まず、むしろ積極的にそれを破壊し、自己更新し続けることを自らに課したのである。(P.6)

現役時代の安部公房の個性的で、才能と野心あふれう創造行為を把握するには、今日、全集や文庫といったメディアを<読む>という作業を通してだけではなかなかに到達しにくいのだ。なぜなら、安部は<紙>以外のメディアに実に多くの創作をしており、そこにこそ彼の個性が表れていたとも言えるからである。(P.7)

上記のように解釈した安部公房について一冊を割いて論じているのですが、いやもう本当に、めちゃくちゃ面白くて、感嘆の嵐でした。

なお本書後半部分の作品論では、映画『壁あつき部屋』で「道徳上の有罪、刑法上の無罪(P.198)」の問題を、戯曲『どれい狩り』で大道具として飾られた≪閣下≫の肖像が果たす役割を、小説『砂の女』で男に与えられた「淋病」という性質が象徴するものを論じています。これがまた、どれも非常に面白い。もう話し出したらきりがないので深くは言いませんが、私はこれまで演劇に対してはほとんど興味がありませんでしたが、この評論を読んで観てみたいと思うようになりました。演劇って奥が深いな。映画『壁あつき部屋』のテーマも非常に興味深いです。安部公房すごい…

安部公房はSF作品も多く書いているし、演劇の演出もしているし、マルチな人であることは確かなのですが、「他人がまだやったことのない先駆的なことをやってみたい」という野望が原動力だと考えると納得がいくし、実際その通りなのだと思う。時代の波もあったのでしょう。「時代の狩人(P.296)」という著者の表現に大きく頷きたい。

私は安部公房脚本の演劇も映画も観たことがないのですが、それでも十分に楽しめる本でした。いや観てれば余計に面白いとは思うのですが、論じられている作品を知らなくても流れが良くわかるし、どういう影響を受けてどういう流れになったのかも理解できるので、全作品読み込んでいなくても手を出して問題ない本です。全体的にとてもわかりやすくまとまっているし、文章も簡潔で読みやすい。しかし読みやすいだけでなく、論拠がはっきりしている。簡単にする(細部を削る)ではなく、わかりやすくする(詳細に述べる)方法で読みやすさを保っているところに、著者の文章構成力の高さを感じます。
あとがきにもう一冊出すつもり、とあるので、ぜひ書いていただきたいです。とても良い本でした。