好物日記

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東秀紀『アガサ・クリスティ―の大英帝国 名作ミステリと「観光」の時代』を読みました

アガサ・クリスティーの大英帝国: 名作ミステリと「観光」の時代 (筑摩選書)

アガサ・クリスティーの大英帝国: 名作ミステリと「観光」の時代 (筑摩選書)

クリスティの『春にして君を離れ』の読書会準備のために図書館で借りて読んだのですが、『春にして君を離れ』とはあまり関係なかったです。でも非常に面白く読みました。

著者の東秀紀は都市計画史・観光史家とのこと。2017年発行なのでわりと最近の本ですね。『オリエント急行殺人事件』の新しい映画が出るタイミングで発行されたのかもしれません。
クリスティ作品を「英国の観光史」という観点で分類・考察しようというのが本書の目的です。年代別に当時の英国社会の様子と作品、クリスティ自身に起きた出来事を丁寧に追いかけています。クリスティがデビューした1920年代から、晩年の1970年代まで。それはまさに英国動乱の時代で、観光からみる英国史の本としても楽しめます。
すばらしいのが、個々の作品のストーリーを追いながらも、絶対的なネタバレを巧妙に避けているところ。未読の方も安心してお読みいただけます!
一方で少し気になったのは、時折クリスティの内心の意図を確定口調で記述しているところ。「彼女はそう思った。」とか、わりと断定してしまっているけど、それは「そう思ったのだろう。」なのでは?

しかし「観光」という観点から見ていくというのがとても面白かったです。
たとえば代表作のひとつ『オリエント急行殺人事件』について。舞台となったオリエント急行がいかにして大陸を走ることになったか、という歴史的背景の説明についてもしっかり書かれていました。
それによれば、ワゴン・リ社がパリからイスタンブールまでオリエント急行を開通したのが1883年。しかしずっと列車に乗っているわけにはいかず、途中で船に乗り換える必要もあった。列車だけでイスタンブールに到着できるようになったのは1889年。1890年代には複数のルートが用意されるようにもなったのだとか。ほかにもいろいろ物騒なバルカン半島や野心に燃えるドイツ帝国の思惑が絡み合ったり、ヴェルサイユ講和条約の調印が行われたり、これだけで本一冊になるだろうなあと思われる経緯がさらりと語られます(このあたり、すごく面白そうなのであらためて何か本を読みたい)。そしてクリスティ自身がオリエント急行に乗車した1928年のオリエント急行の様子が語られ、小説のとおり列車内が多国籍な状況であったことが理解しやすくなっています。このあたりの説明、非常に整理されていてわかりやすいです。ありがたい。
ちなみに以前、英国の旅行代理店トーマス・クックが経営破綻したというのがニュースになりましたが、トーマス・クック社の創業経緯についても簡単に紹介されています。時代の流れを追って見ていくと、この100年というのは本当に激動の時代だったんだなぁと思いますね…。19世紀前半あたりのヨーロッパ史ではナポレオン一色なのですが、20世紀になるとドイツの存在感がすごかったのがよくわかる。その間にパクス・ブリタニカ謳歌していた大英帝国がだんだんと変わっていくさまも、市民のひとりとして時代を見つめていたクリスティが書いた作品を読むことでわかってくる、というのが面白い。「『そして誰もいなくなった』のストーリーは、まさに第二次世界大戦の、時代的狂気、閉塞的状況の反映である。(P.130)」という考察はとても鋭く、興味深いです。

そしてもう一つ面白いのが、クリスティが作品の舞台に「田園」を選んだ作品が多いという点の考察です。
本書ではクリスティの作品を大きく3つのグループに分けています。ひとつは「観光」ミステリ。さらに小グループとして、列車や船や旅客機などの交通機関を舞台にしたもの、中東を舞台にしたもの、観光リゾート地またはホテル・別荘を舞台にしたものの3つに分けられています。大グループ2つ目は「田園」ミステリ。ロンドン近郊と、遠い田舎の2つの小グループに分けられます。そして最後の大グループが「都市」ミステリ。ここには小グループはありません。
一番多いのが「田園」ミステリで、一番少ないのが「都市」ミステリとなっています。ロンドンのような都会のほうが人間関係が希薄で犯罪が起きやすそうなのに、なぜクリスティは都市型のミステリをあまり書かなかったのか?英国人がノスタルジーを感じる田園というものは、当時どのように受け取られていたのか?労働党と保守党の政策、アバークロンビーの《大ロンドン政策》とも絡めて論じられているのがとても面白いです。英国の田園には「外郭地帯」と本当に地方の「田舎」があるというのを初めて知りました。日本でいう「武蔵野」の文学的立ち位置みたいなものかな。面白いなあ。

視点が独特なのに加えて、著者のクリスティ作品に対する愛がひしひしと感じられる非常に面白い本でした。恥ずかしながらクリスティをあまり読んでいない私ですが、問題なく楽しめました。でも読んでいる人はもっと楽しめると思う。読んでいない人は読みたくなりますね。
著者の東秀紀さんは他にも面白そうな本を書いていらっしゃるようなので、ぜひ読みたいと思います。ああ、また読みたいリストが長くなる…